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熱い鉄を打て

私の性格を表す表現のひとつに「思い立ったが吉日」がある。
元々これはうちの父、そして父方の祖父についてよく使われていた表現であったが、いつの間にか私もそこに仲間入りしてしまったようだ。やはり、血は争えない。


というのも、私はかなり強めの面倒くさがりである。そして、飽きやすくもある。そういう特徴のため「やったほうがよさそう」と思ったことはすぐに行動に移さねば永遠に機会を失うだろうと20年以上自分として生きてきた上で理解しているのだ。ポンっと始めて、合わなければやめちゃう。そもそも面倒くさがりだからそうポンポン手を出すわけではないのだが、これは愉快と始めたことでもある日突然やめてしまうのは我ながらそこの線引きがシビアめだなあと感じる。惰性で続けることができない。仕事以外では、その瞬間楽しいと感じることしかできないらしい。他人事みたいに言うけれど。


今までに楽しそうだと思って勉強しようとしたことは色々ある。言語だと英語、ドイツ語、エスペラント語。理科系だと地学、物理学。ゲームだと囲碁、チェス、麻雀などなど。どれも「マスターしたらかっこいい! 楽しそう!」と思って始めて、今でも興味はモリモリある。これらは個人的シビア線引きで言えば生き残ったほうに分類される項目たちなのだが、それでもどうしてもやる気が持続しない。
ここに挙げたもの以外で言うと格闘技などにもずっと興味があるのだが、あまりにも身体タイプに合っていないので今のところ手を出したことはない。『らんま1/2』と『るろうに剣心』を読んで育った私としてはどうしても強くなりたい願望があるのだが、これは現世では叶わぬ夢としてなかば諦めている。力が……欲しい……!


話が逸れたが、とにかく何かひとつに夢中になれる人はすごい。私はそういう人たちを心から尊敬している。アーティストやアスリートや職人など、たったひとつのものを選んで極められる人。それはとてもすごいことだ。才能だ。
自分はなかなかそうできないけれど、何かに向き合う姿勢としてそういう形が「至高」であり「そうでなければならない」と"私は"思う。思うし、思いすぎている節があるようだ。そうなれない(=ひとつに絞って極められない)からパッとやめちゃう、ということもあったのかもしれない。無自覚に。


私がずっと続けていることなんて歯を磨くことくらいだ。そう思っていたのだが、この前ふと「これ10年以上やっているな」と気づいたことがある。そのきっかけとなったのは某・頭のよい人たちのYouTubeチャンネルだった。彼らが大変賢いのは自他共に認める事実であるが、そんな彼らが知らないことで、且つ私は知っていたことがあったのだ。
それは宮沢賢治に関する知識であった。私は中学生の頃に賢治を読んでから、高校・大学・現在とずっと賢治について考えている。ふと数えてみると、いつの間にか10年以上にもなっていた。10年やってりゃあ彼らより詳しい分野もできるんだな、と素直に驚いてしまった。あと、10年やっていたことにも普通に驚いた。私は「続けている」という自覚もなく、「続けなければ」という義務感もないまま、昨日も今日も明日も賢治について考えていたのか。こんなにぼんやりした「続ける」もあるのか。それに気づいてそこそこびっくりしたのだ。


なんだか嬉しくなったので最近またエスペラント語の勉強を始めた。かなり時間が空いてしまったので以前覚えたことはすべて忘れただろうと思っていたのだが、いざやりだしてみると意外や意外。なんとなく覚えているじゃないか。おいおい、もしかして私はこのタイプだったのか? このスタイルの積み重ね方をしていくタイプ?
さすがに自分で興味を持って始めたことだから、脳には知識が残留していたようだ。こうやって、薄い層を一枚一枚重ねていくように、少しずつ積み重ねていく「続ける」もありなのかもなあ。


飽きたらまた、パッとやめてしまうだろうと思う。けれどもそうしたらまた別の記憶をリロードしてきて、そっちの層を重ねていけばよいのだと今のところ思っている。あと、最近気づいた細かな点として「Aの勉強に飽きたときにするBの勉強がものすごく楽しい」と知ったのでこの事象も活用していきたい。知りたいことが多すぎる。鉄は熱いうちに打て。というか、熱い鉄を打て。冷めたら隣の熱い鉄を打て。それも冷めたらまた隣の熱い鉄を打て。ワニワニパニックならぬ鍛冶鍛冶パニックである。うん、すごく暑そう。


こんな感じで今日も元気に生き急いでいこうと思う。
これが私の習慣です。

#わたしの習慣

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