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蛭子能収「最後の展覧会」。
蛭子能収の顔をテレビで見る機会がほとんどなくなった。
バスの旅は人気もあったようだし、私もよく見ていて、笑っていたのだけど、認知症を発症したことを発表してから、出演することが少なくなっていったようだ。
以前から、マンガを描くよりも、テレビの方が楽に稼げる、という言い方をしていて、それは、本心なのだろうけれど、それでも、今の状態でも絵は描けるのではないか。その方が、もしかしたら、蛭子能収、という人の凄さを、改めて伝えることができるのではないか。
そんなことも考えたが、何ができるわけでもなく、そう思っていたこと自体を、少し忘れかけていた。
その頃、展覧会を開催するのを知った。
根本敬 presents 蛭子能収「最後の展覧会」
行ったことのないギャラリーで、だけど、あの根本敬が企画している、ということだった。
蛭⼦能収といえば、世間⼀般の認識としてはテレビタレントにいたおかしな⼈ですが、私にとっては前衛的な漫画やイラストを描く「ガロ」の実に偉⼤な先輩です。
その蛭⼦さんが2014年に認知症の初期段階とTV番組の企画で診断されました。たしかにその頃から物忘れは著しく、画⼒も微妙な感じになってきてはいました。従来の⼿抜きとは違い、線が思わぬ⽅向へ変化しているのです。
その頃⾃⾝の描いたイラストを指して「⼩学⽣みたいな絵やね」と⾃嘲する様に⾔いました。
しかし、蛭⼦さんと私が師とあおぐ湯村輝彦(aka テリージョンソン)さんが「⼩学⽣みたいに⾒えても絶対におじさんにしか描けない絵」と前向きに評したのでした。
6年後の2020年、皆さんもご存じの通り蛭⼦さんは「レビー⼩体型認知症とアルツハイマー型認知症の合併症」である旨を公表しました。
その際に放った「(これからは)認知症のオレを笑って下さい」という⾔葉に偽りはなく、オレは今まで通りバリバリ仕事をするからこれからも宜しく頼みますという意思表明だったと思います。
しかし、現実はそうは⾏かず、認知症を公表したタレントの仕事はみるみる減り、漫画家としての描いたり、もしくは書いたりといった仕事も激減し今や限りなくゼロに等しいのです。
このまま蛭⼦さんをフェイドアウトさせてはならない、絵を描くことからスタートした蛭⼦さんを最後は絵=芸術家として飾って貰えたらと考える⼈達が少なからずいて、この度の展覧会は企画されました。
約1年と少し前の話です。
そして準備も整い今年の春から絵を描き出しました。
とはいえ、この展覧会へ向けてキャンバスに向かう頃には症状は進み、かつて⾃らの⼝から出た「⼩学⽣みたいな絵」は「幼児みたいな絵」になっていました。
しかし、件(くだん)の湯村さんの⾔葉に倣えば「幼児みたいに⾒えても絶対におじさんにしか描けない」、より具体的⾔えば「幼児みたいな絵に⾒えても75歳、認知症の蛭⼦能収にしか描けない絵」なのです。
どの絵も「⽣きる」ということが本質的に内包する儚さを突きつけてくるのですが、それでいて幸せな気持ちにもなってしまうのは企画した私達だけでしょうか。
− 根本 敬(特殊漫画家)
とても、熱のこもったステートメントで、そして、根本敬も、蛭子能収も、熱心な人に比べたら、私自身はそれほど詳しくなくても、すごい人だということは知っていた。
根本敬
根本敬も、気がついたら、読んでいた漫画家だった。
気の弱いおじさんが、信じられないほど理不尽で悲惨な目に遭う、というパターンだったのに、なぜだか、読んでしまうという。そして、他にありそうでない漫画で、だから「特殊漫画家」という肩書きも素直に肯けた。「平凡パンチ」に1980年代に連載していたはずだった。
それから年月が経った。
根本敬の名前を、違う場所で見たのが1999年だった。
それも世田谷美術館だった。
これは同時代の国内(DOMESTIC)のARTの展覧会です。
この企画展の出品者は自分たちの環境や日常を外から眺めるのではなく、そのただなかから何かをつくり続けています。同時代の人々が等しく抱く素朴な感情を絵画/彫刻にたくす奈良美智、身近な素材をもちいて内なる衝動を行為にかえる多田正美、家庭にありふれたもので日常生活にひそむ違和感をあらわにする東恩納裕一、概念や時流に惑わされず同じモチーフを描き長く静かに衝動を燃やし続ける田中敦子、我々の社会や心の陰部を描きこむ漫画家・根本敬、映画作家・大木裕之は身のまわりの人々/風景に愛と欲望をもって迫り、大竹伸朗は、ポップスやカラオケ等我々をとりまく雑然とした文化を消化し視覚化/聴覚化します。彼らは共通して理屈よりも自らの衝動や、ものの手触りを大事にし、気負うことはありません。その表現がはらむ熱、それをこの時代の体温として感じとってみたいと思います。「身近(DOMESTIC)」な場所としての日本のART。これは、この時代を生き抜く「私たち」の展覧会です。
この展覧会を見たときは、家族が病気になり、これから仕事もやめて、介護に専念しなくてはいけない頃で、本当に未来が真っ暗に見えていた。そんな頃に、この美術館に来て、その作品で、本当に気持ちが底の底まで落ちるのを支えてくれた気がして、だから介護をしている時も、アートを見るのが必要な行為になった頃だ。
そのときに出品していたのが、根本敬で、美術館の中にホームレスの住まいを再現していた。それは、とても印象が強く、展覧会の質を左右するのはキュレーターだということも、それから学んでいくのだけど、この展覧会をキュレーションした東谷隆司は、後に40代で亡くなったのを、それからさらに年月が経った後に知るのだから、自分は、何も知らないことに気がつく。
さらに、年月が経って、また根本敬の名前を聞いた。
根本敬ゲルニカ計画
それは、2017年。
根本敬が、大きい絵画を描くという計画だった。
「根本敬ゲルニカ計画」とは、漫画家・根本敬が「個人の意志を超えた大きな何かに突き動かされて」、ピカソの《ゲルニカ》サイズ(349×777cm)の絵画を描こうとするプロジェクトです。
そして、根本の意向に感じ入った現代美術家、会田誠氏が、画材アドバイザーを引き受けることになりました。会田氏は、山下裕二氏(明治学院大学教授)が「国宝にすべき」と公言した「電信柱、カラス、その他」(360cm×1020cm)などの大作絵画で知られ、作品『ミュータント花子』(ABC出版)では根本からの影響を発言しています。
この制作の過程は、「美術手帖」によって連載もされていて、それが、当たり前だけどスムーズにいかないことまで描かれていた。
だから、根本敬は、漫画だけではなく、様々な作品も制作するアーティストだとも思っていた。
そして、いつまでもつかみきれない不思議な人にも見えていた。
蛭子能収
中学生の頃、本屋で、読んだことのない漫画を、時々立ち読みするのが小さな習慣になっていた。
購入するには、お金もないので、店員の目を気にしながらも、まだ学生で若いから、少しは大目に見てもらえるといったずるい考えもあって、でも、それを許容してくれたせいか、いろいろな漫画を読むことができた。
「あしたのジョー」は、最初は、全20巻。
1日に1巻ずつ、本当にはたきをはたかれながら、読み続け、時々、取り出した棚に別の本を店長らしき男性に入れられ、だから立ち読みしていた「あしたのジョー」を戻すときに、ぎゅうぎゅうになっているのに無理やり棚に入れたりしながら、全巻読み終えた。
それは、ほめられたことではないのだけど、他にも、大きい本屋へ寄ったりすると、今度は見たこともないような漫画も置いてあって、やっぱり立ち読みをする。大きい店ほど、立ち読みする人は少なくないので、それほどマメに個別に注意を向けられることもなく、だから、より集中して読めた。
その中の一冊が、蛭子能収の作品だった。
今になってみれば、どの本かわからないのだけど、私にとっては、これまで読んだことがない種類の漫画で、面白いかどうかもよくわからず、だけど、不気味さと不思議さと気持ち悪さが混じっていて、読んでいる間、ずっと変な夢を見ているようで、読み終わったとき、「帰ってきた」という感覚になった。
それから蛭子能収は、個人的にはすごい人になった。
(この本↓の中でも、蛭子能収は高い評価を得ている)。
テレビタレント
気がついたら、蛭子能収という人は、テレビタレントになっていた。
かなり長い間、テレビで活躍した、と言っていい状態だったと思うのだけど、見るたびに、ずっと同じように見えた。それは、その状況に慣れるというよりは、出演するたびにフレッシュな気持ちを保っている不思議な人に見えた。
そして、表現は悪いが、世間の常識から見たら「クズ」と言われてしまうような発言もしていたが、それは狙ってやっているわけではなく、ただ正直に行なっているように見えて、気持ちのままに動いてしまう(普通は歳をとればとるほど出来なくなるはずなのに)人のままのようだった。
それは、最初に蛭子能収のマンガを読んだときに感じた、微妙な怖さに通じるところを思い出させて、やっぱり、この人はすごいと、笑いながら思うことも少なくなかった。
ただ、それとは別にその漫画の評価も、もっとされていいのに、などとそれほど熱心なファンでもないのに思い続けていたら、本人が、認知症になってしまった。
そして、徐々にテレビでも見なくなり、時々、有吉弘行の番組で見かけて、でも、やっぱり認知症は進んでいるのかも、などと思っていた。
そんな頃、展覧会の情報を聞いた。
ギャラリー
展覧会の最終日。やっと行けることになった。
妻と待ち合わせて、久しぶりに表参道の街を歩き、骨董通りという文字を見るのも久しぶりだったけれど、そこから一本入って、歩いて、もうあたりは暗くなっていたのだけど、何かを探す仕草のせいか、「蛭子さんの展覧会は、こちらです」という声をかけられ、初めて入るオシャレなビルに入った。
「並びますけど」と言われた通り、ギャラリーは2階にあるけれど、その階段の1階の入り口から人が並んでいた。ここに来るまでも、この近くに来るほど、どこかで見たような顔の人がいたり、並んでいる前の女性は蛭子能収の作品がプリントされた服を着ていたりして、なんだか、勝手に気持ちも少し盛り上がってきた。
人がやっとすれ違える階段で、上階から何人か降りるたびに、上から「どうぞ、お入りください」という声が聞こえてきて、階段を上る。そのことを何度か繰り返したあとに、2階に到達して、ギャラリーの入り口に着く。
そして、人が出てきて、「どうぞ」と声をかけられる。
蛭子能収の作品
ギャラリーの中は人でぎっしりだった。
壁に20点近くの作品が並んでいる。
一枚、一枚、見ていく。
抽象画といえるのだろうけど、不思議な密度がある。
それは見ている側が、これまでのこと。蛭子能収の漫画。テレビでの姿。根本敬の作品。会田誠とのこと。そして、ここ何十年かの年月。
そういった意味を重ねて見ているせいで、発生している、もしかしたら幻の圧力に近いものかもしれないが、でも、ここには蛭子能収の漫画とは違うけれど、オリジナリティのあるアートがあるように思えた。
色も強く、かなりシリアスな力もあるような気がするが、蛭子能収の漫画が、どこか不思議なぬけがあったのは、そのどこか脱力したような登場人物のせいだと思うのだけど、今回は、作品につけられた、おそらくは本人の言葉があって、それが、妙な明るさを生んでいるように思った。
ごく一例だけど、こうした言葉が作品の下にそっと添えられていた。
「マルタきょうていじょう
勝つか負けるか??」
「ガチャパイなんかいいんだよう」
「もういっちょうですか?!!」
「ほっとした」
「オレはこっちだと思う」
この言葉と、作品と、どう結びつくのかよくわからなかったが、作品は、なんだか良かった。
壁際にそれぞれの列ができていて、ギャラリーの空間の真ん中にも列ができていたが、それは、オリジナルのTシャツの注文を受け付ける列だった。迷ったけれど、列も長いので、あきらめた。
根本敬の文章によると、蛭子能収に、また作品を描いてもらうのは難しいから、本当に「最後の展覧会」になってしまうのかもしれなかった。
それでも、並ぶほど人がたくさん来るとは思っていなかったし、ギャラリーの中でも、アート界の有名人を見かけたから、想像以上に蛭子能収という人は、関心と興味と敬意を集めているのだと思えて、なんだかちょっとうれしかった。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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