夏に願いを(1)
※この小説はPenthouseの『夏に願いを』を聴きながら書いています。フィクションで、バンドの楽曲の世界観とは必ずしも一致しませんが、もしよかったら楽曲を聴きながらお楽しみいただけると嬉しいです。
僕の青春タイムリミットは、突然やってきた。
叶居逢花が転校する。
そのことを知った時は、青天の霹靂という言葉を今ほど的確に使えることなどないんじゃないかと思った。
動揺のあまり頭痛がして、しばらく机に伏して、頭の中の嵐が去るのを待つしかなく。
今日は部活、行けそうにないな。部のラインに「体調不良なので帰ります、すみません」と送信。マネージャーの小原さんから「りょ」のスタンプが返ってきた。
僕は所謂、世間でいうところの陰キャで、人と話すことがあまり得意ではない。なんとなくで入ったバドミントン部も万年補欠で、小原マネに言われるまま黙々と裏方をこなしている。顧問の矢口先生も最初は僕を激励していたけれど、消極的な姿勢を感じ取って早々に戦力外視してくれた。そんなだから、登下校も人とあまり会わないルートや時間帯の情報を蓄積した脳内データをもとにして、校舎の西端にある階段を使う。
そこに、彼女がいた。
もうとっくに帰ったはずの叶居逢花が。
「叶居さん。帰ったかと思った」
「……部活、休めないし」
三十分ほど前の記憶が今起きた事のようによみがえる。
蝉の声が響く七月の半ば。窓の外は梅雨明けしそうな三日連続の晴れ空。夏休み前の小テスト期間を終えて一息ついた下校前、担任の灘岡が事もなげに放った一言。
「ああそうだ、テストも終わったし叶居は夏休みに入るまでにロッカー綺麗に片しておけよ」
「先生!」
不快感や怒りのような感情を隠さずに、叶居さんが灘岡を睨んだ。帰り支度をしていたクラスが静まり返った。それからすぐに蜂か蟻の巣をいたずらしたような騒ぎに。灘岡は皆の反応に少し驚いた様子だったけれど、すぐにまた事もなげに「ん? ああ、転校の話、まだ皆に話していなかったか」と涼しい顔で言った。
叶居さんは言い返すことをせず、机の上に残っていた教材を乱雑に鞄の中に突っ込んで、走って教室から出て行ってしまった。
だから、もう帰ったと思っていたのに。
「転校するって、本当?」
「灘岡先生が冗談言うと思う?」
「言わない、ねえ。いつ? 遠いの?」
「ずけずけ訊かないでよ。話したこともないのに」
「あっ、ごめん」
上階へ向かう階段の下っ端で小さくなって座っている叶居さんと、そこを通りかかった僕との間に、沈黙が滞る。叶居さんは俯いて膝に鞄を抱えて座ったまま動かないので、これはおそらく僕が下へ降りていくことでしか抜けることのできない沈黙だ。
灘岡はゲーム攻略で言うとすれば、最適解厨といえる性格。愛想はあまり良いとは言えないが、朝も帰りも無駄話がなく、必要最低限のことだけ伝えてくれるし、授業も整然と合理的で分かりやすい。陰キャの僕にとっては楽な存在ではある。その灘岡が、ましてや真面目担当側の叶居さんを冗談のネタにすることなどあり得ない。つまりは転校は間違いなくするということ。
元から話しかけたりなどしないで通り過ぎればよかったのかも。そっとしておく、が正解だったのかもしれない。僕には会話の正解がわからない。あんな騒ぎのあとで会ってしまったとき、話題に触れずに叶居さんの存在をスルーするなんて、バツが悪いから無視するという自分側の都合のような気がしたのだ。だけど僕はたいていハズレを選択してしまうからこそ、友達も作れず、こんなふうに人の通らない場所を選んで過ごしている。僕は今回もまたハズレを選択してしまったのだろう。嫌われてしまったかもしれない。いたたまれなさが膨れ上がって、歩くのを止めてしまった足の筋肉に動けと脳が命じた。
「八月」
「え」
「八月の、お盆が過ぎたら引っ越すの」
「そ、う。なんだ」
「訊いたくせに反応薄い」
「ごめん」
「金出くん、だよね」
「あ、うん」
「こっちこそごめんね、クラス一緒なのに話したことないとか言っちゃって」
「えっ、あ、大丈夫。本当のことだし」
叶居さんは鞄を脇に置くと、手足を前に投げ出して伸びをした。
「はー。別にね、言ったら駄目ってこともなかったんだけどね。私まだ納得できてなくて」
「転校、したくないの?」
「そりゃあね、部活、辞めたくないから」
「吹部だよね」
「うん、よく知ってるね」
「たまに楽器運んでるの見えた」
「ああ、コンバスはでっかいからね」
コンバス、は、コントラバスのことだ。ヴァイオリンのオバケみたいな巨大な楽器。ラッパなどの管楽器と太鼓などの打楽器で構成される吹奏楽部において、唯一の弦楽器。そんなに背も高くない叶居さんが大きなコンバスを持って移動しているのを見かけるたびに、手伝うよと声を掛けることができない自分の陰キャさ加減を恨んだ。
その僕が今、叶居さんと会話をしている。叶居さんに話しかけたのは僕だけど、ここまで長く会話が続くとは思っていなかった。また沈黙になるのは怖い。コンバス、コンバス、話をうまくラリーしなくては。
「コン、バス、は、いつから?」
「高校に入ってからだよ。楽器の経験ないのに吹部希望して、空いてるパートそこしかなかったの。奥は沼だけど、音さえ綺麗に出せるようになれば、とりあえずは楽譜が簡単なパートだよって言われてね。一年のうちは指の力のかけ方も上手くできなくて、マメできるし爪割れて血が出るし最悪で」
「大変な楽器なんだね」
「うん。まあ、どの楽器も大変だし、唯一の弦パートってかっこいいなって今は思ってる」
「好きなんだね」
「うん。だから……だから納得いかないんだ。今年は私もコンクールに出るはずだったのに」
「あ、夏休みの」
うちの学校は特に部活強豪校ではないけれど、それなりに人数もいる部活は積極的に全国大会を目指して頑張っている。バドミントン部も六月に県大会まで進んでいた。残念ながらそこで散ってしまったけれど。
「だったら一年を入れるから今抜けてって顧問に言われちゃって」
「悔しいね」
「ん。悔しいのかな。わかんないけど、とにかく突然すぎて今まで頑張ってきたことが無駄になっちゃったのがなんかね、嫌だなって」
「新しい学校でまたやるとか」
「吹部、ないんだって」
「そうなんだ」
僕なりに頑張ったラリーも、ここで僕が落としてしまった。僕はまた沈黙の時間になってしまうのが怖くなって、部活に行かなきゃと嘘をついてしまった。
「あ、そうだよね。私もいかなきゃ。皆には私から話したいって顧問に言ってあるから。じゃあね」
「うん、じゃあ」
叶居さんは立ち上がって、制服のスカートの裾を手でパシンと払うと、鞄を肩にかけて僕に手を振った。
嘘をついてしまった手前、昇降口に真っ直ぐ向かう気になれなくて、僕も部活に行くテイで体育館へ向かった。頭痛も治まっていたから、静かに見学して帰ることに。帰り際、昇降口で叶居さんに会った。
「金出くん、予選、出られることになった!」
さっき階段でうずくまっていた石像のような暗い叶居逢花ではなく、いつもの明るい表情が戻っていた。
「みんなが顧問に言ってくれて、誰でも体調不良とかで急に出られなくなることもあるからって。一年の子も練習して控えていてくれるって」
「よかった」
「うん、さっきは話、きいてくれてありがとうね! じゃあね」
「あ、うん」
僕の青春タイムリミットは、ほんの少しだけ延びたみたいだ。
朗らかに手を振る叶居さんに小さく手を振り返し、弾むような駆け足で昇降口を出ていく背中を見送った。
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