小説『あこがれ』

 休み時間、隣のクラスを通りがかるとみさきの姿が目についた。2年生になっても、彼女は相変わらず机に映画雑誌を広げて黙々と読み耽り、ひとりの世界に没入している。

 双子の姉であるみさきは、大の映画オタクだ。中学生のときに観たある外国映画の、独創的で密度の高い世界観にとにかく魅了されてしまったらしく、それ以来底なし沼にはまったようにどんどんのめり込んでいった。

 だからみさきに映画の話題をふるには覚悟が必要、なぜならお気に入りの作品の爆語りはお手のもので相手の興味や時間なんて一切気にとめず喋り倒す。

 そんな中学時代を経て、さらに高校生に上がる頃には「自分で撮ってみたい」とまで言い出した。バイト代を貯めて中古のカメラを購入するや否や、家でも野外でも校内でも所構わずカメラを回して、暇さえあれば撮影していた。みさきの映画の世界へのあこがれはとことん肥大していくばかりだった。

 そんな猛烈な熱狂をたたえたみさきに、もちろん周囲はほとんどついていけなかった。だからいつしかクラスでもなんとなく孤立していって、高校2年生になった今だって友人と呼べる人は映画オタク男子のアライくらい。つまり、みさきはまあまあ学校の中で浮いている。

「みさきちゃんって変わってるよね」と高校入学当初、同じグループの女の子に言われたことがある。その言葉に、少しいじわるな、少し人を蔑むような響きを含んでいことに私はすぐに気づいた。彼女たちはくすくすと嗤っていた。

 私はこう応えた。

「まあ、ちょっとね」そう言って、みんなに合わせて小さく嗤った。

 みさきは変なやつだと思う。なぜわざわざ女の子の集団から外れようとするのだろう。グループでいることがどんなに都合が良いか分かってない。私はそうしたひそひそ話の対象になりたくないし、まず孤立などしたくない。女の子たちから孤立して、かわいそうだなんて、思われたくない。

 それに、「私は夢を追いかけてます!」というみさきの態度もいかがなものかと思う。なんというか、「夢に向かって日々一生懸命な人間なんです」とアピールされているようで、彼女をみているとなんだか胸がもやもやと落ち着かないような気になる。

 だって、叶わなかったら、嗤われるだけなのに。

「ちょっとー、まさきめちゃくちゃ上の空!」

 ミカちゃんの声ではっと我に帰った。みさきのクラスの前をとっくに通り過ぎ、気づけばもう理科室の入り口だった。

「まさき誰推しなんだっけ」

 りっぴが言う。今のクラスでは、教室移動をはじめたいていこの3人で行動している。話半分で聞いてしまっていたが、たしか新しくデビューした韓国のアイドルグループの男の子たちの話だ。

「私はアルミスかな」

 そう話しながら理科室に入った。そうきたかあ、とふたりがきゃらきゃらと笑い合う。りっぴが昨日LINEで送ってきたメンバー紹介動画に目を通しておいてよかった、と内心ほっとしながら私たちは席に着いた。

 物理の授業はいつも睡魔との戦いだ。垂れ下がってくるまぶたを引き上げながら板書を写す。ぼんやりと手を動かしながら、さきほどのみさきの真剣な横顔が脳裏にちらついた。

 まるで他者を寄せつけない、自分だけの世界を入り浸る人の横顔。

 その昔、私たちはいつも同じだった。同じスイミングにも通ったし、同じ絵画教室にも通った。髪型だって同じで、まるで親友のようにいつもそばで笑い合った。

 今やすっかり変わってしまった。女の子同士の流儀や連帯を重んじる私と、かけがえのない夢を見つけて以来どんどん自分でカメラを回し、どんどん不思議な映像を撮るみさき。

 私は、みさきの撮るものが嫌いじゃなかった。むしろ、けっこういいと思っている。映像表現が奇抜というか独特で、ストーリーも身近なものをテーマにしているのにディテールがありがちでなく、やわじゃない。

 初めて制作したという10分程度の短編映画も見た。みさきが監督、脚本を務め、その他のスタッフや役者をSNSで募って作ったらしい。物語の設定は奇想天外でめちゃくちゃなのに妙な説得力と引力があり、私は食い入るようにみた。

 そして少し、胸が詰まった。
 みさきはこんな、とてつもないセンスを隠していたのかと。

 ガタン、と椅子を引く音がして思考が教室に引き戻される。私の隣の男の子が先生に当てられて、板書をしに席を立った。

 手元のノートに目を戻すと、無意識のうちにノートの隅に落書きをしていたことに気づく。

 私はおもむろに消しゴムをとり、ごしごしと力強く、消し去った。

 私も、手元にあるお金をかき集めて買った大事なものがある。みさきがカメラを買うより前から手に入れていたものだ。

 母親のあまり使用していないほうのパソコンを借りることを前提に、いくつも候補を並べては悩み、手持ちのお金と睨めっこしながら購入した、ペンタブレット。

 絵画教室をきっかけに、私は絵を描くの楽しさに目覚めた。もともと漫画を読むのが好きで、よくお気に入りのキャラクターを真似て描いていたのだけど、絵の基本を学ぶとそうした模写もみちがえるほどうまく描けるようになった。キャラクターを描くのがもっと好きになり、好きなイラストレーターを見つけては研究と独学を繰り返した。描けば描くほど、胸の内側には色とりどりの明るい感情がみなぎっていくようだった。

 そのタブレットを手に取るのが、徐々に、億劫になっていった。
 だって、すぐそばにみさきみたいな子がいたから。
 みさきの才能を目の当たりにしてしまったから。
 夢を追いかける資格があるのは、みさきのような人間なんだと神様に言い渡されたみたいだった。
 私はみさきみたいな人とは違ったセンスなど持ち合わせてない。豊かな表現力も物語を紡ぐ能力もない。

 一度、オリジナルイラストをSNSにアップしたことがある。興奮をなだめながら投稿したあの瞬間のことは、まるで昨日のことのように思い出せる。

 リアクションなんてひとつもつかなかった。あらゆる情報で氾濫するネットの海で、私のイラストは誰の目にもとまらないままあっけなく埋もれていった。

  一方みさきはというと、去年、高校生を対象とした学生自主映画コンクールで、彼女が監督と脚本を担った作品が審査員特別賞を受賞した。

 作品は、やっぱり面白かった。所々とっちらかってる印象は受けたけど、人の心に直接訴えかける凄まじいエネルギーが凝縮された、心臓を揺さぶられる映画だった。

 皮肉だなと思う。

 顔は同じでも、もともと持ち合わせている素質が全然異なるのだ。

 すごいと思ったのに、みさきに、素直に伝えられなかった。心から賞賛する気持ちと、悔しさからくる嫉妬心で内臓はぐちゃぐちゃにシェイクされた。

 ノートの落書きを一生懸命に消しているうちにチャイムが鳴り、授業は終了した。

 放課後は、同じ帰宅部組であるミカちゃん、りっぴと適当に遊んで帰ることもしばしば。今日は3人でマックに立ち寄り、他愛のないおしゃべりを楽しんでから帰宅した。

 リビングのドアを開けると、みさきが床にあぐらをかき豆電球を流木に巻きつけていた。あたりにはハサミやボンド、そしていつも持ち歩いているカメラなどが点々と散らばっている。

「なにやってんの」

 と私は訊いてみた。耳に届く自分の声は、少し素っ気ない。

「また新しい短編撮る! 今度は私が監督でアライが脚本書くんだ。今、主人公の部屋の美術作ってるところ」

 流木から目を離さないまま、みさきがうきうきと言った。彼女はまた不思議な作風の美術を制作している。

 あっそ、と小さく呟いた声は、集中しているみさきには届かない。楽しげなオーラを発散している彼女の横顔を直視できず、私は突っ立ったまま、みさきの低い位置でくくられたひとつ結びの髪を黙って見おろした。

 みさきは外見にはさっぱり無頓着だ。中学生のときのままの地味な髪型。せっかく髪質がいいのだから、クラスの華やかな女の子たちがしてるみたいに、毛先をちょっと巻いたり、ポニーテールなんかにしたらいいのに。私だってそうしている。

 そう心の中でけなしてしまう一方で、私はやっぱりみさきのことをすごいと思うのだった。

 だって本気で挑戦して本気で踏み込めば、本気の結果がでる。成果でなく、現在地としての結果だ。本気の結果を知るのはリアルな評価が見えてしまうということ。現実が知れてしまうということ。しくじって、ダサい思いをしてしまうかもしれないということ。

 私はそうやって本気で向き合うことのできるみさきのことがとても羨ましくて、あこがれていて、心から気に食わないのだ。

 人間ってなんてちっぽけで複雑で、面倒なんだろう。

「まさき、なんで最近描かないの」

 突然、みさきが言った。は、と私は反射的に尖った声が漏れる。

「別に、どうでもいいじゃん」

「なんで。ペンタブ買ったのもイラストレーターになりたいからって言ってたじゃん」

 みさきが作業をしながらつらつらと言う。耳のあたりが一気に熱くなり、苛々したものが噴き上がってくる。

 暗くてなまぐさくて醜い、言葉にならない、理不尽な感情が胸をえぐる。

 私は奥歯を噛み締め黙り込んだ。

 みさきには私の気持ちなんか分かるはずない。もとから完全で、なりふり構わず突き進めるような人には、絶対に分からない……。

『まさき、なに描いてんの?』

『オタクじゃん!』

 中学生のいつ頃だっただろうか。プリントの隅に書いた少女の落書きを見た友達が軽い調子で言った。

『暇だっただけ』

 と私は笑みを作ってプリントを隠した。からかわれたみたいで無性に恥ずかしかった。それ以来教室で絶対にイラストを描かなくなった。

「私はまさきを見てるとすごい苛々する」

 きっと鋭い目つきでみさきがこちらを見上げた。思いがけないカウンターをくらって、ややひるんだ声が出る。

「は、なにが」

「ほんとはやりたいことがあるくせにカッコつけて興味ないふりしてるところとか」

 ずくん、と胸のあたりが鈍く痛んだ。みさきの言葉に私はついにカッとなって声を荒げる。

「……そんなの、あんたに関係ない!!!」

「関係あるよ!!!」

 とみさきが同じくらいの声量で叫び返す。みさきの怒号に近い大声を聞いたのはいつぶりだろうか。たじろぎ黙っていると、

「あたしはまさきの独特な絵のタッチがすごく好きで、そんな素敵な表現をもってるのがずっと羨ましかった。絵画教室に通っててさ、顔は同じでも、私たち絵の筆致は全然似てなかったでしょ。私は普通の絵しか描けなかったから」

 そう堰を切ったように声をあげ、言葉を連ね続けた。

「まさきが夢中でイラストを描き込む姿がいいなって思って、それで自分の夢中になれるものってなんだろうって探した。それが映画だった。まさきに追いつきたくて、映画のことたくさん勉強して努力した」

 努力、という言葉が耳の中で木霊する。

 ぐ、と唇を強く噛みしめた。前歯が深く食い込み、唾液に混じった鉄の味が舌に滲む。

 本当はちゃんと分かっているのだ。

 みさきに才能があるのはたしかで、でもその才能ははじめから完全なんかではなくて、彼女の努力の積み重ねによるものだということを。

 休日は何本もの映画をみて自分なりに勉強したり、暇さえあればカメラに触ってつねに革新的なカメラワークを模索していた。その地道な繰り返しが彼女の評価につながっているのだと、本当は知っている。

 素質がうんぬんとかいうのは言い訳だ。

 私は、そうやって一生懸命努力して積み上げて、勝負するのが怖いのだ。

 もし負けてしまえば、全ての時間と労力が無駄になる。努力もせず、勝負もしなければ、そんな虚しい思いもせずにすむ。ダサい気持ちにだってならない。あいまいにぼやけた自分でいるほうがとても便利で楽だった。

 だから本当は私だけじゃなくて、みんな、みさきが羨ましいのだ。羨ましいから嗤ってしまう。

「まさきのイラスト、すごくいいんだよ。いいものを持ってるくせにやらないやつが一番腹が立つ」

 みさきが怒ったような口調で懸命に言うから、目の奥がじんわりと熱くなった。みさきが認めてくれていたんだと思うと胸がいっぱいで苦しくなった。制服のスカートをぎゅっと握りしめ、泣きそうになるのを精一杯こらえる。

「そのハサミ、貸して」

 波打つ感情が落ち着くと、私はそう言い彼女に向かって手を出した。みさきは、えっという顔をしながら恐る恐るこちらにハサミを渡す。

 ヘアゴムに指をひっかけて、ポニーテールに縛っていた髪を勢いよくほどいた。

 耳元にハサミを当てる。

 私は迷いなく一気に、ハサミで髪を切り落とした。

 目の前にいるみさきは目をぱちくりとさせている。

 イラストを描くとき、この重たい髪がずっと邪魔だった。髪の毛が垂れてこないようにきっちりと縛るほど、描いてる最中にこめかみが痛くなってくる。

 髪を短く切りたかった。でも前に一度、「今度の休み、みんなでおんなじ髪型にして遊びに行こうよ」とりっぴが提案して、それ以来みんな長い髪のままだったから、なんとなく切れずにいた。

 胸元まで長かった髪が切り落とされると、体がふわりと軽くなった気がした。

 自然と顔が上がる。

 みさきはめちゃくちゃな髪型の私をみてげらげら笑っている。

「みさき。今からカメラ回して」

「え?」

「今からイラスト、完成させる。私が逃げ出さないように、撮ってて」

 ペンタブには半年以上触っていなかった。8割がた描けてはいるものの、未熟なまま完成させるのが嫌で、ずっと続きが描けずにいた。

 でも、未熟だっていいのだ。挑戦を続けることが大事なんだ。

 部屋に向かうとところからみさきがカメラを回している。自分でお願いしておきながら、撮られるってやっぱり恥ずかしいし、逃げたくなる。パソコンの前に座りソフトを起動していると、

「レフ板持ってくる!」

 とみさきが言い出し、ぱたぱたと駆けていった。レフ板、というのは人物の表情を明るく美しく見せるための道具なんだといつだったか教えてくれたのを思い出す。

「そんな、本格的に撮ってくれなくても」

 そう呟きながら、ふふ、と笑みがこぼれた。嗤ったのではない。私は今ようやく、心から笑うことができた気がした。

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