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◆あなたは誰(何)のファン?誰(何)のアンチ?/意識を支配する者、される者を考察する

◆市場における可処分時間の争奪戦はすでに完了している

 自分以外の誰か、もしくは、自分のこと以外の何かにばかり意識を囚われていると、その分だけ自分のために使う時間はどんどん削られていくということは、すごくシンプルでわかりやすいですよね。

 でも、現実社会ではSNSが普及してからというもの、毎日必ず誰(何)かの情報だったり動画だったり音声だったりと自分とがリンクしやすくなっていて、そうしたものを完全に断った状態で時間を過ごす感覚というのは想像することすら難しくなっているように感じられます。

 動画を観る、音楽を聴く、音声番組コンテンツを聴く、検索サイトを見る、ネットショッピングサイトを見る、ツイッターやLINEでコメントしたり閲覧したりする、その他、ゲームアプリで遊ぶでもそうなんですけれども、何をするでも地上波の何倍もの広告を見聞きすることも今となっては当たり前になっていますね。

 様々な分野のサービスや商品に関する広告というのは、不特定多数の人たちの意識をこちらに向けて欲しいがためのものであり、端末一台を手にするだけでネットに繋がれば膨大な量の情報が毎日のように飛び込んで来ます。

 使用頻度の高いアプリの通知設定がすべてONになっている場合、ほとんど毎日何かしらのプッシュ通知が届き、スマホを開くたびに視界に映るようにもなっていますね。例えば、Yahoo!だったりYouTubeだったりゲームアプリだったり。特に、YouTubeに関して言えば、チャンネル登録しているアカウントからのプッシュ通知が個別に届いたりするため、一括プッシュ通知OFFに設定していないと一日だけでもとんでもない数の通知が届いたりします。

 ネットニュース関連アプリを複数ダウンロードしている場合、全国で報じられるような速報がすべてのアプリから同じ速報がプッシュ通知で届くこともあるため、自分が知りたい情報を届けてくれるアプリを限定したり、端末内のすべてのアプリ通知のON/OFF設定をしていないと、無意識に、無自覚に細々とした情報に時間を費やすことになりかねないなと、個人的には危機感すら感じているほどです。

 サービスや商品を提供する企業だけならまだしも、個人が利用するアプリによっては、フォローしているユーザーからの通知が無尽蔵に届くものもあったりしますね。ツイッター、LINE、このnoteも同様に通知が届くようになっていますね。

 非常に煩雑な社会になってしまったものだと感じてしまうのはもう若くはないからだろうと思うことにしていますが、それにしても個人が処理するにはあまりにも膨大な情報量であることは間違いありませんよね。私個人的にはもうその煩雑さに疲れてしまって、ツイッターもLINEも使うのは辞めましたし、このnoteが可処分時間の大部分を占めるように限定しているほどです。画像編集+文章作成、発信や閲覧に関してはnoteだけでいいやとだいぶ前から限定しています。

 無意識に、無自覚に、自分が意図しない何かしらに意識を囚われてしまうことにはもう正直耐えられない、それくらい嫌悪しています。ただし、こうして文章作成をしている時には、必要に応じて世間の誰かであったり何かであったりについて意識を向けて文章化することはありますが、基本的にはその程度です。

◆ファンとアンチは紙一重

 元々存在すら知らなかったゆたぼん。今や「何かやってるなー」くらいの情報が自然と入ってくるくらい炎上だなんだと賑やかなゆたぼん。チャンネル登録者数約15万人の中学生ユーチューバー。

 つい先日、ゆたぼんのスタディー号日本一周の旅関連の動画に対するアンチの動画を観てみると、「ゆたぼん、中学生なのに九九ができない!」といったタイトルで、何人もの配信者が似たような動画を配信している状態であること、そして、「九九ができないのはウソ!アンチはエンタメがわかってへんわ!」というゆたぼんの動画、そしてこれに対するアンチの動画・・・みたいなことが延々と繰り返されているわけです。

 ゆたぼんファンはもちろんのこと、アンチゆたぼんのポジションを取っている人たちも、共通項は「ゆたぼんに意識を支配されている」という点であると私は理解しています。結果「ファンとアンチは紙一重」で大した違いはないというのが本質だろうと思うのです。

 特に、ゆたぼんをネタにアンチ動画を配信して収益化しているユーチューバーは全員、ゆたぼんを批判したり貶したりすることでこれを実現できていて、一方のゆたぼんもアンチの存在があってこそ収益化ができていたわけです。先日収益化の権利を剥奪されていたようですが。

 人間って不思議ですよね。お金のためなら嫌いな人を煽って批判してでも儲けようとする、そういう人もいるんだなーと。でも、これはこれで問題はないと思うんですよね、需給関係が成立していますから。

 問題は、何のメリットもないのにアンチのポジションを選択し、コメント欄に執拗にアンチコメントを繰り返す一般ユーザーたち。不登校ビジネスだなんだと批判したくなるからアンチコメントしてるのかもしれませんが、正直どうでもいい話です。ゆたぼん一家のことにいくら口出ししても何も得るものはありません。そればかりか、大切な時間がまったくの他人のために浪費するだけですよね。

 ゲーム内チャットなんかでも必死に煽っている人たちいますよね。普通にゲームを楽しめない不幸な方々です。よほどプライベートでストレスを抱えているのかもしれませんが、それこそ関係のないどうでもいいことです。

◆どうでもいいことで他人から批判されても本気になる道理はない

 SNS適性の有無はしっかり自覚しておいたほうがいいかもしれませんね。「批判されて、暴言コメントをされて、本来実害はないのに精神的に傷付く」といったそういう事例が後を絶たないのは、電子文字のやり取りが「受け手次第」というものであるため、暴言を書き込む側もそれを受け取り傷付く側もSNS適性があるかないかで言うと、ハッキリないとは言い切れないけれどもいくらかの不足はあるだろうという認識は必要だろうと思います。

 自分に対して名指しで暴言を書き込まれた⇒だから傷付いた(侮辱された)というのは、事と次第によっては民事的な事案にはなり得るとは思いますけれども、事あるごとに傷付くというのであるならば、そもそもSNS適性がないことを疑わないといけない場合もあるでしょうし、傷付いてなおSNSを手放さないということには少なからず疑問を残す場合もあるでしょう。

 もちろん、暴言を書き込むほうも悪いですよね。悪いんですけれども、そういう人はネット上には大勢存在します。彼らが誰かしらのトラブルに油を注いで炎上させているわけですが、存在そのものを否定することに意味はありませんし、消すことなど到底できませんよね。

 暴言コメントを書き込まれて「傷付く選択肢」以外に、いくつか選択肢を持つようにするといいかもしれません。「SNS上でのやり取りを辞める」これが短期的解決には一番の近道でしょう。それかもしくは、多少免疫があるという方であれば「他人の言いたいように好きに言わせてやる」という選択肢もいいでしょうね。暴言に反応したりムキになったりしても場が荒れるだけですからね。自由にさせてやれば自然と収まります。

 時代がそうさせてると言えばその可能性も否めませんが、陰湿でしつこい人は毎日同じことを繰り返しますからね、理解に苦しみます。得てしてそういう種類の彼らが言うことと言えば「ネットスラング」くらいで、ちゃんと言語化しているわけではないんですよね。で、そういう暴言を言うなと言っても言う人は言うわけで、他人の考え方や行動を変えようとすることもまた無駄で、何一つメリットがないんですよね。

 ただですね、ネット上でどんなに荒いコメントをしている人でも、リアルでは普通の人というケースは往々にしてあることです。なおさら傷付く理由もなければ、何を書き込まれても電子文字そのものにはまったくもって実害はないわけです。ネットスラングを使いたがる人たちというのは、煽り方を学習して実践しているだけで、人格が異常だとかいうことではないので、その点は誤解しないほうがいいかもしれません。例外はあるとは思いますが、ここでは触れません。

◆夕日を眺める時の意識は太陽の沈む様子に集中している

 夕日って綺麗ですよね。それでいてどこか切なさを感じさせます。「あー、今日も一日が終わろうとしている」と思いながら眺める夕日は切ないですね。

 夕日を眺める時は、太陽とその周辺の景色に意識を向けますよね。普段から自分の意識を誰に、どんなことに向けているかを能動的に意思を働かせているのであれば何も問題はないかもしれませんが、気が付いたら誰かに支配されていて、無意識のうちに何かに意識を囚われていた、なんてことが当たり前になってしまうと、極端な言い方をすれば「人生を搾取されている」に等しい状況だと私は考えています。

 昨今よく聞くようになった「バイアス」がそうですね。意に反する圧力だったり影響だったりが本人の意識や意思の機能を縛り付ける、そんなイメージです。

 他人から暴言を吐かれて傷付くのは、人の言うことを鵜呑みにし過ぎていたり、感情が揺さぶられるメンタリティだからであって、少なからず人の言葉に対する免疫は必要だ、というのが正論だろうと思いますが、その正論が軽視されているのか、認知されていないのか、「言ったほうが悪い」という考え方が暴走すると被害妄想にもなるわけで、煽ることに必死になっている人たちはさらに追い打ちをかけるように「メンヘラやん」などと書き込んだりするんですよね。

 本当はこんな内容の文章を書きたいわけではなかったんですけれども、あまりにも日本のネットユーザーの民度が低すぎて、呆れながら書いているところです。

 そもそも、人には「選択する自由」があるわけですから、話したい人と話す時間的割合を拡大し、話したくない人と接することを避ける手段を行使すればいいだけのことです。これは現実でもネット上でも共通していることですから、自身の意識や意思の精度をしっかりと保持する必要はあるかもしれませんね。

 人生を豊かにするのは「如何に自身で時間的価値を高めるか」、これに尽きるかと思います。誰かに意識を支配されっぱなしになったり、意図しないところで何かに意識を囚われたりすることは、間違いなく時間的価値を下げるでしょうし、ストレスを蓄積する最たる要因ともなるでしょう。

 自分の意識を不用意に誰かに支配させることなく、誰かの意識を不用意に支配することなく、自分の意識を自分が望む人や物事に向けていくことで時間的価値を高めていくことがストレス社会を生き抜く術でもあろうと思いますが、皆さんはどう思いますか?

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