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第3話 【1カ国目エジプト③】カイロ国際空港「アフリカンジャーニー〜世界一周備忘録(小説)〜」

「気を抜いてた。やばい、逃げよう。」

目線の高さまで上げた右手の人差指と親指を擦り合わせながら、目を見開いて近寄ってくる男を目の前に本気でそう思った。

夜中2時のカイロ国際空港内のトイレで、僕は早くも異国の洗礼を浴びていた―

親切を真に受けてしまう僕

「ちょっと待って。今綺麗にするから。」

カイロ国際空港のイミグレーションを通過し、無事に相棒であるMillet(ザック)を受取りいよいよカイロに入国だ。

新品のMillet(ザック)の黄色いカバーが一度のフライトで破け汚れてしまっていたことはショックだったが、無事ロストバゲージせずに手元に帰ってきた事に安心したのか、僕の身体の中心部にある糸が「プツン」と切れ腹の深い闇底からムニュリムニュリと何かが催してくるのを感じた。

恐れずに言うのであれば「うんこ」がしたくなったのである。

僕は長距離移動のため強制的に緊張状態にしていた、自分の下腹裏部を少し緩めながら記念すべきエジプト一発目の快楽を求めて真白の便座を目指した。

トイレの扉を開けると入ってすぐの手洗い所の前に係員らしき男が椅子を置いて座っていた。
40代くらいのアラビア系で、モジャモジャとした髭が顔の下半分を覆っている。

アディスアベバの空港のトイレにも係員らしき人はいたので別段気に留めず、僕は「汚くなければいいな」と思い個室へ向かう。

「ちょっと待ってくれ。」

僕が個室のドアを開けようとしたその時、背後から呼び止める声が聞こえた。
すると、係員の男は僕の前に入り込み楕円形の縁に除菌スプレーを振り拭き始めたのだ。

「よし、これで綺麗だ。使ってくれ。」

元々、さして汚れていなかったがその親切を素直に受け取り僕は気持ちよく便座に座った。

ふぅ。

これから起こる恐怖を微塵も想像せずに、僕は身も心もスッキリとしていた。

ガンギマリの目で近づいてくる

「あれ、ボタンが固すぎて流せないな―」

スッキリしたのはいいが、便座の後ろについている流すためのボタンが固くて押しきれない。

「仕方ない、さっきの優しい係員に頼んでみるか」

そう思った僕は何の警戒もせずに、個室のドアを開け「ちょっと助けてくれ」と係員に声を掛け便座の蓋を下げた。

「ちっ。面倒くせーな―」

さっきとは明らかに違う顔の男。

この時初めて、嫌な予感を察するが既にこちらに歩いてきていて後戻りはできない。

僕を個室から出し、ボタンを力強く奥まで押し込み僕の深い闇底からやっとの思いで聖水(トイレの水)に着水したブツを流しながら男は"ぬるり"とこちらを振り返った。

男の顔からは全くの緩みも感じられない。 

目はガンギマリである。

見開い目は瞬きをせずに僕に近づいてくる。

数秒の出来事が数十秒にも感じられた。

ザザッ。
自分の左足が摺り足で後退するのを感じる。

男の眉間の前では、右手の人差指と親指が力強く心地の悪いリズムで擦られている。

「やばい…」恐怖で言葉が出ない。

男の180センチは越えようかという体躯が更に恐怖感を掻き立てる。

僕は18キロ程あるザックを背負う余裕もなく肩掛け部分を右手の肘に引っ掛けた状態で、一瞬だけ手洗い場で手を濡らし外へ駆け出した。

扉の前までついてくる男の気配を感じながら、さっき一緒に出した小便がまた出たような気がした。

いや、少しだけでていた。

カイロについて記念すべき初大便はカリソメのスッキリ感と引き換えに、後味の悪い残尿感だけを残していった。

電車の乗り場はどこだ

「やべーな。迂闊に人を頼れないな。」

ガンギマリでチップを要求してくる男の顔(特に眼球)を思い出しながら、空港内に唯一ある飲食店バーガーキングのソファに相棒のMilletを枕にし横になる。

僕が泊まる予定の日本人宿「ベニス細川家」の最寄り駅までの始発電車は空港内のインフォメーション機械情報によれば朝6時。

今は丁度2時半を回った所だ。

「こんな調子で自力で行けるかな」そんな不安を抱えながら眠りにつくのであった。

誰も信じられないぞ

「タクシー乗らないか?おい、タクシー乗らないか?おい、タクシー…」

大便チップ事件に加え、こっちの反応などお構いなく空港内で大声で引き留めてくる彼らに対して、僕の警戒心と嫌悪感は一気に高まっていった。

「もう誰も信じるものか。これから先は道を尋ねだけでもお金を要求されるぞ…」

バーガーキングのソファで力強く心に刻み込んだ僕の誓いは3時間の睡眠から目覚めても変わっていない。

「よし、外に出るぞ。」

疲れた身体に18キロのザックは大きな負担だったが、気合を入れて僕は外に出た。

生まれて初めて目にしたカイロの空は早朝の薄暗さと空気の汚れが上手く溶け込んだような色をしていた。

雲一つない快晴なのにどこか濁って見える― 

そして、少し寒い。

空港内で販売されていたWi-Fiを契約していなかったため、頼りになるのはオフラインでも使え「MAPS.MEという地図アプリ」とアディスアベバのホテルで調べた「カイロ空港からベニス細川家までの道のりのスクリーンショット」だけだ。

地図アプリは正確さと接続の悪さが少し不安だったし、スクリーンショットは空港から宿までの14の通過駅が分かるように拡大表示にしていたため細かい道順が分からない。

しかし、この情報でやるしかないと自分に言い聞かせる。

カイロ国際空港の目の前は多くの空港と同じように降車場があり、真ん中に1mほどの縁道を挟んで2車線ずつ合計4車線ある道路になっている。

そこには何処行きか分からないバスや乗り合いの白いバン、何台かのタクシーが停車している。

タクシードライバーは各々が狙いを定めた場所で空港内から出てくる乗客予備軍にひっきりなしに声を掛けていて早朝だというのにとても騒々しい。

中には、椅子に座ってタバコを吸い他のドライバーと談笑をしながら、人が通る度にそのまま大声で「タクシー!」と冷やかしとも思えるような声を掛けてくる者もいる。

まったく。なんとも、不真面目な奴らだ。

「お前らなんかの車に乗るものか。」

心のなかでそう毒づきながら、"Train⬆"と書かれた案内板に従って歩いていく。

歩けど歩けど…

「右足の膝裏が痛い。ズキズキする。」

軽いエコノミー症候群で痛みを覚えた右足はザックの重みで更に悲鳴を上げ始めていた。

"Train⬆"と書かれた案内板の方に歩き始めてから既に1時間以上経過していただろう。

地図を見る限り空港の敷地内の外に最寄りの駅があるようだ。

案内板の方向に歩くも徒歩では渡ることが出来ない道路にぶち当たるだけで駅へ辿り着けない。

その途中で新たな方角を指示する案内板もなかったため、自分の感覚に従い空港周りの"それらしき道"をひたすら歩いたが1時間経過しても微かな兆しも見えてこない。

変化があるとすれば、少しずつ陽が昇り視界が鮮明になっていくだけだ。

僕はまたしても"異国の空港から脱出する"という壁に阻まれてしまっていたのだ。

「今回はもう無理や…足痛すぎやし…」

数時間前に打ち立てた"力強い誓い"がカイロの朝日に照らされ薄まっていくような気がした―

破られた誓いと西の空

「その駅までは3,000ポンドだ―」

数時間前の"力強い誓い"は不真面目なタクシードライバーの「タクシー!」の一言で脆く崩れ落ちた。

声を掛けてきた40代くらいの少しイケオジなドライバーに宿の最寄り駅をスクリーンショットの画面で見せて「いくらで行ける?」と尋ねる。

「お前、USドル※持ってるか?」
※USドル支払いとエジプトポンド支払いが出来てUSドルの方が好まれている

「いいや、もってないよ。」

成田空港で換金したものと餞別で頂いたものをを少し持っていたが貴重なUSドルをここで使う訳にはいかない。

「そうか、じゃ3,000ポンドになる。」

「…あり得ない。それはいくらなんでも高すぎるぞ。」

距離にしてせいぜい30キロ。それが日本円にして15,000円は法外な価格だ。しかもここはエジプトである。※1EGP=5円弱

「いくらならいいんだ?」

「20ポンドだったら乗るよ。」

目の前にいるドライバーの明らかなふっかけに少しムカついたのと、相場がいまいち掴めていなかったのでこちらも大きく指値を入れてみる。

「馬鹿言ってるんじゃねーよ。そんなので乗せられるわけないだろ。」

次はドライバーの方が苦笑いをしながら答える。

「よし、300でどうだ?」

スマートフォンの電卓で300と打ち込んでこちらに見せてくる。

「分かった。それで駅までお願い。」

もう少し粘ろうかなと思ったが、色々な疲れが相まって交渉で精神力を使いたくない気持ちの方が上回っていた。

最初の提示金額より10分の1まで下がったという、小さな満足感があったことも否定できない。

その男の後について行き、白い車の後部座席に乗り込む。

トランクにザックを入れるよう促されるが、警戒して一緒に後部座席に持ち込み右側のドアを自分で締める。

「こいつは何も言わなければ3,000ポンド払わすつもりだったのか。」

「何とも油断ならない奴らだ。」

そんな事を思いながら、雲一つない朝空を車の窓から見上げてみた。

東側に陽が昇りきったからだろうか。

僕の目線の先にある空が数時間前よりも鮮明に青く綺麗に見えていた―

◆次回
【タクシー運転手の怠慢。無事に日本人宿ベニス細川家に辿り着けるのか?】


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