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阪神淡路大震災後の三宮一貫楼④

月曜は仕事(三宮一貫楼)ネタ

平成に入ってからというもの「地上げ」「バブル崩壊」「地震」と立て続けにピンチの総合商社化していた三宮一貫楼です。

おさらいをすると現在の本店の土地建物を地上げ屋から12億5千万円で買い取り、改装費用を含めて当時お店の隣にありました旧福徳銀行から14億円を借入。

⇩そのあたりを詳しく書いた記事

借り入れたと同時くらいにバブルが崩壊し、後に失われた30年と言われる不況に突入。

そこを更に追い打ちをかけた1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災で本店は全壊し、12店舗あった拠点も7店舗にまで縮小。

なんとか会社を存続させるために役員社員一丸で営業する毎日を過ごしていた③のお話のつづきでございます。

本店のほぼ年中無休化および深夜営業を敢行し、従業員さんのお給料、取引先へのお支払い、公金の納付、借入金の返済をなんとかやり繰りをしておりました。

まさに「止まったら死ぬんじゃ」がシャレにならない状態の三宮一貫楼でございました。

現役員の私たちが20代から30代の働き盛りにあり、今思えばそれも功を奏していたんだと実感します。

その頃の私は事務所勤務になっており、通常業務が午前9時始業いわゆる定時が午後6時という環境。

しかし週に3回の本店で深夜当番がある日はホール業務は深夜2時閉店。

時にお尻の長いお客様がおられる場合などは家に帰りつくのが明け方3時過ぎになったりもしました。

そして前回の記事で少し触れた、
先代が工場で始めた注ぎ足しのスープ作りという仕事が新たに始まっていました。

そこは先代の責任のうちではあったのですが、そのスープ作りが直接的原因かは不明ですが、それを始めて1か月か2か月が経過した頃に過労で倒れてしまいます。

クオリティを上げるために始めた仕事を途中でやめてしまうことを先代、母親ともに良しとせず、当然お鉢が回ってくるのは私たち兄弟(苦笑)

兄弟のうちで取り決めたのは、夜番に入った人は店終わりに工場に直行、そのままスープを炊いてお店に出荷する段取りを組みました。

まもなくスープを取るスタッフをシルバー人材センターに求人を出し、そのスタッフに仕事を教えて、一人で出来るようになるまではわれわれもサポートという形で付き合わなければなりません。

その間、約2か月くらいでしょうか?

週に2回から3回、朝の9時に事務所に出勤、20時あたりに本店にて2時までホール業務、そこから3時ないし4時に工場に入ってスープ炊き、それを朝7時に店舗に出荷という流れでこなしていました。

拘束22時間の実労働19時間と言ったところでしょうか(汗)

これも若いから出来ましたね(苦笑)
とても今の若い人にはやらせることは出来ません。

当時は超絶にブルーな毎日を過ごしておりましたが、振り返ってみればこの体験があるからこそ、ちょっとやそっとでは挫けない強さが身に付いたように思います。

自己暗示、自己肯定の世界かもしれませんが、この体験があって今があると胸を張って言えますね。

大体、これが平成9年から10年くらいまでの話しだと記憶しています。
個人とは別に会社の方で、またしても地震レベルの危機が訪れようとしていることは次回にでも書かせていただきます。

まだあるんかいな!?まだまだあります(笑)

(つづく)

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