見出し画像

障害のある男性の自殺は、私とつながっている。

目の前が真っ暗になるニュースだった。

「おかねのけいさんできません」男性自殺 障害の記載「自治会が強要」

毎日新聞 2020年7月31日

障害を持つ子の親として、当然、怒りを覚える。さらしものにされた本人の気持ちを思うと、なんてことをしてくれたんだ、と思う。

「障害があることを皆に説明せよ」と強要したのが事実であるならば、それは責められて当然だ。ネットにもそんなコメントがたくさんあった。

しかし、ただただ「なんてひどい!」と怒るだけで終われない、悲しみと自問自答が続く。

この事件で、私が考えたことがいくつかある。


被害者の男性が、「障害があることを公にされたくない」と思うような世の中であること。

本当は「障害があるんですよ」と気軽に言える世の中が理想だと、私は思っている。

しかし現実は、障害者であるとオープンにした途端、偏見や差別と戦い続ける生活が待っている。気軽になんて、とても言えない。それを覚悟できるかどうか、それは他人がとやかく言うことではないし、ましてや強制するなんて、もっての他だ。

障害があることをみんなに言って、自治会の仕事をしなくてよいことにしよう、という提案自体は、場合によっては正解であるかもしれない。本人が隠すことで生きづらさを感じていたり、周りの人間が、偏見や差別と一緒に戦う覚悟があるならば、ひょっとしたらいい話になるかもしれない。でも、もしそんな環境だったとしたら、この男性が自殺という選択をするわけがない。

障害を公にしよう、という提案は、必ずしも悪ではない。でも、環境が整っていない中での公表は、苦痛でしかない。


「障害の有無」がプライバシーに関わる問題だという認識が低い人がいる。

障害をオープンにするかどうか、という問題は、「見た目でわかるかどうか」という要素がからんでくる。また、見た目にはわかりにくいが、仕事などに支障があって、事情を話すという選択をとらざるを得ない場合もある。見た目にわかりにくい障害だが、電車などで席を譲ってほしい場合、目立つようにヘルプマークをつけて歩くこともある。

みんな、いろんな事情で障害をオープンにしている。それが、「障害があることは恥ずかしいことではない」という認識につながるのは喜ばしいことだが、一方で、「障害があることを隠したい」という人に、選択肢を与えないようなことになってはいないだろうか。

例えば、見た目ではわかりにくい、LGBTQの場合などは、カミングアウトするか否かは本人が決めるべき、という認識が、ある程度は広まってきていると思う。

LGBTQ以外でも、個人のプライバシーは守られるべきだと多くの人が知っている。例えば、「あなたの昨年の収入を、自治会で発表してください」なんてことは起こらない。本人が隠したいと思っているプライベートなこと全て、誰かが強制して公開していいわけがない。

障害の有無も、同じことだ。オープンにしている人が多いように思うのは、先にも言ったように、見た目でわかることや、仕事に支障があって、オープンにせざるを得ない事情があることが関係しているのだと思う。もちろん、自分の障害を受け入れて、これが私です、と堂々としていたいからあえてオープンにする、という人もいると思う。事情は様々だが、「障害の有無」がLGBTQや個人のプライベート同様に、非常に繊細な問題であるということに変わりはない。仕事に支障があるので職場ではオープンにしているが、ご近所には知られたくない、というパターンもあると思う。どういう線引きであれ、それは本人の判断が尊重されるべきだと思う。


一人暮らしできる程度の「障害」はわかりにくい。

障害児教育に携わる人から、「8歳くらいの知能があれば、人の助けを借りながら一人暮らしができると考えている」という意見を聞いたことがある。確かに、障害のない上の子、いっちゃんがそのくらいの年齢になったとき、「この子にいろいろ教えれば、身の回りのことは1人で出来そうだな」という体感があった。

障害のあるニンタの実年齢は6歳で、知能では3歳くらいと言われている。ゆっくりではあるが、少しずつ成長しているニンタは、大人になるまでにその「一人暮らしできる程度の知能」になる可能性がある。

まさに、今回の事件の被害者である男性は、障害があるものの、一人暮らしできる状態であったようだ。障害のことを言いたくない、と家族に話していたとも記事に書かれている。

ニンタがこの男性と同程度まで成長できるかどうかは分からないが、やはり、これから私とニンタが直面する問題な気がしてならない。ニンタは現在、見た目では障害がわかりにくい。大人になったときに、自分の障害を隠したいと思うようになるかもしれない。

現在、親である私はニンタの障害を公にして生活している。障害児として最適な教育を受けるには、それ以外の選択肢がないからだ。小学校で支援級に通うことや、放課後デイに通うことを、隠すことは不可能だと思う。

そして、公にすることは、私の生きづらさを減らすことでもある。ニンタの障害を隠して暮らそうとすれば、外出も近所付き合いも気を使うし、助けも借りにくい。私が、私のために今の選択をしている。

ニンタが大人になった時、自分に障害や持病があると知られたくない、と思った場合、大変申し訳ないが、新天地に引っ越してイチから始めてもらうしかない。ニンタのプライベートを、親が公にしてしまうことに迷いがないわけではなかったが、私も私の信条でこの道を選んだ。他人に文句を言われる筋合いはないが、ニンタにだけは抗議する権利がある。そして私もまた、なぜこの道を選んだのか、ニンタに堂々と説明できるだけの理由がある。

自治会の役決めのためだけに、男性をさらしものにした人たちに、その覚悟があったのか。これから裁判で加害者の主張もあるようだが、とてもそうは思えない。


障害者への配慮は、法律で定められた権利なのに、なぜ頭を下げてお願いしなければならないのか。

今回の事件で、自治会は「特別扱いはできない」という前提で、もし特別扱いをするならば、その条件として障害を公表せよ、と要求したようだ。

前提が間違っている。障害を理由に「特別扱い」すること、それは「合理的配慮」であって、よく使われる例えだが、視力の弱い人がメガネをかけるのと同じことだ。それを禁止すること自体がおかしい。

障害のために必要な配慮を受けるのは、法律で決められた障害者の権利だ。頭を下げて許しを乞うものではない。自治会の役員は引き受けられません、と堂々と言っていいのだ。

しかし、多くの障害者は波風を立てないように、頭を下げて配慮を頼むだろう。私もそうしている。自分の保身の為に。ニンタの保身の為に。そして、相手の労力をねぎらい感謝する為に。

でも、こんな事件が起きると、自分の行動にも疑問が出てくる。「障害者は頭を下げて配慮をお願いするもの」という風潮の一因を、私も作ってしまっているんじゃないだろうか。

今回の事件を受けて、なにごとも丸く収めるばかりが策ではないんじゃないの?と、自分に問わなくてはいけなくなった。

この先、私が怒り、声をあげる背中を、ニンタに見せなければいけない時がくるかもしれない。頭を下げる姿だけを見せ続けてはいけないのかもしれない。

被害にあって命を落とした男性に、私も申し訳ない気持ちを持っている。私が、自分とニンタのために頭を下げていることが、この男性の周りの環境と、どこかでつながっているんじゃないだろうか。「ひどい人がいたもんだね」と加害者だけを責めても、きっとまた同じような事件が起きる。

戦うのは怖い。でも、世の中に間違った常識を広める片棒を担ぎたくはない。私は弱くて卑怯で何の力もないが、私もまた、障害者をとりまく環境を作っている社会の一員なのだということを、突きつけられたような気持ちでいる。

サポートいただけると励みになります。いただいたサポートは、私が抱えている問題を突破するために使います!