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平安時代の「貴族ジョーク」。

 静かな夜に、たまに思い出す話がある。

貴族ジョーク

 確か、何かの本で読んだはずで、詳細は忘れているのだけど、平安時代の貴族が、当時の都・京都の豪邸の中で、それこそ、光源氏でないのだけど、いろいろな意味で恵まれていて、ゆとりがある男性が2人くらいで、当時のおしゃれなご馳走を食べながら、ゆったりと話をしている。

 夜は動物の鳴き声も、何かの騒ぎもなく、ひたすら静かだった。

 そこで、とても遠くから、文字にすれば、ドーンというような、何の音かよくわからない響きが、本当にかすかに聞こえてくる。

 それを聞いた貴族の男性のひとりが、少し間をあけてから、つぶやくように言った。

 あれは…伊豆の山かな…。

 とても遠くの、現在では静岡県の山の噴火の音が、京都まで聞こえてきたといったようなことを言い、そこにいる貴族が静かに笑いあう。


 これは、「貴族ジョーク」として勝手に記憶に残っていて、時々思い出すのだけど、細部は変化して勝手に作り変えてしまっている可能性はある。


音のない夜

 これがジョークとして現代では成り立たない最も大きい要素は、おそらくは夜の静かさの違いだと思う。

 昔の京都は都だから街として整備されていて、だから、野生の動物も少なそうだし、クルマもないし、電気もないから、機械音はない。さらには、夜は暗いから、今よりも、人は出歩いていないだろうし、静かさの質は全く違うのだろうと想像するしかない。

 とんでもなく遠くの音が聞こえることは、ありえないけれど、あるかもしれない、と思わせるほどの静かさ。

 それがないと、この「貴族ジョーク」は成立しない。

 今は、都と言われるような都会では、月並みだけど「眠らない街」などと言われて、大げさでなく24時間体制で、誰かが働いているし、動いているし、遊んでいる。だから、何かしらの音はするし、場合によっては突発的な出来事もある。

 昔、新宿の居酒屋で会計をしているときに、非常階段の方から泣き言が聞こえてきたことがあって、どうしようかと思って、終電も近づいているし、申し訳ないけど、勝手に大丈夫だと思ってしまったこともあるが、どうなったのだろうと、急に思い出したりするし、今の緊急事態宣言下の都会の繁華街は、普段と違って静かなのだろうか、と思ったりもするから、現在の都会でも変化はある。

 少し、話がそれました。すみません。

 どちらにしても、現代では、都会の夜が、すごく静か、というのは考えにくい
 耳をすませば、具体的な音がひっきりなしに聞こえてくる場所では、想像でしか届かないような遠くの自然現象の音(伊豆の噴火)を思いつくこと自体が、とても難しい。


 現代でも、都会以外の場所では、すごく静かなのかもしれない。このことは想像でしか語れなくて申し訳ないのだけど、子供の頃、窓から見える景色は田んぼか畑の場所に住んでいた時は、季節によるけれど、カエルの声がとても分厚く聞こえてくることもあったし、動物の声が結構聞こえてきて、静かだけど、物音がしない、という印象はあまりなかった。

 だけど、それは自分の狭い経験でしかないので、今でも、夜は怖いほど静か、という場所はあると思うけれど、だけど、おそらくはそういう場所は人口密度が低いと思われるので、そうした静かな夜を知っている人は、やはり少ないかもしれない。

「都だけが人の住む場所」という貴族の価値観

 そんなに多く読んでないから、分かったようなことをいうのは恥ずかしいけれど、平安時代に書かれたものを読むと、京都という都に住んでいる貴族は、それ以外の場所に行くのを、例えば、光源氏なども、異常に嫌がる。

 例えば、今で言えば、そんなに遠くないだろうし、牛車を使えば、自分で歩かなくてもいいから、といった場所に行くのも、この世の終わりみたいに嘆くけど、どうやらそれは、当時の平安貴族は、「みやこ(京都)以外は、人が住むところではない」といった、とんでもない差別的な発想なのかもしれないけれど、たぶん、普通にそんな風に思っていたらしい。

 そう考えると、都を離れるのを、すごく嫌がるのも、少し分かる気がする。

 そうした感覚と、冒頭の「貴族ジョーク」が成立することとは、関係があると思う。
 静かな夜に、遠くの山の噴火のことを冗談として言えて、それで笑い合えるのは、もしも、本当に伊豆の噴火であったとしても、貴族としては、そこは人の住む場所でないから、自然災害として想像していないはずで、だから、噴火もジョークとなる。

 今だったら、ニュースが流れて、もちろん場合によっては被害も報道されて、笑えるものではなくなる。そして、それをジョークとしたら、場合によっては、不謹慎と指摘されて、「炎上」してしまうかもしれない。

想像力での笑い

 そんないろいろな要素のために、21世紀の現代では、当然かもしれないけれど、「貴族ジョーク」はジョークとしては成立しない。

 それでも、静かな、物音が全くしないような夜の、小さな異音に対して、その場の誰もが思い付かないような、とても遠くの自然現象のことを引き合いに出して、そこにいる人間に、一瞬でも、その姿を想像させて、その後に、そんなことがあるわけないじゃないか、といったような突っ込みも含めて、笑いになる。

 そういう、一見わかりにくく、相手の想像力を待って、爆笑ではないのだけど、静かな笑いを起こすジョークは、今でも可能なのかどうかも、考える。

 それは、空全体を覆うような星を見て、今から考えると無理矢理過ぎるような造形でもある「星座」が見えてしまったり、毎日形を変えている雲や、時おり、今まで見たこともないような不思議な色に空が染まるような状況に、龍が登っていく姿が見えてしまうような力と、「貴族ジョーク」を創造することには、もしかしたら似たような力が必要なのかもしれない。

 個人的には、そうしたことを想像する能力も、それを可能にするゆっくりした時間も足りなくて難しいが、それでも、そういうことが可能な人は、今でもいると思っている。

 今は、コロナ禍で、これまでにない不思議な時間の進み方になっている部分はあって、だけど、それをジョークに変えるようなことが難しいのは、やはり感染への怖さや、感染した場合の社会からの排除の可能性に脅かされていて、想像力が働く余裕が、やっぱりないからかもしれない。

 だからといって、誰かの力で、今の状況も含めて、想像力を持って、静かな笑いに変えてくれないだろうか、と思うのは、図々しいし、人に頼りすぎだとも思う。




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