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細川家つぶやき考察まとめ④

過去にX(Twitter)でつぶやいていた細川家についての考察や読書メモまとめ。
一部内容が分かりやすいように加筆修正しています。



ガラシャと浄罪について


NHKラジオの歴史再発見「中世ヨーロッパ社会の光と影」を聞いてるんですが、煉獄についてなるほど〜となってます。
玉ちゃんが自害する時に、煉獄や煉獄での浄罪はふと脳裏をよぎることだったのではないかな、と聞いてて感じました

玉ちゃんが自害したあと我が身が火に包まれていくのは煉獄に行く前の浄罪として受け容れられるのではないかなあ。

それによって煉獄での贖いが短くなり、天国への道も近づく、と考えていたら、最期の気がかりも軽くなるんじゃないかな。

忠興の書状


忠興がうんこめっちゃ出たって言ってる書状、公開された細川家史料のURLで見つけきれなかったんですけど、同一の内容が綿考輯録の忠利公(上)p215に掲載されてるのと同じなはずです…


藤孝・忠興父子


「怒を止むるは詩に若くはなく、憂を去るは楽に若くはなし」(怒りをおさめるには詩歌に勝るものはなく、憂いを断つには音楽に勝るものはない)、藤孝・忠興父子にあてはめるとめちゃくちゃに刺さる………

この言葉をふまえたら、藤孝さんが和歌で忠興をたしなめたのも藤孝さんなりの遠回しなアドバイスなのかもしれないし、
昔から和歌やってればよかったとぼやく忠興のアンガーマネジメント方法だったのかもしれないし、
朽木時代の藤孝さんなりの感情の整理の仕方が詩歌だったのかもしれない…

忠興は母・光寿院の危篤に合わせて豊前から京に上る時、船上で数多くの和歌を詠んでいるんですが、押し寄せる不安や悲しみの整理として詠んでいるのではないかなあと思うんですよね


熊本における清正公信仰

もしガラシャがキリシタンじゃなかった、あるいは江戸時代が禁教下ではなかったら熊本における清正公信仰の役割は玉ちゃんだったかもしれないね(日蓮宗と比肩してたかでも変わるかも)

そうなると現在の熊本における清正公と細川家の扱いは変わってきそう。

夢想とはいえ、今の思想の根底がめちゃくちゃ変わりそうなものには惹かれてしまいますね


忠興と妹・伊也

天正12年に忠興が南禅寺に陣引いて、その後興元と松井さんも兼見さんちに来てるの、伊也ちゃんが3月に産んだ女子との面会も兼ねてるんだろうなと思うと可愛すぎてしんどい

忠興たちが南禅寺に陣敷いてるのが6月28日で、「侍従(兼治)の息女顔色もよく、強飯もたべてる」って書いてるし、お産後の穢れも明けてるので絶対面会してるんだよなあ…


幽斎さんはかわいいぞ


天正18年の10月、幽斎さんも麝香さんも兼見に会いすぎてもう一緒に住んだらよくない!?!?ってなってる

麝香さんが湯治で有馬に向かった翌日、幽斎さんが兼見のところ訪れてるの麝香さんいないから寂しいんか???と勘ぐってしまう


謎の女・おいま

あと麝香さんとセットになってちょくちょく出てくる「おいま」は本当誰なんだ
幽斎がおいまに当てた手紙なんか宛名が「ゆう」って書いてるしなあ 沼田家の人とか幽斎の親族にそんな名前の人いたかしら


忠隆と忠興

『茶話指月集』で、忠隆が本来炉の灰の形を四隅を斜めに掘り下げるのにそのまま平坦な形にしていた逸話があって。
利休が時々していたもやり方らしいんだけど忠興も好んでそのやり方を真似てたっぽくて細川父子カワユ………ってなってる

茶道四祖伝書かなんかでも忠隆くん忠興から茶道関係でボロくそに言われてる逸話あったな…
知らずとパパの茶道を継承してる忠隆くんのそういうとこ好き


藤孝と忠興

春名徹『細川三代』はメチャエモ細川本なのですが、
「親の藤孝は内に抱いた同じ激しい情熱を知性で抑えこみ、子の忠興はそれを臆面もなく吐き出したという相違かもしれない。」
(p120)という文章がめちゃくちゃわかる………てなるんですよね


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