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じしんこわいね

穏やかな元日を過ごすはずが正月早々、能登半島を震源にした地震が起きた。

1995年の阪神大震災の時には実家の富山に、2011年の東日本大震災の時には今住んでいる大阪に、せいぜい揺れても震度3程度の地域に暮らしていたために、地震で自宅が倒壊とか、避難所にしばらく避難するとか、そのレベルの本気の大災害に遭遇したことがないまま私は今年40代を折り返した。

だから私は、かつてそれに遭遇した人達よりは防災意識がもうひとつというか、地震がどんなに恐ろしいものか、その本質を多分ぜんぜん知らない。

昨日、1月1日の夕方、ネットニュースの地震速報に気が付いてテレビをつけたほんの数分後にやってきた震度は4。

大阪の自宅はゆらゆらとテレビや本棚を揺らす程度に揺れただけで、本棚から本が飛び出すわけでも、食器棚が倒れてくるわけでもなく、とりあえず本棚の上にある箱や本が落下しないように夫がそれを抑え、ゆっくりと長く続く揺れを怖がる12歳と6歳の娘を私が言ってダイニングテーブルの下に隠した。その後別室にいた14歳の息子が揺れを感知してリビングにやってきて、震源地を確認してからこう言った。

「震源が石川の能登とか輪島やったら、ばぁばん家やばない?」

それで私はまずLINEでメッセージを送った

『地震大丈夫?』

最初は母に、その次に実家で暮らしている姉に。

「いやもうアンタ、地面が揺れててさあ」

そう言って即電話をくれたのは姉の方で、私より3歳年上の看護師をしているこの人は普段からLINEの返信が鬼早い。電話でのレスポンスも光の速さであって、生来まめまめしい性格の人ではあるけれど、救急救命室に10年近く在籍していた経歴はこういう時にきらりと光るのだなあと私は思う。

「きなこ(※実家の黒柴)の散歩中でさぁ、きなこ、フツーにうんこしたし、もう歩いとるがやけど!」

ということで、愛犬の散歩中だった姉はアスファルトがうねるようにして揺れ、街路樹がミシミシと音を立ててしなる中、もう13年も一緒に暮らしている愛犬のきなこが野生の片鱗を1ミリも見せることなく軽快にお散歩を続けていることにややがっかりしていた。普段とにかくきなこを甘やかして、散歩の時にはダウンベストを着せ、寝床もフカフカの布団、歯磨きと肉球のケアを欠かさず、オーガニックのおやつを厳選して与えている犬に何を期待しているのか姉。

そんな地元の三次救急病院に勤めている姉は、災害の時に病院からのオンコール、呼び出しがある可能性があるらしく、今から急いで家に帰るのだと言った、彼女こそが戦うオペ看である。

姉の電話を切ってから、私は次に母の方に電話をした。姉の様子を聞いている限り、自宅もそう大変なことになっている感じはしなかったものの、私の実家が築40年の木造家屋で、水分を沢山含んだ重い雪の降る地域の家らしく頑丈に作られてはいるものの、寄る年波には勝てないというか、あちこちガタが来ているのを知っているものでちょっと心配だったのだ。それに建物の破損がなくても、実家は所謂『田舎の実家』らしく、物がとにかく多い。

「ねえ、あれ一体いつのやつ?そんで何が入ってんの?」

そう聞きたくなるような豊島屋の缶とか、モロゾフの缶なんかが乗っかっている箪笥の上から何かが落っこちてきているのでは、食器棚にも5枚組の食器がいくつも詰まっている、そういうものが母の頭に直撃していたら嫌だし怖いなと、そう思ったもので。

「お母さんねえ、お外におったがやけど、道が揺れてるの初めて見たわ…」

私のかけた電話に出た母は、まず「強い横揺れが怖かった」といってため息をついていた。丁度弟一家が帰省していて、母はその弟一家の飼っているワンちゃんにお散歩をさせていたところだったそう、弟たちは車で実家名物の巨大イオンに出掛けていて留守だった。

「地震なんか、この辺全然ないやろ?能登の方はほんまに大変なことになっとるし、ねー…震度5なんかお母さん初めてで…」

一応父が家の周りを見てきたけれど特に何が壊れているような様子もないし、一番心配な灯油のタンク(北国には巨大な灯油の屋外タンクが各家庭にあるのです)も破損はないようだし、食器棚だけ開けるのが怖い、というのでひとまずは安心した。

母は私同様、大きな地震や災害にあまり出会うことなくこれまで生きてきた人だった。しかし能登を震源とするマグニチュード7なんていう前代未聞の大地震には県民が、というかうちの父がよく口にする「立山の守護」も流石に太刀打ちできなかったらしい、今回実家付近は震度5強。母はその揺れに加えて知人や親戚のいる石川の能登地方が壊滅的な被害を受けていることにも狼狽し、とても恐怖を感じている様子だった。それで娘の私が

「箪笥の上のものは除けた方がいいから弟に除けといてもらい」
「もしもの時の避難所って小学校よね」
「次に大きい揺れがあったらきなこ(犬)を抱えて外に逃げてな」

そのように訓戒を垂れるのを、母はうんうんと電話の向こうで真剣に聞き、多分何度も神妙な顔で頷いていた、見てないけど。そして自分の母親に聞きかじりの「災害の心得」を伝えている私の膝の上には「じしんこわいね」と言って、15分程前の揺れの余韻をまだ怖がっている6歳の私の娘、すなわち母の孫の姿。

まさか断水とかはしないよね、弟達は帰ることができそうかな、犬は平気そう?そういうよしなしごとをひと通り話終わってから母は「電話くれてありがとうね」と言って、電話を切った。

私が小さい頃の母は、人をあまり頼らない人だった。長くフルタイムで仕事をしていたし、実家は遠方、団塊の世代の男の人の多くがそうであるように、夫がまじでなーーーーーんにもしない人だったので、ほとんどひとりで私と姉と弟の3人を育てていた。

私が結婚した後も、孫が生まれるとその都度色々と手を貸してくれたし、特にうちの一番末っ子の、今は6歳になった娘を産んだ時には、その娘が重い持病があって、それを治療するための入院回数が半端なかったせいで、母を何度も富山から召喚しては助けて貰った。

私は夫に「終生、富山に足を向けて寝るな」と言っている。母の協力がなければ、娘は予定していた手術を乗り越えることはできなかったのだから。

でもここ数年は娘も大きくなって入院回数が減り、上の子ども達も以前ほど手がかからなくなって、結果私は母に「どうしても来てほしい」とお願いする回数がすっかり減っていた。そして一番上の子を産んで今年で15年、最初は何をやっても

「ああ、これって母親っていうもののトレースというか、真似事をしてるのよな」

と思って不自然だな、なんか可笑しいなと思っていた私の『母親』役もほんの少しだけ板について自然になってきた。と言っても適当さには定評がある人間なので、傍目にはこれが良い母親に映るのかは知らない。少し違うような気もする。

それでも自分が何とか『母親の役目をそれらしくやれるようになっている』という雰囲気を纏うようになった時、今度は自分の母親がなんだか自分の妹というか、まるで子どものように、娘の私を頼るようになっていた。

私は今、子どもが不穏になるといけないという理由で、地震も台風も、災害時はあえて子どもらの前で「怖い」という単語をあまり使わないし(※歯医者は怖いとフツーに言う、だって怖いから)、何があっても「オカンにまかしとき」という上沼恵美子姐さんの心意気で子どもの前に立っている、そのつもり。

それは私の母がかつてそういう母だったからで、この「頼れるオカン」は正確には上沼恵美子姐さんではなく母のトレースなのだけれど、74歳になった母は、というか昨日の母はそういう人ではなくなっていた。

母は、きっとそういうものからもう降りたのだ。

『皆を守る強いお母さん』を引退した母は、なんだか怖がりで、心配性で、ちょっと可愛い人になっていた。

能登の地震はまだ被害状況の全容がわからない。余震は続いているし、珠洲という美しい名前の町は古い瓦屋根の家屋がいくつも倒壊したまま、あのあたりの、海辺の町には若い方も勿論お住まいだろうけれど、やはりお年寄りが多いのだろうし、そういう方に「怖い」と素直に今の悲しい心情を吐露できる家族があるといいなと思う。

被災地の皆様には本当に大変なお正月になってしまいましたが、とりあえず今日、手持ちのTポイントは夫の分も全部募金にブッ込みました。どうか一日も早く温かで穏やかなこれまでの暮らしが戻りますように。


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