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みんなと一緒にチャレンジすることと、みんなと同じことをすること

今週は小学校で講演してきました!!
子どもたちがとても積極的に発言してくれ、すごく元気いっぱいで助けられました。話し合いのコーナーでもぼくが思いもよらない発想が飛び出してとても楽しかったです☺

以下、講演内容です。

今日は僕の話を聴きに来てくれてありがとうございます。とちゅうでわからないところもあるかもしれないけど、みんなが楽しく聞いてもらえるようにがんばるから、「がんばって~」と応援してね。

いきなりだけど、みんなにクイズ!!幼稚園から今まで車椅子は何台乗り換えてきたでしょう?

こたえは・・・8台!!8台って多いよね?なんでこんなにたくさん車椅子をのりかえてきたんだと思う?
もちろん、子どものころからだんだん背は伸びるし、体重も増える。だから、車椅子のサイズも変えなくちゃいけない。でも、それだけじゃないんだ。
幼稚園のころはベビーカーにのっていた。小学校のころはバギーといってベビーカーをもうちょっと大きくしたのにのっていた。じゃあ、ベビーカーや今の車椅子のちがいはなんやと思う?
重さもカッコよさも違うけど、やっぱ一番のちがいは自分で運転できること。ベビーカーやバギーは人に押してもらわないといけないから、公園に行きたいときは「公園まで行きたいので押してください」って人に頼まないといけません。休み時間に運動場に遊びに行きたいと思っても、自分では動けず、友達に「運動場まで一緒に連れていってー」と言わないといけないんです。
幼稚園から今まで8台も車椅子をのりかえてきたのは、実は1人で外に出かけるためだったんです。自分で行きたいと思ったところに行くためだったんです。
ちっちゃいころはどこかに出かけるときは周りの大人や友達に「ぼくもいっしょに連れてって!」と頼めばよかった。みんなが行きたいところがだいたいぼくの行きたいところだったから。ぼくの親は公園や遊園地に連れてってくれたし、友達は運動場や公園に連れてってくれた。

1年生のころはみんながぼくのバギーを押したがって、ぼくは人気者だったなぁ。幼稚園とか小学2年生のころはみんなと外で自由にかくれんぼや鬼ごっこをして遊んだなぁ。小学1年生のころの写真です。
 学校が終わったら、友達が家まで迎えに来てくれて友達だけで公園に行って遊んだり、家の中でクリスマスパーティーをした思い出があります。あのころはまだ「自分よりあの子のほうが歩けていいなぁ~」とかはあまり考えず、友達に囲まれて遊ぶことが楽しかったのです。
そんなぼくでも「自分でやりたい」と思うことがありました。1年生の運動会で100m走を初めて走るとき、「翔くんはどうやって走るの?」とみんなが言いました。
みんなはどう思う?
ぼくは歩けないから、みんなみたいに走れません。走れないけど、みんなみたいに100m走を走るとしたらどんな方法があるかな?

100m走のことをクラスで話し合っているとき、「先生かわたしたちが翔くんのバギーを押したらいいやん」とだれかが言いました。
これ聞いてみんなはどう思った? この子、やさしいよね? だって、翔くんは歩けないんだから、わたしたちが助けてあげないと、と思ったんだよね? しかも、「翔くんは見学しとけばいいやん」と思うんじゃなくて、「翔くんもわたしたちといっしょに走ろう」と思ってくれた。
「翔くんもわたしたちといっしょに走ろう」と思ってくれたことが一番うれしかったなあ。歩けなくてもクラスの一員としていっしょにチャレンジする。「翔くんもぼくたちの仲間だ!」と言われたみたいですっごくうれしかったよ。
仲間と力を合わせて何かに取り組む。それはとてもたのしいことだし、生きるって楽しい!と思える瞬間かもしれない。
でも、「仲間と力を合わせて何かに取り組む」ことと「友達全員が同じことをする」って同じことなんだろうか。
みんなが同じことをする、って言うときの“おなじこと”っていったいどういうことなんだろう? みんなで同じ速さで走ることなんだろうか。そんなことできるのかな?
足で歩くのでも、車椅子を押してもらってでもひとまずスタートからゴールまで走り切ったらみんなと同じことをしたと言えるのかな?ゴールすることが大切なのかなあ。

うーん、これはじつはすごくむずかしい問題なんだ。マラソンをやる中でどこを大切にするかって人それぞれいろんな意見があると思う。
「ぼくはだれよりも速く走って、一番になるんだ!」と思う人もいて、
「遅くてもいいから、最後まで走り切りたい!」と言う人もいて、
「誰かの手を借りながらでもいいからみんなと走り切りたい」と言う人もいる。

 100m走でどんな力を発揮できるかもその人その人でちがってくる。
ぼくはクラスの一員としていっしょにチャレンジできることはすごくうれしかった。仲間としてみんなに認められていることがうれしかった。
でも、みんなと一緒にチャレンジすることと、みんなと同じことをすることって何かが違うとぼくは思ったんだ。みんなはどう違うと思う?

みんなと一緒にチャレンジすることは、それぞれ一人ひとりにできることを出し合って、ふとくいなところは助け合って取り組むこと。チャレンジってできるかはわからないけど、まあやってみよう!っていう感じ。
でも、みんなと同じことをすることは、みんなが同じことをできないとだめ!というプレッシャーがある。体力も違うのに、体つきも違うのに、みんなが同じことをできないとだめ!と言われたら、みんなはどう思う?めっちゃできる子は喜んでやるかもしれない。でも、めっちゃできる子ばっかじゃないよね?走るスピードが遅い子もいるし、体力もさまざまだ。それなのに、みんなが同じことをできないとだめ!と言われたら、無理して疲れたり、なかなかできなくてイライラしたり、もう参加したくなくなったりするよね?ズル休みをしたりするかもしれない。でも、そのズルはその子の気持ちなんかおかまいなしにみんなが同じことをできないとだめ!というプレッシャーからくるものなんだ。
なんかみんなと同じことをするって仲良く感じるけど、本当にいいことなのかな?

ぼくが運動会で100m走に挑戦するとき、クラスの一員として取り組みたいと思った。でも、「先生かわたしたちが翔くんのバギーを押したらいいやん」という考えはなんか違うと思った。みんなと同じタイミングでゴールしたいとか、みんなと同じ速さで走りたいというんだったらこれでいいかもしれません。
けれども、ぼくは「みんなと同じことをする」ということにとくにこだわりませんでした。みんなと同じじゃなくても、たとえみんなと違っても、自分の力で一歩一歩走りたいと思ったんです。
歩けないぼくが一歩一歩走る? どうやって? とみんな思わなかった?さあ、どうやってでしょう?

“走る”といっても、足で走ることだけがすべてじゃありません。ぼくは四つ這いになって、手のひらと両ひざをついて、ゆっくり100mを走り切りました。走るとき、ぼくが痛くないように、先生がシートをしいてくれました。友だちが「ガンバレ!」とかけ声をおくってくれました。
四つ這いで走るのはみんなと同じじゃないけど、ぼくの体の特徴を生かした、ぼくなりの走り方です。みんなと同じことをするんじゃなくて、みんなと「どうやったら翔くんは翔くんの力で100m走に参加できるんだろう」と考え抜いた結果、生まれたのが四つ這いでした。100mは四つ這いでぼく一人の力で走ったけど、ぼくが走りやすいようにしてくれたり、時間を伸ばしてぼくのペースで走れるようにみんなが待っていてくれたりしたのは、みんなの力が結集したからできたことでした。
みんなが同じことをしないといけなかったら、少ない人たちだけができて、そこそこできる人が数人ぐらい、あまりできない人やほとんどできないひとは取り残されてしまいます。みんなの力はバラバラです。同じことをしているふうに見せかけることもできますが、一人ひとりの心はバラバラです。
でも、一人ひとりは違っていいから、一人ひとりにできることを出し合って、ふとくいなところは助け合って取り組むのは、じつはバラバラではないんです。むしろ、こっちのほうがみんなの力は強いんです。違っていいから、一人ひとりにできることを出し合って、ふとくいなところは助け合うにはどうすればいいのかな? 

みんな、ちょっと考えてみて。

まず、そのためには一人ひとりどう違うのかをちゃんと理解しないといけないよね?違いを理解するためには、違うってことは悪いことじゃないとわかることが大切なんだ。ぼくにはみんなにはないしょうがいがある。まずはこのしょうがいを理解することが大切なんだ。でも、“しょうがいを理解する”ってなんだろうね。「河合さんは歩けません」「できないことが多いです」と思うことなのかな?

そうじゃないと思う。大切なのは「翔くんをできなくさせているのは何かな?」と周りのみんなも考えることだよ。

「翔くんは歩けない」と思ったらそこであきらめなくちゃいけません。でも、“歩くこと”ってなんで大切なんだろう?どこかに行きたかったり、移動するためだよね?じゃあ、翔くんがどこかに行ったり、1階の教室から2階の音楽室に行くにはどうしたらいいんだろう?バスや電車に乗って遠くに行くにはどうしたらいいんだろう? 聞き取りにくい翔くんの言葉を聞き取れるようになるにはどうしたらいいんだろう?

みんなも考えてみて。

さて、さっきはみんなと一緒にチャレンジすることが楽しかったって言ったけど、高学年になってくるとやっぱりみんなと同じことをしたい!と思うようになりました。車椅子も人に押してもらわないといけないバギーからぼく一人でも手でこげるような手押しの車いすに変わりました。車いすになって、ちょっぴりだけど人の手を借りずに廊下とかをゆっくりと走れるようになりました。
「みんなと同じことをしたい」という気持ちはいろんなところにあらわれてきました。ぼくも四つ這いじゃなくてみんなといっしょに歩きたいと思うようになりました。4年生ぐらいまでは運動のために車いすに乗らず、教室とか廊下を四つ這いで這っていました。四つ這いで鬼ごっこやかくれんぼをしていたんです。頭を打ってケガをしないようにヘルメットもつけていました。
3年生ぐらいまでは四つ這いでもみんなと一緒に遊んでいましたし、ときには取っ組み合いのけんかもしていました。
けれど、4年生ぐらいになると四つ這いになることが“はずかしい”と感じるようになりました。子どものころに感じた“はずかしい”という気持ちは大人になった今でもよくわかります。だって、みんな背が高いのにぼくだけいつまでたっても低いし、みんな速く走っているのにぼくだけノロノロしているし、四つ這いだから時たま知らず知らずのうちに女の子のスカートの下らへんにぼくのアタマがきてしまうこともありました。そんなことってはずかしいし、いやですよね?しまいに、ヘルメットをかぶることもはずかしくなり、ヘルメットもつけなくなり、四つ這いもやめて、車いすに乗っていることがふえました。
「みんなと同じことをしたい」という気持ちはほかのところでもあらわれました。テストで100点満点をとりたいと思うようになりました。とうじは、100点満点をとることがみんなと同じことをすることだと思っていたみたいです。なんでだろうね?みんなと同じことを勉強してるから?勉強したことは理解できて当然だから?
100点満点をとることがみんなと同じことをしているとどうして思ってしまったんだろうか。よくわからないけど、100点満点をとることがいいことだとみんなから思われるからかもしれないね。テストで満点をとるとみんなから「すごいね」とほめられるし、そのままいい点をとり続けるといい大学って言われているところやいい会社って言われているところに入れるからなのかもしれない。そんな生き方がみんなからほめられるから、みんなと同じことをしていると感じたのかもしれません。
けれども、100点満点をとることがいいこと、みんなと同じことをすることがいいことだと思ってしまうと、100点満点をとれなかったときにすごく落ち込みます。自分がいやになります。みんなもほめてくれないんじゃないかと不安になります。しだいに、勉強でわからないことがあると自分がはずかしくなり、「わかりません」とすなおに言えなくなります。
でもさ、100点満点をとることがみんなと同じことをしていることだと思うのって、よく考えてみるとおかしいよね?だってさ、同じ授業を受けていても、先生の言うことをどこまで理解しているのかは一人ひとり違うと思うんだ。ほんの少しの人はほぼかんぺきに理解できていても、ちょっとだけ理解できている子もいるし、もう全然わからへーんという子もいます。でも、ほんの少しのできる子がすごくほめられたり、いいことだと思われると、ほかの子たちはついていけないことがはずかしいと思ってしまったり、自由に発言できなくなったり、学校が楽しくないと思ってしまいます。

いったい、勉強ってなんのためにするのかなあ。「自分はこんなに偉いんだぞ」と見せるためなのかな~?
ひとつぼくから言えることがあるとすれば、勉強ってわからないことを学ぶためにするんだと思います。人の心だって、この人はいまどんな気持ちでいるんだろうか?っていうのは考えないとわからないよね? 言葉がわからないとほかの国の人の気持ちはわかりにくいし、日本という国やほかの国の文化もどんなふうにできてきたのかも勉強しないとわからない。最近ゲリラ豪雨とか災害が多いけど、自然環境が今どうなっているのかも調べてみないとわからない。男女の格差とか子どもがいまどんな悩みを持っているのかも数字で表すとわかりやすいこともある。
だから、勉強ってわからないことがあるからするんです。勉強すればするほどわからないことがふえてきます。でも、それでいいんです。わからないことがあったらどんどん先生や友だちに話してみてください。わからないことを楽しみましょう!

そんなこんなで月日がたち、中学生になりました。中学生になったころから、手押し車いすに自分で運転できるスティックがついた小さな電動車いすに変わりました。自分で運転できるようになったので、もっと遠くに行きたいと思い、バスや電車に乗るようになりました。さいしょはバスに段差しかなくて、乗るときも運転手さんから「きみ一人では乗れないよ」と言われましたが、何度もバス会社と話し合ってスロープがつくようになりました。さいしょはみんな同じように、バスは歩いて乗るものだと運転手さんは考えていたらしいのですが、ぼくと出会って、「車いすでもバスに乗りたい人がいるんだ」とバスの運転手さんが少しずつ学んでくれたんです。車いすで乗る人をみたときに「うわっ! 時間がかかってめんどうだなぁ」と思うんじゃなくて、「これまで車いすに乗る人のことを考えてこなかったから、バスはだんさだらけなんだ!」と気づいてくれて、「スロープをつけなきゃ!」と思ってくれたんです。

経験したことがないことを経験したとき、ひとはそのことをこわく感じたり、「どうしよう…..」と不安になることもあります。そんなときはどうすればいいのかな? 

ぼくがアドバイスできるとしたら、学ぶことが大切なんじゃないかな? 学ぶとき、勉強するときに大切なのはなんだったっけ? “わからないことを知る”ことだったよね?そのためには、相手の人のこともわかっていないことがいっぱいあるし、自分も今まで考えてこなかったことに気づく。じゃあ、なんで今まで考えてこなかったんだろうか?これを考えてみるのも大切だね。

さて、ぼくは高校に行ったあと、大学にも行って、そこでたくさんの友だちに出会いました。
大学では勉強も楽しかったけど、友だちといろんなところに旅行に行ったことが楽しかったなあ。
次の写真は友だちが住んでいる北海道に遊びに行って、いっしょにつりをしているようすです!
北海道の魚はうまかった~
夜はバーベキューもしたなぁ~


大学を卒業したあとは、大学のときの友だちとインドに行ったなぁ~。インドに行った理由はボランティアをしたかったからです。障害のあるぼくがボランティア!?と思った人もいるかもしれません。障害があってもなくても「だれかのために何かやりたい!」という気持ちは同じです!
さて、いざインドに行こうとしたとき、いっしょに行く友だちから「翔くんって英語とくいだったよね?とまるホテル予約しといてよ」とたのまれました。「むちゃぶりやん!」と思いつつ、英語でインドの人とやりとりし、いいホテルに泊まることができました!
下の写真はインドの道ばたで出会った車いすのおにいさんです。日本から持ってきた車いすでインドの街を歩いていると、たくさんの人がぼくのほうによってきて、なにかをぼくに聞いてくるんですね。なんて聞いたと思う?

こたえは・・・「How much?(それ、いくら?)」です。むこうだと高く売れるんですかねぇ……


次の写真はインドのものすごくデカい川、ガンジス河です!

 下の写真はガンジス河で現地の人々がお風呂に入っているところです。

ガンジス河は聖なる河ですが、日本人の体質には合わない、入ったらどうなるかわからんでーと脅されたので足だけ浸かろうと恐る恐る入ったのですが、なぜかぼくだけずっこけて全身浸かってしまいました。ガンジスの神様が引きずりこんだんですかねー。

 さて、お話ももうおわりに近づいてきました。
 
 みんなもこれから生きていく中でいろいろあると思うけど、考えること、創造をふくらませること、夢を持つことを楽しんでください!

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