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「考え続けざるを得ないこと」--------『ケアと利他、ときどきアナキズム』第7回。

「ケアの倫理とエンパワーメント」を読んで、過去の文学作品も、視点を変えれば、違う読み方もできるし、それは、「ケアの倫理」が大事にされる世の中に近づくかも、というようなことを思えて、その著者である小川公代氏が特別ゲストとして、これまで、この講座を続けてきた近内悠太が対談のような形式をとってくれるというので、行きたいと思っていた。

 当日まで行けるかどうかも分からなかったけれど、何とか出かけられそうだったので、会場になる隣町珈琲にメールで問い合わせたけれど返信がないので、電話をしたら、当日参加も可能だと知って、やっぱりちょっとうれしかった。


『ケアと利他、ときどきアナキズム』第7回 特別ゲスト 小川公代

 前回、第6回に初めて参加した時は、10名程度だったのだけど、今回は60人はいたと思う。これだけの人数も収容できるのだと思った。

 二人が話を続け、ケアのこと、利他のこと、そしてアナキズムにも広がっていったのだけど、でも、これまで思っていたアナキズムは、過激とか、革命といったことと強く結びついている言葉だったので、それだけではないことはわかった気もした。

 それは、もしかしたら、書籍などで文章で触れただけでは、その全体的な印象はつかみづらく、そういう「理解」はできなかったと思うから、こうした対話の中で出てきて、それを聞いたことで届き方が違うのは分かった気もした。

 さらには、安楽死や自由意志についてなど、その言葉の強さにとどまらないような、そこから、人の気持ちの豊かな揺れのようなことにまで話が及び、複数の声と思考のあることの重要さも伝えてくれたような気がする。

 約2時間、ずっと話は続き、熱のこもり方も変わらずに、密度の濃い時間ではあった。

考え続けざるを得ないこと

 そういう時間の中で、時々、ふと考え続けてしまうことがあった。

 冒頭に近内氏が、小川氏の最新刊『世界文学をケアで読み解く』を読んだことについて触れ、「説教」がなく、背中を押してくれる作品、という言い方をしていた。

 その「説教」というのは、「正義」のようなことで「すべし」になりがちで、それは、強制になって、ケアではなくなる、という話だった。

 それについて納得する気持ちもありながら、臨床の医療従事者のことも話題に出て、当事者と、共事者という言葉も出て、それらがイコールではないのは分かっているつもりでも、自分にも関わる、もう少し広い「現場」のことについても、話を聞きながら考えてしまった。

介護の現場

 自分自身は、家族の介護をしていた時、その状況や気持ちを表す言葉を持てなかった。そんな余裕もなく、ただ目の前のことをするしかなかった。その中で、外の環境に対しての、その理不尽さに対して、何かを働きかけても、その存在を無視するように、聞く人もいなかった。

 そんな経験もあり、介護者への支援が必要なのに、ほぼ存在していないから、自分自身が、その役割をしようと思って資格をとり、介護者相談を続けてきて、10年目になった。機会があれば、介護者の心理について、少しでも伝えようとはしてきた。

 だけど、いまだに、介護者の気持ちについて、自分自身の能力のなさがあるにしても、あまりにも理解がされないことに、無力感と苛立ちも感じてきた。

 介護を始めてから20年の間に、直接、もしくは書籍などで触れてきた理論や論理など「専門家」の発する言葉が、介護の現場を支える機会は少なく感じたし、特に自分自身が介護者でもある時は、むしろ、排除されるのではないかと思ったことさえあった。

 それは、現場の狭い考えかもしれないが、かえって気持ちが追い込まれるような言葉であることもあった。

 そうしたことは、自分自身の理解力のなさや、ないがしろにされた怒りのようなものが、完全に昇華されていない未熟さもあるかもしれないが、ただ、上の方から、現実を無視して決め付けられているように思うこともあった。

 だからこそ、こうしてケアの倫理などについて、もっと広く抽象的に考えてくれる人の言葉を聞いて、考えることで、もう少し届く言葉を、自分も持てるようになるかもしれない、とも思っていた。

 だけど、そうした現場での、自分を否定されるような経験をした人間の言葉には、おそらくまだ微妙だけど怒りもあるだろうし、とにかく「介護者の気持ちを正確に理解しようとしてほしい」というような願いに近いことも、「正義」の言葉のように、そして「説教」のように思われて、その時点で「聞かなくてもいい言葉認定」をされるのではないか。

 こうしたことを思うのは、おそらくは近内氏の話していることを正確に理解していないせいだろうと考えながらも、約2時間のあいだ、そんなちょっとした怖さも抜けなかった。

専門家

 これまで、個人的に納得がいくことを述べてくれた「専門家」も、もちろんいる。

 ケアをすることは容易ではない。時間やエネルギー、財源を費やし、体力や決断力を奪い去る。それはまた、ケアをすることで効果があるとか希望が持てるといったごく素朴な思いに大きな疑問符をいくつも付すのだ。ケアをすることは苦痛や絶望を募らせ、自己を引き裂く。家族にも葛藤をもたらし、ケアのできない者やしない者とケアをする者との間に溝を作ってしまう。ケアはきわめて困難な実践なのである。専門である医学や看護の諸モデルが提案するよりもはるかに複雑かつ不確かであり、専門領域に限定されない実践なのである。というのも、わたしにとっては、ケアをすることの道徳的・人間的な中核は決して精神科医であり医療人類学者である自身の専門家としての仕事から得られたものではないし、主として研究論文や自分の研究から得られたものでもないからである。わたしにとってのケアをすることの道徳的・人間的な中核は、何よりもまずジョージ・クラインマンのケアをする第一の存在として始まった。自分自身の新たな暮らしから得られたのである。

(「ケアをすることの意味」より)

介護を担うあらゆる人にとって、それは、以前のままの愛する人を失い、それまでの関係が失せ、夜安らかに眠るという基本的な欲求を奪われ、夢と目標を失い、人生のその段階で当然得られるべき余暇の時をなくし、自分自身の人生を自分の手で思うように動かすできなくなることにほぼ等しいのです。この次々と訪れる喪失によって、介護者が弱っていくのは容易に理解できますが、外部の人間にはそれがほとんどわからないのです。

介護者にのしかかる言葉にならない負担の一つは、親類にせよ専門職の人たちにせよ、他者から下される判断ではないかと思います。たいていの介護者はこうした判断が、結果としてストレスが増すだけだと気づいています。診療に当たり、介護者からよく耳にしてきた言葉があります。それまでにあまりにもたくさん泣いてきたので、葬式の時に流す分がないだろうというものです。

(「認知症の人を愛すること」より)

 アーサー・クラインマンは、自身も介護の経験をし、ポーリン・ボスは、長年にわたり、認知症の介護をする人たちから、直接、話を聞き続けてきたようだ。

 どうしても、それが、自分の思考の限界だとしても、当事者性のことを踏まえた上でないと、十分な抽象化は、特に「ケア」に関わるときは、難しいのではないかと思ってしまう。

上空

『ケアと利他、ときどきアナキズム』第7回は、結果的には、講座の内容は充実していた。でも、どれだけ質が高くても、これから先は、自分の能力の足りなさのせいかもしれないけれど、ただ上空を通り過ぎていくだけかもしれないと思った。

 前回、第6回の講座に参加して、質問とお願いのようなことを語り、それは、その場にはとても邪魔な言葉のように感じてしまったことも思い出し、それも含めて考えた。

 この数年、ケアという言葉はあちこちで聞くようになり、美術専門誌の特集になったこともあって、だから、介護も含んだ広い概念としてケアがあって、だから、それが広まっていけば、介護も変わるかもしれない。などと思ってきたが、もしかしたら、そういう現実の介護の現場の全てを、抽象度の高い「ケアの世界」では、包括しない、といったことが見えたとしたら、自分にとっては、あまり意味がなくなってしまうだろう。

 ただ、久しぶりに、こうしてリアルな現場で対話も聞けて、こうやって考えられるだけでも意味があったと思うし、このもやもやした気持ちや、無力感や焦燥感なども含めて、もう少し考えて、そして、次回、偉そうかもしれないけれど、この講座があったときに、参加するかどうか決めたいと思った。





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