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どうして勉強が必要なのか。

どうもおはようございます、斎藤海鈴です。


遂に毎日投稿の記録が途絶えてしまいました。思ったよりも早い幕切れ。

短いながらもこれまでのnote歴を省みると、インターフェースに褒めて貰えるのがただ嬉しくて、ついつい己のペースにそぐわない毎日投稿に手を出してしまっていた様な気がしています。

クオリティは度外視して必ず、毎日、確実に投稿することがブログ継続の秘訣だそうと先日紹介した本で読み、納得している自分がいました。ですが、終盤は「つぶやき」に逃げ、義務感に苛まれた状態で記録を伸ばそうとしたのは正直にいって如何なものかと。最も大切な「楽しんで継続する」というこころざしが失われていました。

という訳で、今後は1日に1本(以上)を投稿するというお約束はせず、それでいて自分のモチベーションを保つことのできる「毎日noteのページを開き、1文字だけでいいからやる」というのを目標に、ゆるりと楽しくやっていこうと思います。よろしくお願いいたします^_^





前置きが長くなってしまいました。今回は、昨日にふと思いついた、自分なりの「どうしてひとは勉強をしなくてはならないのか」という問いに対してアンサーをお話しします。いま、自分の意見をクリアに言語化できた事がとっても嬉しいのです。

先人たちの内容と被るかもしれませんが(予防線)、自分の言い回しなんだからこれはわたしの意見じゃい!短いですから、サクッとお読みくださいね。


どうしてひとは勉強をしなくてはならないのか

見知らぬ人が大勢いる中で、自分がひとりぼっちだととても寂しい。新たな友を得るチャンスと捉える事もできるけど、それなりの勇気を必要とする以上は中々行動に移せず、不安になってしまう。

そんな時、たった1人でも自分の知っている人がいればほっとするし、おしゃべりができたら楽しさが生まれる。余裕が出てきたら、知らない人の中から自分との共通点を見出せるようになるかも知れない。


勉強とは、この広い世界の中で知識という知り合いを増やす行為なのです。

世の中には沢山の言葉やモノが溢れている。言葉が読めなければ何があるのか分からずにモヤモヤしてしまうし、読めたとしても書かれている事が自分の知らない事だったらガッカリしてしまう。

でも、情報世界の大海原に1つ、自分の知っている言葉やモノを見付けられたら、それだけで嬉しいですよね。大して己に関係のない事かも知れないのに、知っている要素を見付けられたというだけで勝手な親近感を抱ける。

知っている要素がある、という安心感が「もう1つくらい勉強してみようかな」という気持ちに変換できちゃったら、そこから世界は広がる。自分の味方が多い、楽しい世界。知らない要素にぶち当たった時には恥や戸惑いを感じるかも知れないけど、きっと更なる探求欲へと繋がる。

自分の目に映る世界をもっと楽しくする。これが勉強する理由ではないでしょうか。

(了)



ではでは、穏やかな一日を祈って。



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