見出し画像

難易度が高い“曖昧”

去年の11月からタイトルだけずっと下書きに入れたままだった話をしようと思う。

物事に枠線が無いと困ってしまう性格だ。誰が?私が。
正解がないことが怖い。分類できないものが怖い。SEKAI NO OWARIがHabitで揶揄していた人間そのものである。
そういったものに触れるたび、枠線のない塗り絵をしている気分になる。
曖昧をもっと愛して楽しんでみたいと思うのに、解像度の低いものをそのまま手に取って飲み込むことが怖い。形式が欲しい。

困ったことに世界にはそういったものが多すぎるから(というかそういったものが私にとっての世界だから)自分を守るために、私の体の中に居る私をあやすのが得意な私がいろいろなことに名前を付けてくれていた。

これは夜だよ。
これは不安だよ。
これは――だよ。

名前をつけられないものは中身は気になるものの、小さな箱の中に入れてしまっている。
愛情なんて典型的な例だ。
現状、私にとって(特に)恋愛は脳のバグでしかない。

最近、その私(以下:私A)が肉体の主導権を握りつつある。危険な状態なのはわかっている。
木山メイの意思決定を行うフィルターとして機能させていたはずのものが、私そのものになってきた。
様々なことに枠線を引くことに慣れてしまい半ば暴走気味である私Aを、自分に介入できなくなった肉体や感情の持ち主である私が外から見ている。
人や物事に対して働きかけてその反応を得ているのはかつて自分をあやしていた私Aだ。これは厳密には私ではない存在なので、どうも現実感の無い生活をしている。
わかりやすく言えば、笑っているのになんで笑っているのかわからないときがある。どうして泣いているのかわからないときがある。
自らの感情を客観視できなくなっていることは俳優にとっての死活問題だと思う。
さらに面倒なことに私Aはこれまで世界と私を繋ぐ存在であったことから、私は今世界そのものとも隔離されたような気持ちで日々を送っている。
これは昔好きだった水族館の魚たちを見ているときの感覚によく似ている。
世界の中にヒトの営みはあるのに、そこに私は居ない。

そんなことにここ数年悩まされていた。
自分の中で落とし込むことができずに、どこに頼ればいいのかもわからずにもがいていた。
病院に行けばいいだけだったのかもしれないが、この状態をまず人に伝えることができなかったから、言葉にするまでは意味のないものだと思っていた。
これがタイトルだけ残した日に書こうと思っていたことの一部である。

「“リジン”の傾向があるんじゃないですか」

先日、私にそう教えてくれた人が居た。
私の乏しい語彙力でしかまとめることができなかったそれを上手に汲み取ってくれたその人によって、壊れてしまいそうな命綱ひとつで繋がっている感覚的かつ曖昧なこの事象に『離人感』『現実感消失』という名前があることを初めて知った。
それを知ったのは診察室ではなく中華スイーツのカフェだったので、きちんと医療的機関の診断は受けなければいけないのだろう。だが、霞だけが存在していると思っていた場所に枠線が見つかったことにより少しだけ前に進めたような経験だった。(ちゃんと病院に行こうと思う)

モノに名前を付けることは最小単位の分類だと気付く。
私の肉体につけすぎた名前を少しずつ削ぎ落としていくのは難しい。

いつかそれでも曖昧を名前をつけなくていいものとして見つめられる日が来ればいいと願ってしまうのは、私のエゴなのだと思う。

この記事が参加している募集

今週の振り返り

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?