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「ナカメ」以前

 東京の中目黒のイメージが、今、どのくらいなのか、正確なことはわからない。

 住みたい街ランキングで、中目黒は2024年・13位になっているから、かなりイメージがいいことはわかる。実際に少しでも訪れてみると、やっぱりおしゃれな雰囲気は強くて、だから、ちょっと敷居が高い。

 それは、かなり多くの人にも共通する気持ちだと思うし、「ナカメ」などと言っている人も、もしかしたら実在するかもしれない、というような街にはなっているのは事実だけど、こんなに洗練された街になったのは、おそらく21世紀になってからのはずだ。

 20世紀には、こうした街になるとは想像もしていなかった。


高架下

 あまり古い話ばかりをすると、うっとおしいとは思うのだけど、20世紀の末くらいの中目黒は個人的には全くイメージが違っていた。

 東横線も、全ての駅がおしゃれな訳ではなくて、自分もその沿線の大学に通っていたけれど、その駅は静かで落ち着いていたし、自由が丘は近かったけれど、そちらには向かうことは少なかった。大学時代はサッカー部にいたのだけど、飲み会で行ったのは、地元ではない時は中目黒だった。

 東横線でいくつかの先の中目黒に降りて、よく行っていた飲み屋は、大樽という名前だった。その居酒屋は、今も存在していて、こぎれいな居酒屋になっているが、その頃は、いわゆる高架下の店だった。

 広い畳の部屋もあったから、それで、運動部の飲み会には使いやすく、さらにはありがたいことに値段も安かった。さらには、昔の大学生の方が酒の飲み方は粗かったと思うし、酔っ払って、微妙にもめたりすることもあった。

 よく分からないのだけど、頭でしょうゆをかけあったりする人たちもいたし、なんだか少し暴れたせいかガラスがちょっと割れたり、あとは、もちろん嘔吐もあったけれど、それは、当時でいえば、大学生だから、と大目に見てくれていたのだと思う。

 さらには、いろいろあったときに、先輩方が店の方にあやまってくれていたおかげで、出禁になることもなく、卒業まで、その居酒屋に行っていたし、中目黒にも訪れていた。

 ただ、その頃の中目黒は、個人的には高架下のイメージだったし、街も今より夜も少し暗く感じていた。大学を卒業したら、しばらく行く機会自体がなくなった。

楽園

 それから何年も経ってから、また東横線に縁ができた。

 就職して2年足らずで最初の会社を辞めて、次の会社はアルバイトから始めて契約社員として働いていたけれど、場所が渋谷だった。
 その会社もやっぱり2年いなかったので、会社勤めは、合計で3年だったのだけど、渋谷に通っている頃辛かったのは、混雑した東横線に乗る機会が多かったことだ。

 出版社で働いていたから、労働時間も不規則で、徹夜のようなこともあって、そのあとに人がぎっしりいる車両に乗るのは、やっぱり厳しかった。

 渋谷から、中目黒は2つ目の駅で、だから、かなり近い。

 その5分くらいも満員電車は、苦しい。

 何やっているんだろう。

 その頃、契約社員になったとはいえ、そのあとに正社員になるとしても、先が見えなかった。それよりも、書くこと自体に集中したくて、さらには自分が書きたい事を書くようになるためには、会社を辞めてフリーになった方がいいのではないか。

 だけど、一人でやっていく自信もなくて、などといったごちゃごちゃしたことも頭の中に浮かびながら、人と人とのすきまから、電車の外は見えている。

 中目黒の駅に着いたのはわかって、窓の向こうに川があった。

 そこに、人工的に作られた小さな河川敷のような場所はあるのは知っていた。たぶん春のせいか、雑草なのだろうが、その平面に小さい花がたくさん咲いていて、そのシルエットが草原のようにさえ思えた。

 そこにヒラヒラしたスカートをはいた小さい女の子が2人くらい、どうやらそこの花をつんでいたのが見えた。その姿と草花が一体化していて、満員電車の窓からおそらく1分くらいの時間にも関わらず、自分が疲労と迷いと不安の中にいたせいか、その小さい河川敷がすごく美しく見えた。

 まるで楽園だった。

 だけど、電車が走り出したら、その光景は見えなくなったし、その場所も、それから何度も通り過ぎたけれど、2度とあんな光景を見かけなかったから、だんだん、あのとき、疲れていた自分が見た、ちょっとした夢だったのかも、などとも思うようになった。

 その後、中目黒の隣の駅の祐天寺で初めての一人暮らしをしたこともあったが、学芸大学と真ん中ぐらいの場所のアパートに住んでいたこともあり、距離的にはかなり近いはずなのに中目黒には縁が遠いままだった。

カフェ

 2000年代に入る頃、世間では「カフェブーム」と言われていた。

 そのころは、介護に専念する中で、仕事ができなくなって、無職で介護だけをしている人間になっていた。

 だから、雑誌で「カフェ」の特集をやっていると、そこが同じ都内であっても、自分にとってはとても遠くて、介護をしながら、何度もそうした雑誌を読んでいたのは、介護だけをしていた環境が、自分が思った以上に辛かったから、読むことで意識だけでも少し遠いところへ行こうとしていたのだろう、と思う。

 そうした特集の中で、必ず取り上げられていたのが「オーガニックカフェ」だった。

(「オーガニックカフェ」については、この記事↑に詳細が書かれています)

 場所は中目黒だった。

 介護の生活をしながら、それでも、ごくたまに外出をしないと、本当に行き詰まりそうだった。時間の感覚もおかしくなっていて、いつまで続くか分からないから、未来のことを考えるのが辛く、いつの間にか少し先のことを想像することもできなくなっていた。

 そんな頃、どうして時間をつくったのか覚えていないが、中目黒に行く機会があった。もちろん、介護は続いていたから、それほどゆっくりもできず、帰らなくてはいけない時間も決まっているから、ずっと緊張感もありながら、オーガニックカフェにも行った。

 そこは川沿いにあって、カフェの前には、昔、楽園かと思った小さい河川敷があった。

 そこは、すっかりきれいに整備されていたけれど、その時の気持ちは思い出した。

 個人的な印象では、オーガニックカフェが出来てから、中目黒は変わってきたと思っている。

中目黒

 それから、随分と時間が経った。

 気がついたら、完全にキラキラした街になっていた。

 目黒銀座商店街の中に、雑誌やマンガをたくさん置いてある古本屋が2軒あったのに、当然のように、そうした古いたたずまいの店はなくなっていた。

 芸能事務所が中目黒にできたせいもあって、芸能人の街になったと思っていたが、それだけの単純な理由ではなく、やはり、この20年で急速に発展したようだった。

 中目黒にはファッション業界関係者が数多く住んでいました。ショップ店員だけではなく、スタイリストやファッションデザイナー、さらにはフォトグラファーやヘアメイクといった横文字系の職業に就くクリエイターがこのあたりに住みつき、仕事で繋がりのある芸能人と一緒に呑み歩く。そうして「中目黒=芸能人の街」というイメージが定着していったのです。

(「求人飲食店ドットコム」より)

 東横線に乗っていて、そこから見える中目黒の景色がすっかり変わったと思えたのは、駅前に大きなビルが出来てからだった。

 それは2002年で、確かにその頃から中目黒は変わっていった。

 そして、オーガニックカフェは2005年に閉店して、自分にとっては、電車の窓の中から見た「楽園」の気配は、そこからはあまりなくなって、もっと違う方向のキラキラした「ナカメ」といわれる街になっていったような気もする。

 ただ、それは「ナカメ以前」を(ほんの少しだけ)知っている人間のノスタルジーに過ぎないのだろうとも思う。

 居酒屋「大樽」は今もある。
 それは、やっぱりすごいことだと思う。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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