嫌とは言えない人たちについて

こんにちは。2回目の投稿となります。

毎日はなかなか投稿できないかもしれないですが、できるだけ書いていけたら、と思っています。

今日もvoicyから考えたことを書いていきます。

こちら先月の放送なのですが、サウザーさんのVoicyです。

サウザーさんは毎度めちゃめちゃ刺さる内容を短い時間で話されていて、聞くたびに感銘を受けています。

週刊金融日記という藤沢数希さんが出しているメルマガの質問コーナーで何度か投稿されていたことが、サウザーさんという匿名アカウントが世に出た始めだそうで、わたしも金融日記読者でしたので、当時から一応知っていまして、その頃から文章の書き方・表現が独特で、深い考察で内容のある投稿をされていました。

サウザーさんはその後、Twitter、ブログなどでも活躍されて、最近はVoicyのパーソナリティにもなっていて、元々は無名の人があっという間に有名になってしまった感があり、現在のWebの世界のすごさを見ました。

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で、タイトルの話ですが

この世の中で普通に生きていくと嫌とは言えない周りに流されるだけの人間になってしまうって話です。

嫌とは言えない。ってまぁ心当たりあるんですよね。

いろんな場面で「嫌とは言わせない空気感」がある。素直に「はい。わかりました」というのが正しくて「嫌です」は許さないという空気感。

なぜかというと、小さい時からずっとそうやって仕込まれてきているんですね。幼稚園でも小中高の学校教育でも先生のいうことに従うのが正しい。しかも全員に画一的に同じことができるようになるよう仕込む。これって昔からずっと変わっていなくて、忠実なる僕(国民)を作る装置としての機能が抜けきれていないということです。会社で働いていても同じで、経営者・上司の命令に従って動くのが正しい。

その結果が、嫌とは言わずに、画一的にみんなと同じ方向を向いて、「はい。わかりました。」で動く人たちです。嫌だという感情を忘れてしまった人もいるし、内心は嫌だと思っていつつも言えずになあなあと従う人もいるけど、はっきりと「嫌です」言える人はそうそういないわけです。

このことの何がやばいかというと、画一的にみんなと同じ空気感に迎合している内に、自分の意思とか自分の感性とか自分で選択して生きていくという気概がまるでなくなってしまうことです。「嫌です」が言えないように去勢されるんです。

戦時中の軍隊育成でもないし、戦後直後の工業社会もとうに終わっていて、画一的にみんな同じことをして豊かになることはもう無いのに、「嫌です」が言えないのはまずいよな、と思った次第です。

おしまい。

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