見出し画像

短編小説:いぬの本懐

田舎の古い家というのは冬の雪の湿気や重みで真夜中、ひとがみな寝静まって、目の前に犬の鼻があっても少しもわからないまっくらやみの時間に

「…ミシッ」

なんて不穏な音を立てることがある、それから屋根裏を鼬が鼠を追いかけてバタバタ駆け回って、天井板からはらはらとホコリが降ってくるくらい騒がしいなんてことも。おれは森の中にある古くて大きな家で生まれて、この家に来るまでそこでおれのお母さんときょうだい達と、あとはおれたちみたいなのを沢山育てているじいちゃんとばあちゃん達と暮らしていたから、よく知っている。

けれど今おれがいるここは、前いた家と全然違う、屋根裏というもののない、ケーキの箱みたいに白くて四角い建物で、いたちもいないし、鼠もいないし、雪もそうそう降らない。だから暗い夜にミシミシと音がするのは、きっと家の軋みなんかじゃないんだ。


おれがここにやってくる少し前、まだ森の中の古い家に住んでいた頃、おれは人間と暮らす心得というものをお母さんからたくさん聞いていた。

「いいこと、これから一緒に暮らす家族のことを、あんたがちゃんと守るんですよ、あんたはきょうだいの中でもとりわけ賢くて強い子、できますね」

お母さんがその茶色い瞳でおれをじっと真っ直ぐに見てそう言ったので、おれは大きな声で「わかりました!」と返事をした、ワン!

トイ・プードルのお母さんから生まれたにしては身体が大きくて喧嘩が強くて、その分「ちょっと一緒に暮らすのは大変そうね…家が破壊さそうっていうか…」なんて言われて、結果おれたちきょうだいを見にやってきた人間になんとなく遠巻きにされていたおれが新しい家族を見つけたのはきょうだいの中で一番最後だった。お母さんはおれが『うれのこり』になってしまうんじゃないかって、すごくすごく心配していたんだそうだ。

でも、おれはちゃんと新しい家族と新しい名前を手に入れた。おれの新しい名前は『マル』っていう。

おれの生まれた北の町に温かな風がすこし吹き始めた春、おれのあたらしい家族が新幹線とかいうのに乗って、おれのことを引き取りにきてくれた。

「大丈夫よ、さっきにおいを嗅いだけれどあのひとたちは良い人間みたい。だからね、あんたはあんたの大切な仕事を、新しい家でまっとうしなさい」

知らない人間の6つの目にじいっと見つめられてすっかり固まってしまったおれにお母さんはこう言って、おれの身体をケージからぐいっと押し出した。

おれの新しい家族は、あんまり家にいないと思ったら時々昼まで寝ている人間のお父さん、お父さんは『しごと』というタイヘンなヤツのせいで毎日クタクタらしい、でも家にいるときはおれと遊んでくれる。そして人間のお母さん、お母さんはだいたい家にいるけど、いつもなんだか忙しそうだ、だからおれも掃除機の上に乗ったり洗濯物を咥えて運んだりして家のことを手伝っている、おれはお母さんが大好きだ。

そうそう、人間のきょうだいもできたんだ、モエって名前の女の子、普段は小学校という所に行っているらしいけど最近は割と家にいる、おれはすぐにモエと仲良くなった。それから先輩犬のボン、なんでも知っていて頼りなる黒と茶色の巻き毛だ。でももうずいぶんじいちゃんで、昼間はケージの中に置かれたベッドで寝てばかりいる。犬族というのは先輩を重んじるのが伝統だからおれはボンの邪魔は極力しない、でもちょっとつまらない。それにボンは人間のお母さんが言うには

「ボンはね、もうおじいちゃんだから、ちょっと耳が遠いのよ」

ということだから、話しかける時は大きな声じゃないといけないんだ。

だからみんなが寝静まった夜中におかしな音とか、家族の気配以外の何かを感じ取った時は、若いおれがまず跳ね起きて、バウバウ吠えて皆を守っている。家族を守るのがおれの仕事であり犬族の本懐だ、犬とはそうやって人間とともに生きてゆく生き物なのだと、犬のお母さんは言っていた。


ところでこの家には夜中、へんなやつが出る。鼬でもない鼠でもない、小さい人間の形をしたなにかだ。

そいつは人間のお母さんがおれにって買ってくれたロープのおもちゃとかぬいぐるみが沢山詰まっている箱をほじくり返したり、本棚からモエの本を引っ張り出したり、おかあさんが綺麗に飾っている花の花びらをぶちぶちと千切ったりそれからサーキュレーターのスイッチを勝手に押したりする。

「おい!おまえ!なにしてる!ここはおれの縄張りだ!」

その日も、そいつは何処からともなくやってきて、リビングの真っ暗闇の中でおれのオモチャをおれに向って投げてきた。だからおれはソイツにおれはガウガウ吠えた、そうしてボンにも「たいへんだ、へんなやつがまた来たぞ!」と報告したけれど、ボンは目をつむったまま耳だけをおれの方に向けて

「その子はいいんだよ、好きにさせておやり」

と言うだけでてんで頼りにならない。それでおれはケージの扉に体当たりして外に飛び出し、その変なヤツにまず警告を与えた。

(おいおまえ、ひとの家を荒らすな!)

そうしたらぼんやりと白く光るそいつはにやりと笑って、あろうことかおれの自慢の茶色いシッポをぎゅっと掴んだんだ

「おいやめろばか、そんなことしたら、噛むぞ!」

おれは唸り声をあげた、それなのにそいつはなんだかおもしろいなあって感じでけらけら笑う。なんてことだ、もう噛みつくしかないのか、俺達犬族が人間に噛みつくのは最終手段で最終秘密兵器だ、でもほんとはやっちゃいけないことなんだ、だからできたらあんまり使いたくない。

そう思った時、部屋の灯りがぱっと点いた。そうどういう訳かお日様色のあかりの下でそいつは煙みたいに消えて見えなくなったんだ。一体どういうことだ、本当にへんなヤツだ。この時、部屋の灯りを点けたのはおれの声で目を覚ました人間のお母さんで、お母さんはおれが夜中にワンワン吠えていると

「また淋しくなっちゃったの?マルはまだパピーだもんねえ、ママとねんねしようか」

なんて言っておれを軽々抱き上げては人間の赤ん坊みたいにゆらゆら揺らす。人間のお母さんがおれを好きなのはよくわかるんだけど、おれはもう仔犬じゃないんだから、そういうのやめてほしいっておれは常々思ってる。

(違うんだよ人間のお母さん、今そこにまたあのおかしなやつが来て、ほら、あのくるくる回るやつを勝手につけたんだよ、不法侵入者だ)

おれはこれまで散々そう言ってはいるんだけど、困ったことに人間と犬の間には共通の言語というものがない、だからおれのこの主張は今のところ、人間のお母さんに一度も届いたことがない。

ただ不思議なことに、人間のお母さんは、例えば昼間、おれがモエと遊んでいてつい楽しくなって部屋の中を走り回り、はずみで水の入っている皿をひっくり返したり、モエの靴下を咥えてモエの部屋のベッドの下に逃げ込んだりすると「マル!ダメダメ!」と言って人差し指を立てておれのことを追いかけてきて叱るのに、真夜中にあのへんなやつが来て、そしておれがそいつを撃退しようとして部屋中を駆け回り、床にオモチャやモエの本なんかを散乱させて、昼間人間のお母さんがせっせと片付けている部屋のあちこちを荒らしても、おれのことをひとつも叱らないんだ。

それが一体どうしてなのか、そもそも夜中にリビングに現れるあいつは誰なのか、俺はボンに何度も聞いた。

でもボンはその真っ黒でくるくるとした毛に覆われた体をごろりと横にしたまま、そしてじいさんみたいな(実際にじいさんなんだけど)白い眉毛をほんのすこし、微かに動かして、やっぱりこう言うんだ。

「その子はいいんだよ、好きにさせておやり」

そして続けてこうも言う。

「まあいいじゃないか」

良くない、ぜんぜん良くないぞ。不法侵入者はこの牙でもって追い払うのが、おれたち犬族の使命じゃないか。


おれがそいつと夜中に戦っている間、窓の外に見える大きな桜の木の葉っぱが赤や黄に変わり、そうしていつの間にかそれがはらはらと枯れて落ちた。また、冬が巡ってきたらしい。

おれの「そういうのは、べつに着たくないぞ、むしろやめてくれよ」という主張も空しく、お母さんとモエが「お散歩用だよ」と言って買ってきた妙にモコモコしたダウンベストってやつを着せられるようになったのとほぼ同じ頃、家の中に突然、きらきらした丸いやつだとか、星のかたちをしたやつとか、あとなんだかわからないけどぴかぴか光るやつをぐるりと巻いた木が生えた。

「いいだろう、クリスマスツリーって言うんだぞ」

人間のお父さんがクリスマスツリーとか呼んでいたそれは、おれがフンフンと匂いを嗅いでみっちりケンブンしたあと、その針みたいな葉っぱに噛みついてそれを渾身の力でもって引っ張り、3回ほど引き倒してやった。結局そいつはいま、人間のお父さんとお母さんの部屋に少しきゅうくつそうな感じでちんまりと生えている。

「えーっ、今年はクリスマスツリー、リビングに飾れないのォ?」

モエは不満そうにそう言ったけど、あのなあモエ、木は外に生えているのがほんとうなんだ、それをなんでわざわざなんで家の中に生やすんだ、おかしいじゃないか。

「犬も人間の赤ちゃんも同じね、ツリーとかリースなんかをだいたい千切ったり齧ったりして壊しちゃうの」
「猫もこの手のツリーに登って、やっぱり葉を齧って遊ぶらしいよ、俺の友達ん家はそれでクリスマスツリーを当分、諦めたって」
「そう…マルがオーナメントを齧って食べちゃっても危ないしねえ…」
「モエに今年はツリーを我慢してもらおう、来年はマルももう少し大人になって落ち着くさ」

おれがあんまりそのクリスマスツリーってやつと戦うものだから、人間のお母さんとお父さんは、おれをケージに暫く閉じ込めて、おれが引き倒してやったクリスマスツリーとかいうのを前に腕組みしながらそんなことを話していた。

「マルはまだパピーみたいなもんだし、パピーってのはいたずらで、困ったもんだな、ボンもこんなだったしなァ」
「やだ、ボンはもっと大人しかったはずよ、マルは特別やんちゃなの」

失礼だな、おれはそのクリスマスなんとかが家族みんなにとって安全なものなのか確認していただけだ、これは危なくないかな、人間に悪さをするものじゃないかなって、それだっておれの大事な仕事なんだ。

でも、人間のお母さんとお父さんはおれの数々の仕事の成果を見て

「やっぱりマルって、ボンと違ってまだうんと若い訳だし、家の中ばかりだとちょっと退屈で、それで悪戯ばかりするのかもね」

という結論に至ったらしい。それで、もうずいぶんじいちゃんのボンは1日1回のところ、おれだけ1日2回、家の近くの公園や河原に散歩に連れ出してくれるようになった。

まあこれは、これで楽しいからいい。おれは散歩が大好きだ。


冬がきたと言っても、まだ昼の間は暖かで、晴れた日の公園には金色の冬の日差しがあちこちに陽だまりができていた。モエは家の近くになる銀杏の木のあるこの公園が大のお気に入りで、おれが散歩に行く時にはよくおれについて来る。

「あっ、マルの散歩?あたしも行く!」
「モエ…あんた、今日も学校休んでるって、わかってる?」
「えー…それはさァ、ね、マルだってあたしと一緒に散歩に行きたいよねー?」

(モエがおれと散歩に行きたいというのなら、おれはやぶさかじゃない)

モエは俺といるのがいまとても楽しいらしい。そうだろう、おれもモエといるのはすごく楽しい。ボンも好きだけれど、ボンはもうじいさんだからな、一緒に遊ぶならだんぜんモエだ。

おれは人間のお父さん曰く『エビフライみたいなシッポ』をブンブン振って「いいぞ、行こうぜ」って返事をした。モエはどうやら人間の子どもが本来なら毎日いかなくちゃいけない学校に、ここしばらくあんまり行っていないらしい。どうしてなのかはよくわかない、モエが言うには

「なんか、今はそういう気分じゃないの」

ということだそうだ。別に意地悪なやつがいるって訳でもないし、勉強が嫌いな訳でもないのだとモエは言う、今はおれとボンのいる家にいたいんだって。おれはそれでいいと思う、おれはモエのことが大好きだからな。

そんなモエはおれと公園に出かけると、人間のお母さんがちょっと目を離したスキに、公園の銀杏の木とか欅の木にするすると登ってしまう。しかしおれが知る限り、人間というのは木の上で暮らしている生き物ではないはずだし、その木の上をたとえばサルのように上手に移動できないはずだ。そのことをおれは一度ボンに

「モエが木にやたらと登るのはどうしてなんだ、人間の子どもって、あんな高いとこに登っていいのか?大丈夫なのか?」

と聞いたことがある、ボンは家にいる間はほとんどそこにいると決めているふかふかのまあるいベッドの上で微かに顔を上げると、ふうと鼻でため息をついた。

「あれはモエお嬢さんの悪い癖だ。元気なのは結構なんだが…昔っからまあお転婆でねえ、困ったもんだよ」

ボンはモエが産まれる前からモエのことを知っている。モエは生まれてすぐの頃からとても元気な赤ちゃんで、そしてひとつもじっとしていない子だったらしい。ボンはモエがまだほんの小さい頃はしょっちゅう自慢の巻き毛をむしられていたんだそうだ。

この日、冷たい北風が銀杏の葉を空に向かって巻き上げては落とし、地面にそれはすてきな一面の黄色を作り出していた。けれどおれみたいにフワフワの毛の生えていない人間のお母さんはその冷たい風のせいでちょっと体が冷えてしまったらしい。

「今日は寒いね、お母さんちょっと温かい飲み物買ってこようかな、モエ、マルのこと見ててくれる?」

人間のお母さんはそう言って公園で遊ぶおれとモエからほんの少しの間、目を離した。その時のモエの「いいこと思い付いた」って顔、それを見た時、おれは野生の勘ってヤツが働いてブルって身震いをしたし、同時に犬のお母さんがおれを送り出す時に行った言葉を思い出したんだ。

「ちびちゃん、人間の子どもにはお気をつけなさいよ、ちびちゃんにとってはとても良い遊び相手で、お母さんも人間の子どもをそりゃあ好きですけれどね、でも人間の子どもっていうのは仔犬と同じでちょっと目を離したスキに一体何をしでかすかわからないの、人間の大人とは違うのよ。その人間の子どもの命を守ることも、あなたのこれからの大切な仕事ですからね」

この日のモエの「いいこと」は、俺のことをモエが背負っているリュックサックにすっぽり入れて、それを背負って銀杏の木の天辺を目指して登ることだった。

モエは背負っていたリュックにおれをぽいと放り込むと、おれの顔だけを外に出して両端からファスナーってやつをきゅっと閉め、おれごとリュックを背負うと、公園の中で一番大きな銀杏の木の太い幹をまずは両手で掴み、木の枝に足を掛けては、また次の枝を掴んで、その上へ上へと登り始めた。

地面がどんどん遠くなり、代わりに空がだんだん近くなってゆく。銀杏の葉の匂いも土の上にいくつも落ちているのとは全然違うみずみずしい匂いだ、風もきらりと光って見えるような気がする、でもやっぱり、うん、これはダメだよモエ、やめた方がいい。

(モエ、もう降りようぜ、犬は陸の生き物なんだ、モエだってそうだ。こんな高いところ危ないぞ)

おれはモエの長い髪の中に鼻先を突っ込んでピイと鼻を鳴らした、そうしたらモエはおれが高い木の上を怖がっていると思ったらしい

「マル、怖い?ちょっと高い所だもんねえ、でも大丈夫よ、あたし木登りで落ちたこと一回もないから、心配しないで!」

(ばか、初めての墜落事故の日が今日かもしれないんだぞ、おれは高いといころなんか怖くない、ほんのちょっとくらいしか怖くないんだけど、それはそれとして、ほんとに降りた方がいいぞモエ、こんなとこから落ちたらモエもおれも死んじゃうぞ)

おれがもう一度鼻を鳴らして、モエに早く木から降りるように説得を試みると、モエは今度はおれにこんなことを言った。

「この銀杏の木があたしの一番のお気に入りなの、だからサク君といつか、一緒に登ろうってずうっと思っていたの」
(そうか、だったら木登りはそいつとやってくれ、おれたち犬族は木登りにはぜんぜんまったく向いてないんだ)
「でももうここにはいないの」
(えっ?)
「マルは犬だけどあたしの弟でしょう、サクの代わりにあたしに付きあってよ。ほら、この木の上なら空がうんと近いから、マルのことがサク君にも見えるかもしれないし」
(そのサクっていうのが一体なんなのかは知らないけど、そいつは空にいるやつなのか、もしかしてそのサクっていうのは鳥かなんかか?)

モエがあんまり空を見てよと言うので、オレもお母さん譲りの茶色の瞳でもって銀杏の葉の隙間から見える空を一生懸命見上げてみた、そこにはきらきらと日差しの眩しい冬の空があったけれど、モエの言う「サク」らしい生き物はどこにも見当たらない。

「モエッ!何してるの?えっ、まさかマルもそこにいるの?なんでそんな…とにかく今すぐ降りて来なさいッ!」

モエとの木登りは、両手にココアとコーヒーの缶を持って戻ってきた人間のお母さんが真っ赤になって叫ぶ声でひとまずおしまいになった。

しぶしぶ地上に降りたモエは、人間のお母さんにこれ以上ないってくらい怒られた。

「ねえモエ、何度も言ってるのにどうしてわかんないの、アンタ1人の時に木登りは絶対にだめ、危ないでしょう。もしものことがあったらどうするの、あんな大きな木のあんな上まで登って…もし落ちたりしたら、ちょっとの怪我じゃすまないのよ、マルも怖がるでしょう」

人間のお母さんは怒らせるとたいへんに怖く、その話はとても長い。でもこの日、人間のお母さんの長くなりそうだったお説教は、モエのこのひとことでひとまずおしまいになった。

「…マルのことを、サク君に見せたかったの」

モエの消え入りそうなこの言葉を聞いて人間のお母さんは急に喉になにかが詰まったように押し黙って、それから俯いて人間のお母さんと向き合っていたモエをおれごと抱きしめた。一体どうしたんだろう、おれは状況がよく飲み込めなかったのだけれど、お母さんの長い髪が俺の濡れた黒い鼻にぺったりとくっついてしまって、それがなんだかくすぐったくて、おれはくしゃみをした、はくしょん。

そうしたらモエも人間のお母さんもフフフって笑った。それでこの日はこれでおしまい、もう怒らないよってことになって、モエと人間のお母さんは公園のベンチですっかり冷めてしまった缶コーヒーとココアを並んで仲良く飲んでから、おれと家に帰ったのだった。

モエと人間のお母さん、二人と冬の散歩道を歩くのは嬉しい。ここに人間のお父さんが一緒だとおれはもっと嬉しい。でももしかしたらもうあとひとり誰かがいたら人間のお父さんとお母さんとモエはもっと嬉しいと思っているのじゃないかな、おれはなんだかそんな気がした。


「なあボン、今日モエが、サクと銀杏の木に登りたかったんだって言って、代わりに俺が木の上につれていかれたんだけどさあ、サクって一体何なんだ?」

家に帰って、足をきれいに拭かれるという苦行を乗り越えた後、陽のあたるソファの上でうとうとしているボンに飛びつくようにしておれは聞いた、サクってやつのお影でおれは大変な目にあったんだぞって。そうしたらボンは、横にしていた体を急にむっくりと起こし、そうして前足をきっちり揃えて、居住まいを正してからこう言ったんだ。

「あのなあマル、おまえには言っていなかったけれどな、サクというのは、このお家の坊ちゃんのことなんだ」
「なに言ってるんだボン、この家の子どもはモエだけだろ」

おれはそう言ったけれど、ボンはその思慮深そうな眉毛をぴくりと少し動かしてから首を振った、そうじゃあないんだって。

「サク坊ちゃんはな、オマエがこの家に来る少し前に亡くなった、モエお嬢さんの弟だよ」
「そんなのはへんだぞ、だっておれの犬のお母さんが言っていたんだ、人間は犬よりずっと長生きなんだって、だから俺達犬は人間の家族に置いていかれたりすることはないんだって、安心して人間の家に貰われていきなさいって。そのサクってやつがモエの弟ならモエよりもっと子どもだろ、だったらおかしいじゃないか」
「そりゃあそうだが、まれにな、赤ん坊だとかほんのちいちゃな子どもが病気なんかでうんと早くに儚くなるってことはあるんだ。犬だって、ごく小さいうちに死んでしまうのがあるだろう、マルのきょうだいにもそういうのが一匹くらいはいたんじゃないのかい?」
「いたけど…でも、どうして?」
「さあなあ、神様のお考えになることはおれにはわからないよ、でもそれがご主人や奥さんやモエお嬢さんにとって途轍もなく悲しい出来事だったってことはおれにもよくわかる、とても可愛らしくて愛らしい坊ちゃんだったんだ。なあマル、犬にとっても、人間にとっても、じぶんの子どもを亡くすってことは、この世界におきる出来事のうちでいちばん寂しい、悲しいことなんだよ、わかるかい?」

そうなのか?おれはそういうのわからないけど、おれの大切な家族がずっと寂しいなって思って暮らしているのは嫌だなって、そう思うぞ。


その晩のことだ、また例のおもちゃをごそごそとやるあいつが、リビングにあらわれた。

でもおれはもうガウガウ吠えたりしない、それは今日の夕方、ボンが「オマエが真夜中に見たへんなやつというのはきっとサク坊ちゃんだよ」って言ったからだ。おれはボンが何をいっているのか分からなくてそれを3回聞き直した、だってボン、サクはもういないんじゃないのか、亡くなったんだよってさっきおれに言ったじゃないか。

「何て言ったらいいのかなァ、マル、若いおまえにはまだ理解するのが難しいことかもしれないが、犬も人間も、この身体だけで生きている訳じゃあないんだ、身体っていう器の中に入っている魂によって生かされてる、そしてその魂ってヤツは消えてなくなることはないんだ、永遠なんだよ」

だから俺は聞いたんだ、エイエンてなんだよって、それは食えるのかって。そうしたらボンはまた少し考えてからこう言ったんだ。

「エイエンていうのはな、おれやおまえや、旦那さんや奥さんやモエお嬢さんがずーっとサク坊ちゃんのことを覚えているかぎり、坊ちゃんの魂が決してなくならないんだってことをいうのさ」

俺達犬族は鼻が良くて耳が良くて、なにより勘がいい、だからそうやって遠くに行ったはずのサクってやつが、気が向いてここに戻ってきているのが気配でわかるのだそうだ。ボンは最初からサクがこの部屋にきていることがその気配でなんとなく、分かっていたんだって。

「まあ、おれには坊ちゃんの姿までは、よく見えないがね」
「ボンにはあいつが見えていないのか?どうして?」
「いやァ、おれは随分年をとってしまったからな、目も随分悪くなったんだ」
「じゃあ人間のお父さんやお母さんやモエは?サクに気が付いていないのかな」
「そうだな、人間ってのはおれたち犬族よりも目はいいんだが、おれたちより耳も鼻もよくはないからなァ、なかなか天国からふらりと遊びにくる魂には気が付かないんだ。いや…でもこの家の旦那さんと奥さんは、時折、サク坊ちゃんが遊びにやってきていることに気が付いているのかもしれないがね、かつてその魂の血族であったものは、そういうものにとても敏感なんだ、なにより心のとてもうつくしい人達だからな」

おれはこの日、おれのお気に入りの恐竜のぬいぐるみの腹をおしてピイピイ音を鳴らしているサクらしいその白い影に向って前足を投げだしてお尻をぴこんと上げてみた、これは犬の「あそぼうぜ」って合図なんだけど、人間にはこれがわかるやつと分からないやつがいる。

でも、サクはおれの合図が分かったみたいだ。

サクはちょっと笑って、そしておれと部屋中追いかけっこをした。おれたちは、ボンの飲み水の入った赤い皿をなぎ倒し、モエのいつも眺めているたぶれっととかいうのも蹴っ飛ばして踏んだ、それからサクは写真とか花なんかが飾ってある棚によじ登り、そこのある犬のぬいぐるみを掴んで俺に投げてきた。なんだこれ、おれにくれるのか?おれは嬉しくなってそれを咥えて上下にブンブン振ってやった。

(たのしいな、たのしいな、おまえ、昼間も遊びに来るといいよ、おれ待ってるからさ)

おれがそう言うとサクは、何度も何度も頷いていた、もしかしておまえって犬のことばかわかるのか、すごいな、てんさいかよ。

「こんな遅くになに騒いでるの?マル?」

おれ達の大騒ぎを聞きつけた人間のお母さんがやってきてリビングの灯りをつけた瞬間、サクはまたすうっと溶けるみたいに消えてしまった。なんだよ、つまらないな、もっといたらいいのにさ。

「もう、またこんなにちらかして…」

人間のお母さんはひっくり返された水のお皿やあちこちに散乱しているオモチャや紙くずを見てため息をついてから、おれのことを「おいで」と呼んだ、それでおれはお母さんにサクがおれに投げてよこしたぬいぐるみを見せたんだ。

(見てくれよ人間のお母さん、サクがおれに投げてくれたんだ、これは犬だろ、おれに似てるな、きっと仲良くなったしるしにおれにくれたんだ。おれ、あいつに今度からもっと遊びにこいって言っておいたからな、なんなら毎日こいって、そうしたらモエも人間のお父さんも人間のお母さんも嬉しいだろ?)

「これ、サク君のワンちゃん…あんな高い棚の上に置いてあるのに、あの子の写真の横に…これがどうしてチビのあんたに取れたの?マル?」

(だからさ、来たんだよ、そのサクってやつがさ!) 

おれはシッポを出得る限りの速度で振って、人間のお母さんにサクが遊びにきていたことを知らせた、お母さんはおれの言ってること、わかってくれたかな。

「なあマルや、おれたち犬族が一緒に暮らす人間の家族を守るっていうことはな、なにも泥棒や、強盗や、怖いものからお前のそのちぃちゃな牙で戦って『守る』ってことだけではないんだよ」

おれは夕方ボンが話したこの言葉を一言一句、この頭に刻んだんだ。おれは賢い犬だ、いろんなことをちゃんと理解できるし、わかってる。

おれはリビングの真ん中でおれから渡されたぬいぐるみを持ったままぼんやりしているお母さんの膝に駆け上がった、そうしてお母さんの肩に前足をかけてその顔をベロベロ舐めた。

なあ人間のお母さん、あいつはいつも楽しそうだぞ、白く光っていてとてもきれいだ。これからはおれがあいつといつでも遊んでやるし、この家にきた時はおれが吠えてみんなに「サクがきてるぞ!」ってちゃんと知らせてやるからな。








サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!