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『豊嶋康子 発生法ー天地左右の裏表』-----「歴史化した蓄積」。東京都現代美術館。2023.12.9~2024.3.10。

 1990年代の末だから、もう25年くらい前のことになる。

 豊嶋康子の作品は目にしていて、記憶に残っているけれど、特に印象が強いわけではなかった。


作品の印象

 確か、一本の鉛筆の真ん中を削って、そこに両方から芯が出て、それがつながっているような鉛筆がケースに入っている作品だった。それはパッと見ると鉛筆が二本ありそうだけど、一本の鉛筆が、そのような形になって、でも、使えない状態になっている。

 それは、学生のアイデアのようなものを形にしていて、誰もができそうで、しかも身近でスケールが大きいとはいえなくて、だけど、少しでも考えたら、鉛筆はその頃は、もっと日常的に使われていて、このように真ん中を削って、鉛筆だけど、鉛筆ではないようなものを実際につくって、それを作品として展示するまでが、実はかなり困難なことに後になって気がついたりもする。

 さらには、壁にたくさんの「振込カード」が展示されているのは分かった。そこに作者の豊嶋自身の名前もあったから、作家本人が行った行為なのも理解できたのだけど、その意味自体がよく分かっていなかった。

 とても人目をひく、というような作品ではなかったから、強く印象に残ったわけではなかったのだろうけれど、でも、そうした誰もができそうに思えた作品も、意外と、似ている作品が少ないまま、年月が経った。

 そのことで豊嶋の作品のオリジナリティーの強さを知るようにもなった。

習慣

 私も1990年代が終わる頃に、介護を始めて、仕事もやめて、それから、20年近く介護を続けることになったけれど、その間も、アートを見に行くことで、気持ちが支えられる習慣は続いていた。

 2018年末に、急に介護が終わった後に、コロナ禍になりアートを見る機会が圧倒的に減った時期もあって、それでも人混みを避けながら、時々見に行った。こういう言い方は失礼だとは思うけれど、私が行きたいと思うような現代アートの展覧会は、かなり空いていることが多かったから、そういう意味ではコロナ禍でも行けたのかもしれない。

 そして、2023年の年末から、豊嶋康子のかなり大規模な個展が初めて行われるらしい、ということを知った。

インタビュー

 そうした個展が開かれることもあって、インタビューも行われ、考えたら、初めて作家の考えていることを、比較的詳しく知ることもできたし、この30年の経過も少しだけど、分かるような気がした。

 勝手に意外だったのが、アーティストとして、かなり苦しんだ時期が長いことだった。

 若くしてデビューしたものの、その後は大きな活動の機会も減り、悩みの時代が続いた。地道に制作を続けるも、展示やレジデンスの機会に恵まれず、周囲の動きに戸惑っていたという。

豊嶋 2000年代はターニング・ポイントがないことがターニング・ポイントのような時代でした。デビュー後、1994年には美術評論家の鷹見明彦さんらが企画した展示に呼んでいただき、今後発表の機会が増えるのだろうと思っていたら、そうでもなく。95年には一人暮らしを諦めて埼玉の実家に戻りました。そして、戸惑いのうちに2000年代が進みました。
少し上の世代は海外に行っているという情報もあり、私もどこかにいくべきかといろいろ申請しましたが、《ミニ投資》や《口座開設》は日本のシステムを使っていますから、文脈が複雑で説明が必要な作品になってしまう。そうして私がもたついている間にコマーシャル・ギャラリーが増加し、自分より若い世代はそこに所属することが普通になった。ちょうど世代の狭間に落ちたような感覚でしたね。「私はこんなに考えているのに、なんで上手くいかないのか」と不貞腐れていた。「ポイント」ではなく、長期的な焦りのような「ターニング・ゾーン」とでもいう期間が2000〜07年頃まで続き、とても悩んだ時期でした。
──その長いトンネルをどう抜けたのですか?
豊嶋 その状況に飽き飽きして、どうして不貞腐れたのかわからなくなるほどエネルギーを使い果たしたのが2007年ぐらいです。ちょうどそのころ、相撲を見ることに不思議なほど集中した時期があって、そこで毒が抜けたと言いますか、徐々に道が開けていきました。

(『東京アートナビゲーション』より)

 豊嶋は、東京藝術大学在学中に、美術館でのグループ展に作品を展示していたのだから、未来は明るく見えていたはずだ。さらには、このインタビューの中にあるように20代のうちに美術評論家の企画した展示にも呼ばれれば、もっと発表の機会が増えると思ってしまうのは自然なことのはずだ。

 だから、私が豊嶋の作品を初めて見た1990年代の後半は、すでに本人的にはうまくいかず実家に戻っている頃だったのも、このインタビューで初めて知った。

 ただ、1990年代後半の観客にとっては、豊嶋はまだ若手で、新表現主義という、かなり粗い説明をすれば、その時代の「新しい絵画表現」が盛んになっていた頃だったから、豊嶋のようなコンセプチャルな表現を続けている作家は希少なようにも思えたし、そこに勝手に強い意志を感じていたから、当たり前だけど、作品にそうした戸惑いのようなものを見ることができなかった。

 その後、実はかなり長い年月が流れていて、その間も私は現代アートを見続けていたけれど、豊嶋の作品は時々、見かけていた印象があるし、2010年代半ばには、グループ展で見たのは新作のはずで、それはパネルを使ったものだったけれど、スタイルは違っているにも関わらず、20年前に見た作品と、一貫してつながっているように感じた。

 だから、インタビューによれば、2000年から2007年という長い年月の間、かなり戸惑いと焦りの中にいたことは、観客としては知らなかった。

 ただ、今回、こうした本人の言葉を少しでも知ると、若くしてデビューできたとしてもアーティストとして続けていくことの難しさを改めて感じ、こうしてコンパクトにまとめられているものの、その焦りと戸惑いの時間は、豊嶋の30代とほぼ重なっていたはずで、作品制作に関してはもっとも体力も気力も充実していたはずの時期に、発表の機会に恵まれなかったのに、それでも、やめなかった凄さのようなものも、勝手に感じていた。

 それで、より今回の個展に興味が持てた。

豊嶋康子 発生法──天地左右の裏表

 その展示会場は、東京都現代美術館の1階で、外からも内部が見える。木製の並んでいる姿は、窓を通しても、なんだか美しく見えた。

 最初の部屋には、木製のパネルが並んでいる。

 そして、最近の展覧会には紙製のハンドアウトは少なくなってきて、QRコードを読み込んでください、といった場合も増えてきて、スマホも携帯も所持したことがない観客にとって少し戸惑うこともあったのだけど、この展覧会はそのハンドアウトはあった。

 そして、普段はそれほど見ないことも多いのだけど、今回の展覧会に関しては、この説明が必要不可欠だった。

 展示されている作品には、キャプションなどはないから、ハンドアウトを見て、現在位置を確認して、そして番号と作品が一致しているのも見直して、その番号の説明を読む。

38  
パネル
2013―
本来は干渉する部分ではない
パネルの裏面に、他にあり得るであろう
骨組みのパターンを増やし続ける。
壁に斜めに掛けてあるので、鑑賞者は
作品の横から裏面を覗き込むことができる。

(「ハンドアウト」より)

 そんな言葉があったものの、それで、何か見え方が違ってくるわけではなかった。ただ、実際に存在するものに対して、作家が働きかけて、本来とは違うものにしている。そういう意志のようなものは伝わってきた。

 
 壁には、色のついている不定形なピースが並べられていて、それは不規則な曲線を描いているが、本来は「目指すべき正解」がはっきりしているジグソーパズルのピースが使われていた。

 そのことを知ると、ちょっと見え方は変わって、そのピースがその「正解」のどの部分だろうということを、分かるわけもないのに、ちょっと探ろうとしている自分の意識に気がつく。


 透明なケースの中に、たくさんのサイコロが並べられている作品もある。

04
サイコロ
1993
展示会場でサイコロを振る。
片手に一握り、箱ごと一気に、
アンダースローで、など
私が決めたさまざまな振り方によって
サイコロの目が出る。

(「ハンドアウト」より)

 この偶然性をギャンブルなどの「実用」に使うこともあるのだけど、このサイコロは、ただの偶然を記録するように形にしたものだった。

 しかも、この「制作」は1993年とあるから、それから30年以上が経っても、過去の偶然が、そのまま残されている、ということになると思うと、ただサイコロが並んでいるのに、ちょっとだけ違って見えてくるような気がする。

個人と社会

 廊下のような、外も見える場所には「復元」と名づけられた作品が並ぶ。

 それは、現代陶器のような外観をしているが、作家の想像力を形にしたものだった。

25 
復元
2003-2006
身の回りに落ちていた破片を集め、
もともと在ったであろう形体に復元する。
今ある破片からかつて在った全体を
創造(想像)する成り行きを、
「器」の形としてあらわす。

(「ハンドアウト」より)

 見ていて、ちょっと面白く意外だったのは、その「破片」が復元した全体に比べると、本当に小さくて、この小さい「破片」から、この全体をつくったことを考えると、作家の想像力の強さみたいなものも感じられたことだった。


 次の広い展示室には、初期の作品も並べられた。

 もっとも最初期の「マークシート」。(1989-1990)

 イスと机が一体化していて、かなりコンパクトなのだけど、白くて、ちょっとかっこいいその机の上に紙が並べられている。それは、いわゆるマークシート方式の解答用紙の、本来、塗るべき細長い楕円の部分だけを残して、他の部分を鉛筆で真っ黒に塗りつぶしている、という作品だった。

 入試試験というシステムを、採点する手間を少しでも省くために開発されたのがマークシート方式のはずで、このテストのために、普段はあまり使わない鉛筆を用意し、何本もよく削って、そして、このマークシートは塗りにくく、面倒臭かった印象も思い出した。
 さらには、こうして他の部分だけを塗りたくなるような衝動も確かに少しはあった気もしたが、でも、実際にできなかったのは、試験に関係ない行為である以上に、とても手間と時間がかかることを想像しただけで気持ちが萎えてしまうからだった。

 だから、この行為をしているだけでも、なんだかすごいと思えてしまったし、他にも、見たことがない作品や、過去に見た記憶がある作品も並んでいるが、個人が社会に対して、それも大規模ではなく、スキルや時間は必要だとしても、誰もができるような介入方法を提示しているようにも思えた。

 分度器や定規をオーブントースターで加熱して、本来とは違う形にしてしまったものは、その偶然性も含めて、どこか美しくも見えたし、作家が自分と社会が関わった結果を、そのまま展示することによっても、作品として成立していること自体に、ちょっとうれしい気持ちにもなったのは、自分にも何かできるのではないか、といった思いになれたせいかもしれない。

18
発生法2(断り状)
1998
これまでに受け取った各種の断り状を
保存・収集し、印刷物の作品として扱う。

(「ハンドアウト」より)

 私自身も、たくさんもらった就職活動の時の「お祈りします」と書かれた自分の断り状も、まだ保管していることを思い出した。

19
発生法2(通知表)
1998
小学校、中学校、高校から受け取った
通知表を展示する。他者が
私の存在について入力した方法を、
自分の方法としても提示する。

(「ハンドアウト」より)

 通知表は、おそらく誰でもがもらったことがある。こうして展示することによって、確かに「作品」になっている。

印象の強い作品

 そして、過去に見て、この作家のことを覚えさえてくれた印象の強い作品も並んでいる。

13
 鉛筆
 1996-1999
 鉛筆の中心付近に芯が出るように、
 両側から中心に向かって削っていく。
 1本の鉛筆は2本で向かい合う形となり、
 内向きの芯を折らない限り
 使用することができない。

(「ハンドアウト」より)

 他にも、「ミニ投資」(1996-)は、とても少額で株式投資をし、その変動を列挙しながらも、生涯売却しない作品だったし、「振込み」(1996-)は、現在では違う意味合いを持つ言葉にもなってしまったけれど、自分の銀行口座に、ATMから振り込みを続け、その際に「振込みカード」も発行し続け、その振込みカードを展示している作品。

 こうした詳細はハンドアウトを見ながらわかっていくことだけど、やはり、ただ作品を見るだけよりも、こうした意味合いを知りながら鑑賞すると、その淡々とした物質に違う意味が帯びてくるようにも感じる。

 振込みカードは、通常は、こうした使い方をしないものだけど、でも、こちらが機械に対してリクエストすれば、毎回、律儀に発行され、それにかかる経費なども考えてしまう。

 そして、ケースの中に通帳が何十冊も並んでいる。

 そこに記された銀行名は、2020年代の現在では、すでに存在しない銀行もいくつもある。

15
口座開設
1996-
銀行口座での口座開設の手続きで
1,000円を入金して、2週間後に届く
キャッシュカードを待つ。
カード到着後に口座開設時の1,000円を
引き出し、別の銀行で口座を開設する。
この手続きを繰り返す。

(「ハンドアウト」より)

 昔、最初に見た時は、この方法まできちんと見ていなかったけれど、これは原理的には銀行が存在する限り、無限に続けられるはずで、しかも入金1,000円ですぐに引き出されるとしたら、やはり銀行側の経費としてはマイナスになるのではないかなどと思った。

 同時に、こうした、誰でもができるけれど、思いつかず、さらには実行するにはややハードルが高い行為を形にして作品化していることに、20年ぶりに見て、改めて感心もした。

 他にも、木彫りや、照明や、比較的、身近な材料を使用し、無意識に他の方法はないと思われているようなオーソドックスな作業を選択していないことで、作品になっている。

 できそうでできないことが形になり続けているように感じた。

 それが作品数としては約500も揃っている。 

 そして、このハンドアウトの番号は、作品の制作順に並んでいるようで、数字が若いほど、より古い作品になっている。そのため一見、ハンドアウトでは数字の並びがアトランダムで、ちょっとわかりにくくもなっているが、そのことも含めて、作品の意味を増やしているようにも思える。

 コンセプチャルアートは、個人的な印象としては、かなりクールで、それは言葉を変えれば理性は動かしても感情に関わってくることは少なかったので、展覧会場に入る前は、少し構えるような思いもあった。

 だけど、展覧会場に滞在する時間が長くなるほど、その作品を、美術作品、それも現代美術の作品として成り立たせるために、作者がどれだけ考え抜いたのだろうか。といったことを想像させてもらえ、それは自分の気持ちにも届くような気がした。

 さらには、30年以上、作品を制作し続けた歴史の蓄積にも思いが至ると、それだけでもさらにさまざまな気持ちになれた。


 普段と、少し違うことを感じたり、考えたりすることができるので、日常に疲れを感じている人にこそ、おすすめできる展覧会だと思います。

 私自身も、これだけ楽しめるとは思いませんでした。





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