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ゲンジ物語0915(セミと子ども)

めずらしく、短編小説です。
いつものスナック感覚とは違って、消化に悪いかもしれないので、面倒であれば読み飛ばしてください。
(原稿用紙7枚ぐらいの分量です)


「あいつら出てきたばっかりのやつまで食べちゃうんだ。ジージジって、セミがかわいそう。とにかく、あいつらは悪いやつなんだ!」
 唐突に息子は、まだ布団にいる私にそう言い放ち、夏休み初日の早朝から近所の公園へ出かけたらしかった。今でもまだセミ捕りは子どもたちの日課なのかと思うと、私は少しほっとして、洗面台へと起き出した。山からそのまま素直に降りてきたような、うっすら草の香りのする爽やかな風が、夏の朝を清々しく感じさせる。
「私も虫採りに行きたいなあ…」
「何か言った?」
「いいや、なんでもない。」
顔を洗うとスイッチが入ったように、自動的にシャツを着てネクタイを締め出勤の準備が整った。
「みずきにおにぎりを届けてやってね。」
「わかった。いってきます。」
「いってらっしゃい。」
私は自分の弁当と息子のおにぎりを持って、家を出た。

 早くも刺すような日差しに変りつつある。公園に寄ると、彼は短い棒と手を必死に振り回し、たった一人で何者かと戦っている様子だった。山や空を、そのまま受け入れ見ることのできる黒目がちな瞳。彼を見ているとすべてのしがらみが嘘のような、そんな幸福感に包まれるのは、私がいつのまにか大人へと不完全変態を遂げたことを示す悲しい証拠でもある。
「どう?順調?」
「だめだよ、お父さん。僕が追いかけたときは逃げるからいいんだけど、またすぐに戻ってくるんだ。それに空も飛べるしさ、数も多いんだよ。なんかいい方法知らない?」
おにぎりの中には彼の好きな鮭がたくさん入っていることだろう。
「おにぎり、置いとくからな。」
そう微笑んで、私はバス停へと向かう。みずきには友達がいないのだろうか。しかし自分もそうであったとすぐに気を取り直し、その場をあとにした。

 次の日も、またその次の日も、彼は誰もいない公園へ出かけたが、四日目、夏という大義名分のもと容赦なく照りつける炎帝の前に、ついに倒れたのだった。
 ぼんやりと考え事をしながら家に帰ると、夜もまだ七時前ではあったが、彼はすうすうと寝息をたてていた。
「一日二日ゆっくり休めばすぐによくなるだろうって。軽い熱中症みたい。」
 私は束縛の直喩であるネクタイを緩め、静かに眠る息子の額を撫でた。うっすらかいた彼の寝汗が、手のひらに冷たく感じられた。

 それから二日間、彼は母親の言いつけどおり家でおとなしく過ごしていた。しかし相変わらず太陽よりも朝は早かったし、何かをじっと考えている様子だった。その横顔にはどこか、貪欲な色がかかってみえる。私はそれを同じ男としての何かで感じ取り、父親として少し浮き足立った気持ちになっていた。

「ねえ。」
「ん?」
二人で洗い物を終え、エプロンで手を拭いていると妻は、急に改まったように話し始めた。
「ちょっと相談なんだけど、みずきを塾に行かせようと思って。来年はもう五年生になるし、いい時期じゃないかなって。」
 テーブルをはさんで、妻は私の向かいの椅子に腰を下ろした。佳子もまた月並みな容姿だろうが、私は彼女のこういうなんでもない仕草が、好きなのだ。
「隣のユウヘイくんも夏から行ってるらしいの。みずきは一人っ子だし、塾で友達も出来ると思うんだけど。私立中学のことは分からないけど、受験するのも一つの選択肢じゃないかなって。」
「そんなこと。あいつは、野球、習っているじゃないか。野球選手になりたいとか、こないだ言ってたよ。塾なんて、みずきが決めたんならともかく。あいつの好きにさせとこう。」
 私はややぞんざいな態度でこう言った。自分の子を信頼しているからか。いや、違う。私は仕事の疲れの何割かを確実に、みずきによって解消している。自由なみずきを欲しているのは、みずきではなく私なのだ。
「野球なんて、それで食べていけるわけじゃないのに。」
「わかってる。だけどそうやって誰かに安全な道ばかり選んでもらうのもどうかと思うよ。自分で選んだことをやりたいようにやって、苦労するのも満足のうちだよ。」
私は誰に意地を張っているのか分からなかった。

 次の日息子はいいことを考えたと言って、虫捕り網に大きな虫かごを抱え出て行った。時計はまだ六時を指していない。その顔は妻の心配をよそにすっかり元気を取り戻していた。

「ちょっと、見てほしいの。」
その夜、会社から帰ると妻が不安そうな、または少しく恐怖の色を帯びた顔をしてダイニングに立っていた。
「みずき、急にセミを飼うって言って…それもあんなにたくさん。」
見ると息子の机の上にはセミが黒々とひしめく虫かごが二つ、大切そうに置かれていた。私は一瞬ギョッとなった。こんなにたくさんのセミを息子は一人で捕ったのだろうか。このセミどもが今、静かなのは恐らく、息子が部屋を暗くしているからだろうが、時折羽ばたきと共にジ…ジジ、とうめくように鳴いているのが聞こえる。妻が気味悪がるのも無理はない。大量のセミが蠢く様は生理的な嫌悪感や拒絶を抱くに充分だ。しかも虫かごの底の方には既に何匹か死んだのも転がっているはずだ。
「おかえり、お父さん!」
「ただいま。いっぱい捕ったなあ。」
「うん!これ全部飼っていいでしょ?」
黒目が笑う。
「これ全部ってわけにはいかないよ。見てご覧、あんまり窮屈で何匹か死んでいるよ。逃がしてやろう。」
息子の顔は俄かにくもった。
「いやだ!だって逃がした方がかわいそうだよ。鳥に次々食われちゃうんだもん。だからこの方が安全なんだよ。」
そう言いながら息子は、何かとても大切なものを護るように、虫かごに大きな布を被せてやるのだった。ジ、ジジ…
「いや、それはそうだけど、でも…餌も困るだろう。」
「図鑑で調べたんだ。セミは木の汁を吸うって。だから明日から一匹ずつ木にとまらせて吸わせるんだ。逃げないようにボンドで背中に糸をつけてね。明日は忙しいなあ!」
「みずき、ちょっと待ちなさい。セミはたとえ鳥に食べられたとしても、外で生きるのが自然なんだよ。分かるかな。お父さんだって、誰かに捕まって、管理されたら嫌だからな。」
「僕なら食われるのは嫌だよ。絶対に。だってこの中なら安全じゃないか。餌だってもらえるんだよ。安全に生きられるんだから絶対飼った方がいいに決まってるよ。」
 私は大きく息を吸った。私は心で譲歩した。そして表現としては息子に笑顔を作った。息子と私の間には絶望的な断絶が存在している。私は息子の頭をなで、おやすみと言った。すると息子もたちまちいつもの笑顔に戻りおやすみを返した。

「あの子には安全な道が一番らしい。」
私は妻にそう告げると、進学塾の申し込み用紙に静かに判を押した。
今夜も熱帯夜である。ジジ、ジ、ジジ…。

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