伊川津貝塚 有髯土偶 13:崑崙人の棉
愛知県西尾市吉良町の白山公園内に位置する「蛇穴(じゃあな)」の北北西2.5km以内に位置する天竹神社(てんじくじんじゃ)に向かいました。天竹神社の東160mあまりの場所には南北に矢作古川(やはぎふるかわ)が流れています。
愛車で南西向きの天竹神社社頭に着くと、一般道を挟んだ向かい側に広い空き地があったので、そこに愛車を入れた。
後で地図を確認すると、その空き地も天竹神社の社地で、一般道が社地を南北に2分していることが判った。
北側の社地だけ、石垣を組んだ上に玉垣が巡らされており、その中央部分が開口され、その入り口左右に竿部分の長いことから、洒落た門柱に見える常夜灯が設けられ、正面に石鳥居、鳥居の奥正面に拝殿らしき建物が存在する。
入口右脇には「綿祖神 天竹神社」と刻まれた社号板碑。
「綿祖神(めんそしん)」という神名は一般化している名称ではなく、この神社特有の名称だ。
入り口を入って数メートル先に設けられた石造伊勢鳥居前に立つと、鳥居をくぐっているコンクリートでたたかれた表参道がまっすぐ拝殿まで延びている。
その距離20m以内。
右手に銅板葺の手水舎、左手に社務所がある。
鳥居をくぐって拝殿前に立つと、拝殿前の参道両側には、奥から石灯籠、狛犬、鉄の篝籠(かがりかご)が対になって並んでいる。
鉄の篝籠はここが尾張製鉄族の勢力圏であったことを示すもので、他地域の神社ではほとんど見られないものだ。
拝殿は瓦葺入母屋造平入の鉄筋造のようで、軒下に白壁が見えるものの、木部はすべて檜皮色(ひわだいろ)に染められており、瓦葺と檜皮色を組み合わせから、木造建築にしか見えない建物になっている。
拝殿前に上がって参拝したが、社頭脇に建てられている『御由緒』板碑には以下のようにあった。
「棉祖神」として祀られることになった「崑崙人(こんろんじん)」とは論文『新編西尾市史研究』第1号 「延暦十八年の崑崙人(天竺人)の参河国漂着と綿種の伝来」(東京大学史料編纂所教授 田島 公)によれば日本語をマスターした後の本人が自分のことを天竺人(=インド人)と説明したとされているが、実際には東南アジア(インドシナ半島~マレー半島)人と推測されているようだ。
『御由緒』にある「崑崙人の古画像」というのが以下だ。
頭髪が釈迦如来のように縮れ、髭も釈迦如来と似ている。
顔の彫りも一般のインド人のように彫りの深いコーカソイドではなく、釈迦如来と同じく彫りの浅い、モンゴロイドだ。
「棉祖神」として祀られていたものを、なぜ「新波陀神(にいはたがみ)」に名称変更する必要があったのか。
「新」が付いているからといって、「波陀神」が存在するわけではなさそうで、三河は徐福(じょふく:秦氏を列島に引き連れてきたとされる人物)の上陸伝承のある地であり、秦氏を示す「ハタ」の音を神名に入れたかったのだろうか。
そして、地蔵堂のあった場所に神明社が移転建造された結果、祭神は以下となっている。
拝殿内を見ると、拝殿の先にはよく磨かれた廊下を持つ渡殿が連なり、最奥の本殿前には神鏡と3基の金色の御幣(ごへい)が設置されているが、本殿の様子は暗くて見えない。
渡殿入り口の紋幕には左三つ巴紋が入っているが、これが天竹社の神紋だろう。
拝殿前を降りて、左脇に回ると、渡殿は拝殿の白壁に合わせて、軒下部分が白くペイントされていた。
本殿は拝殿の規模から推測していたより、はるかに巨大で立派な銅板葺神明造だったので、驚かされた。
この本殿の脇には、最初にここに奉られていた地蔵堂があった。
現在は瓦葺入母屋造平入の堂になっている。
この地蔵堂に、上記に紹介した「崑崙人の古画像」は収蔵されていたことになる。
表参道の東側には屋外から見学できる綿資料館が設置されていた。
最初に目を惹かれたのは唐草木綿の唐草模様だった。
藍染められているが紺色ではなく、明るい藍鉄色。
右隣のジーンズのような風合いの手織り蚊帳布はそのまま藍鉄色だ。
ほかに中華人が木弓を使って綿花に関わる作業をしている図版などが展示されていた。
「綿花」と言っても、花ではなく、種子を包む繊維の固まりのことだ。
この図の木弓を使った作業が、今では動画で観られる。
◼️◼️◼️◼️
天竹神社から愛車の元に戻ってきたところ、二人の官憲が来ていて、トランシーバーで、私の愛車のナンバーの問い合わせをする通話をしていました。しかし、二人とも私とは視線を合わせないし、結局話しかけてきませんでした。地元民が、怪しい人物がいるということで、通報したのでしょう。こういうことはこれで3度目になりますが、いずれも参拝者の姿の見えないローカルな神社でのことです。こういう場合はカメラで撮影するフリをして撮影に来てますアピールをするようにしています(笑)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?