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サラリーマンだった私が、「文春」や「Number」で記事を書くようになるまで。♯2 甲子園の熱戦が背中を押してくれた。

 甲子園が始まる。
 夏の甲子園。とりわけ思い出深い試合がある。
 横浜対PL、延長17回の名勝負……野球に詳しい方なら、ああ、あの試合ね、とピンとくるのではないか。18歳の松坂大輔が250球を投げきり、横浜を決勝戦に導いた伝説の一戦だ。
 僕はあの日、ライト側の外野席に座り、1人の高校球児がスターに駆け上がっていく瞬間を目撃した。伝説の試合を観戦できた、幸せな観客のひとりだった。

 1998年の夏といえば、まだサラリーマンをしていた頃だ。
 なぜ有給休暇を取ってまで甲子園に出かけたのか。ひょっとしたらドラマが起きる予感がしていたのかもしれないし、それはたんなる後付けのような気もする。
 憶えているのは試合の内容もさることながら、試合を見たことがきっかけとなって、会社の上司に初めて退社の相談をしたことだ。
 98年12月に僕は4年と12カ月働いた損保会社を辞めることになるのだが、自己都合が理由だから、逆算すればその夏くらいには会社に迷惑がかからないよう上司に相談する必要があった。

 何を思ったのか。当時、こんな話をしている。
「先日、有休をいただいて甲子園に行ってきました。これはその感想を綴った作文なんですけど、読んでいただけませんか」
 震える手で差し出したのは、まさしく習作だった。
 試合中、ノートに汗をたらしながら、僕は熱心に試合のメモを取っていた。歯を食いしばって投げるエースの力投を、ノーヒットに抑えられている4番打者の無念を、銀傘に照りつける真夏の日射しと蒸し暑い浜風を感じながら、自身もやはり何かと戦っている気分でボールペンを走らせていた。その余韻が冷めやらぬうちに、帰宅してからワープロでその続きを書いたのだった。
 上司は昼休みを利用して、A4のコピー用紙で12枚ほどになるその習作に目を通してくれた。そして、応接室で再び向き合うと、真面目な表情でこう言った。
「これだけのものが書けるなら、止めるわけにはいかないか……」
 おそらく意図は通じていた。当時の僕はなんとか上司を説得しようと真剣だった。会社を辞めてでも目指したいものがあること。その世界でなんとか食らいついていけることを示す必要があると思い込んでいた。

 今、冷静になって考えると、かなりシュールな状況である。ライターでもない、編集者でもない。そんな2人が何の対価も生まない原稿をめぐって真剣にやりとりをしていたのだから。
 でも、あの時の上司のひと言が、そっと背中を押してくれたのは間違いない。

 その後何年か経って、ふとあの時の作文が読みたくなり、机の引き出しをあさったことがある。見つけて僕はあ然とした。書き付けたのがいわゆる感光紙だったのか、大半の文字がすっかり消え失せてしまっていたのだ……。

 当時、何の技術も持たず、選手に取材する機会もなく、それでいて稚拙であったはずの文章がなぜ上司を説得できたのか。試合の持つ価値自体がすごかったのはもちろん、他にもなにかしらの理由があったのだろう。

 僕にとってはあの原稿こそが、幻の処女作と言えるのかもしれない。

※この後、ライターになった僕は、PL学園の4番打者であった古畑さんを取材する機会に恵まれた。それは今はなき『バーサス』というスポーツ誌で記事になっている。

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