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THE MIX UP vol.3「朝日のような夕日をつれて」

先日、観劇してきました。
きっかけは本田礼生さんと石田隼さんの共演。信頼の演技力を持つ仲良し二人の共演。とても嬉しく楽しみにしていました。

始まってみれば全出演者の生き生きとした芝居っぷりに圧倒されました。巧みな話術とエネルギーに満ち満ちている!

2.5次元のロング公演を観劇し終えた私にアンダーグラウンドの風がドワワッと吹き荒れた気がしました。

いやーーーーしかし置いていかれそうになった!結果とても楽しかった、というか充実した時間で、わたしは最後泣いてるんですけど。笑

ものっすごいテンポで会話が繰り広げられる上に二つの世界が交錯する。

「ゴドーを待つ」世界と、架空の玩具メーカーの5人の男たちの世界。

これはオフィシャルHPでもあらすじとして書かれています。

今話しているこの人は誰だ?ここは今どちらの世界だ?とか考えたらもはや負けだ!その間にも演劇は進んでいく!

と思って言葉の意味だけを受け止めていたら、あっという間に終わっていたというのが正直なところ。

後からよく見たら原作者は不条理劇の代表作家じゃないか!不条理劇ってくくりを知りませんでした。どうやらわたしは好きそうですが。

つじつまを合わせようとしてもそんなことはこの劇において重要じゃないのかも。

でも込められたメッセージのようなものは私なりに受け取ったような気がします。
まったくこの記事に正解はないと思います。見当違いな、なぜそうなった!!みたいなことを今から言うかもしれません。
これは私の観劇記録のためだけに記します。参考にはしないで。可能であればどうか自分で見て。これも読む前に見てほしい。動画配信もあるようですよ。そして私と話をしよう。ただ、苦手な方もいるかもしれません。自分と相談してみてね。

わたしが受け取った(ような)ことを記します。

「玩具メーカーの世界」

メタバースが流行する現代社会にひと槍入れている気がした。1980年台に作られた演劇のようだけれど、その頃にもう開発が進んでいてもおかしくないか?(知らんけど)夢か現実か分からなくなって、自分の欲しいものが簡単に得られる世界に対する恐怖。そこに甘えてとどまってしまっていいのか?そこで得られる幸福は、本当の幸福か、苦労しない、嫌な事がない世界がもたらす幸福に意味はあるのか?

逆境を大変なものと知りながら、逆境に立ち向かうから得られる幸福なのだ。嫌なことから目を逸らして暗いところに閉じこもっていてはダメだ、ひとたび外に出れば襲いくる眩しすぎる夕日にも目を瞑らず、カーテンを開け、世界に立たなければならない、一人で立たなければいけないけれど、隣には一人ひとりの人がいて、話して頼って支え合う、でも最後に立つのは自分の足だ。(この辺は最後の最後、全員セリフの時に受け取り響きました)

自分を攻撃してこないものを傷つける必要がない。(このゲームにおけるそれぞれの「みよこ」がそれである?)何も傷つけるもののない世界は、必要無いから周りに求めもしない、周りの人も困っていないから周りを助けようとも思わない。

ただただ与えることで満たされる?父や母が娘を怒るのはいけないこと?娘のためを思っている、人のことを考え、愛している。
誰もが誰も傷つけない世界でこの愛のようなものは存在するだろうか。

5人の男、「みよこ」に話しかけるシーンがあった。現実における「みよこ」は一番上手(かみて)にいた男だけが見ている気がしたんだけれど、違いますか?完全に考察です。一度じゃわからなかった・・・

「ゴドーを待つ世界」

くだらないゲーム、下ネタ、お笑い、が繰り広げられ、楽しくなって時間を忘れて何のためにここにいるのかも忘れている。さ、行こう!とその瞬間に、ゴドーを待たないと、と思い出す。

例えばテーマパークで列に並んでいる時、友達と話していると時間はあっという間で、はて今は何の時間だったかと思う。不意に自分達の順番が回ってきて、あ、もうここまで並んだんだ、そんなに時間が経ったんだ、と気付く。意味なんて無いかもしれないくだらない話で笑っていたら、「待つ」行為を達成していて、意味のある暇つぶしの時間になった。

ゴドーを待つうちにどんな奴か忘れてしまいそう。それは何か生きているうちに自分の行動の趣旨を見失ってしまいそうになることに似ている。今自分がやっている事がなんのために、どんな意味があるものか、なんて常に曖昧であると思う。

石田隼が演じるものについて

何か概念や幻想であったように思う。確かにそこにいて存在感があるのに、ふらふらと人の間をすり抜けていくような、でも寂しがっていたり、と思ったら研究対象?精神疾患?何が本当か私には見極められなかった。夢と現実がごっちゃになって、まるで殺人ゲームをしていたら人を殺してしまった人がいてもおかしくない世の中のようで、わたしは恐ろしくなったりした。(私が馬鹿なだけかもしれない)


これははっきりとシーンの一つにあったけれど、一人の人間の脳内であった、とする。
くだらないことをたくさん考えていて、私は今どこに行こうとしていたんだっけ?何をしようとしていたんだっけ?と思っているうちにほとんど無意識にスマホを開いてSNSをチェックして、見終えたと思ったのにまたアプリゲームを開いている。

そしてふとあの人は何をしているかな、とか、心の底でずっと後悔している事が頭をよぎったり、疎遠の友達や別れてしまった恋人は今どこにいるだろうとか考えてみたり。

わたしも大概スマホ依存症で、気がついたらツイッターを開いている。自分のTLで起こる2・3の内容に対して同時に思考を巡らせているから、他人からしたら何の話?と思うようなツイートを交錯させている。

そんな脳内のことを考えて、すごく納得がいくなと思った。

そんな脳内を動き回って、あなたこれ忘れてませんか?今はこれに集中しませんか?今は息抜きしませんか?って話しかける信号を送っているようなのが石田隼演じるものだったり?しないかな!しないか!

まぁ考えはさておき、

シンプルに石田隼という役者、すごい、と思った。確かな存在感と、シュールさと笑いと、通る声と、ただならぬ雰囲気。
今まで様々な興味深いお芝居ミュージカルに出ているのを情報として得ていたけれど全て見たくなった。彼にしかできない仕事があると思ったし、出せない空気があると思った。わたしの応援する古谷さんも(まーた出してきてすみません)石田隼には一目置いているので、それは何度も納得しています。


さて、わたしはそんなようなことを考えていました。原作?も読んでいないし、本当にわたしの勝手に受け取ったもの。皆さんの正解がここにあるとは思えません。そもそも正解なんて無いかもしれないし、この演劇においてこんな風に考える必要は全く無いのかもしれない。

私は考えていた方が楽しかったからそうしました。こんなにたくさん考えたことを忘れるのは勿体無いなと思ったので記しました。

あとはひたすら面白くて笑っていた時間と、懐かしい歌を聴いて楽しかった時間と、不条理劇の最後にふと心にまっすぐ届くような全員セリフが畳み掛けてきて涙が出てしまったこと。ゴドーとみよこのことは今だってよく分からない。

きっと伝えようとしていることは一つじゃないし、そもそも人の感情や物事の考え方ってはっきりと境界線が引かれるものじゃない、自分の生き方のことを考えていたら世界の不条理のことを考えることにもなり得るし、そんな演劇であったのではないかと、それが不条理劇なのかな?とか?思ったり思わなかったり、文字にしてたって本当かよ!って思ってます。

それでもとにかく私は、観に行ってよかった、と思いました。

まったく違うことを言っていたらそっと教えてください。でも感じたものが全てだとも思うから、怒らないでください。笑

こんな自信のない記事、読んでくれてありがとうございました。

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