見出し画像

今朝平遺跡 縄文のビーナス 30:ご先祖の「210」

愛知県近岡町 神明社のほぼ真東410mあまりに位置する岩上町の若一神社(にゃくいちじんじゃ)はGoogleMapに表記が無いため、その存在に気づいていませんでしたが、この周辺に存在する磐座のある神社を探しに来た際、前を通りかかった神社でしたが、今回辿っているレイラインを引いたところ、近岡町 神明社よりもレイラインの中心に近い場所に位置する神社であることが判りました。

愛知県豊田市岩上町 若一神社
岩上町 若一神社

雷雨の多い今年の8月下旬、やっと今年2度目のツーリングで、岩神町の岩神社を探しにやって来た際、山に向かう途中、若一神社の前を通り過ぎたものの、その時は目的の神社ではないため、興味を惹かれなかったのだが、岩神社を見つけることができなかったため、若一神社に参拝していくことにしましたが、この神社が今回辿っているレイライン上に存在することにはまったく気づいていなかった。
山から降りて来る途中、左手(南側)に石鳥居から山の上に向かって立ち上がる、長い石段を持つ神社があった。

愛知県豊田市岩上町 若一神社 社頭

山の麓に位置する石鳥居の前には対になった狛犬と常夜灯。
一番手前の道路沿いには「村社若一神社」と刻まれた社号標が設置され、社号標の向かって右脇には広くはないものの駐車場も完備されていたので、そこに愛車を入れた。

●若一と平清盛
社名に「若一」の付く神社は豊橋市で「若一王子社(にゃくいちおうじしゃ)」に遭遇しているが、ここ若一神社が2社目だ。
この2社の祭神は以下となっている。

豊橋市 若一王子社 (主祭神:蛭子命)
豊田市 若一神社 (主祭神:若一王子)

若一神社の総本社は京都市の若一神社だと思われるが、その主祭神はここ岩上町 若一神社の祭神と同じ「若一王子」となっている。
京都市の若一神社は我がご先祖の大物、平清盛が平安時代末期に自分の別邸・西八条殿を造営すると、熊野に詣でた際に熊野権現から「土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ」とのお告げを受けた。
西八条殿の邸内を探索すると、東方の築山から光が放たれているのを見つけたという。
清盛自ら土を掘ると、若一王子の御神体が現われたので、1166年に若一神社を建立し、鎮守社として祀ったという。
すると、翌年2月10日(何と!小生の誕生日だ)に太政大臣に任ぜられたのだ。
この出来事から、若一神社は開運出世の神様と尊崇されるようになったという。
本来の目的だった岩神社が見つからなかったのは、小生を岩上町 若一神社に呼び寄せるための当て馬だったのかもしれない。
これまで、自分の誕生日に興味がないことから、2月10日をないがしろにしてきたのだが、これから大切にしろというお知らせなのかもしれない。
今度、京都に行ったら、真っ先に若一神社に参拝することにしよう。
今更ながら、小生の記事『私のシンクロニシティー 2/2 』で紹介したiPadを紛失した時の警察所での受付番号「2102」とiPadを探すのに協力していただいた方の電番号の末尾の「2102」には我が誕生日の数字「210」がそのままの並びで含まれていたのだ。

そのことは『私のシンクロニシティー 2/2 』を書いた時には全く気づいていなかった。

岩上町 若一神社の鳥居の前に立つと、石造の神明鳥居で立派な注連縄が張られている。

岩上町 若一神社 鳥居/石段/拝殿

現場ではものすごく長い石段に見えたのだが、写真で見てみると、すぐ先に拝殿があるようにしか見えないのが意外だ。

だが、そうした錯覚を呼ぶ理由があることは鳥居をくぐって石段を上がって行くと判ってきた。
最初の50段近くある急な石段を上がって行くと、石段は一旦途絶え、踊り場ならぬ、開けた場所に出た。

岩上町 若一神社 広場

下から上まで続いているように思った石段は2つに分かれているどころか、相当離れていたのだ。
だから上側の石段の下方部分は麓から見上げると死角に入ってしまい、その分、短く見えてしまう。
この広場の奥行きは20mほどあるのだが、特に設備は設置されていなかった。
最初の石段を登りきったところからコンクリートでたたかれた表参道が真っ直ぐ奥の突き当たりから立ち上がっている第2の石段の麓まで延びていた。
第2の石段の両翼には高さ3mほどの野面積(のづらづみ)の石垣が組まれている。
この石段とは別に左手の方に通路が見えるので、見に行くと、社殿脇に登れるスロープが設けられているようだ。
ということはここまでも車で上がってこられる脇参道があるのだと思われる。
脇参道のスロープではなく表参道の石段を登ることにして、第2の石段の麓にやって来ると
石段はさらに急で踏み面の奥行きが靴の縦幅ギリギリで狭く、両側には自然物しか存在しないことから平衡感覚が掴みにくいので、後ろに倒れないように前かがみを意識して登った。

思ったより段数は少なく、第2の石段の上に上がってしまったら、本殿の設置してある土壇までの距離が3mくらいしかなく、拝殿の撮影をしようとしたら、ほとんど画角に収まらないので、カメラの液晶画面を見ながら、後ずさりで一歩づつ石段を戻る必要があり、なかなか怖い作業だった。
それで撮影したのが下記写真だ。

岩上町 若一神社 拝殿

屋根は瓦葺切妻造平入で壁は白壁、戸は大きな格子のガラス格子戸。
神社の雰囲気は細い注連縄が掛かっていることしかない。
地図を見ると、西隣に「大日堂」が存在し、真言宗系の神仏習合した場だった時代がありそうだ。

●北北西と西向き
何よりも岩上町 若一神社の本殿は北北西という鹿島神宮の本殿と同じ方向(他の神宮や大社では存在しない方向)を向いているのだが、鹿島神宮は平清盛の先祖に当たる平国香(くにか)の統治した神社であり、もしかすると京都の若一神社の拝殿も北北西を向いているのかと調べたみたのだが、航空写真では確認できないものの、神社では通常避けられる社頭が西を向いた神社であることは確認できた。
社頭が西を向いている神社は2社しか知らない。
1社はやはり鹿島神宮で、もう1社が新宿歌舞伎町にある稲荷鬼王神社(いなりきのうじんじゃ)だ。
稲荷鬼王神社の「鬼王」とは祟ることで知られる「平将門」とする説があり、やはり平氏が絡んでいる。
ちなみに平将門は平国香の甥にあたる。
他に大きな建造物で北北西を向いているものとして、応神天皇陵と聖徳太子の斑鳩宮(いかるがのみや)が存在する。
斑鳩宮は焼失しており、その跡地の一部に現在の法隆寺が創建されているのだが、斑鳩宮の痕跡は確認されており、建造物群の向きは特定されている(法隆寺は方角が異なる)。

岩上町 若一神社の拝殿を側面から観てみると、屋根は前後で長さが異なり、その屋根に千鳥破風の付いた、観たことのない建造物であり、側面にも前面と同じ広さのガラス格子戸が設けられた、本当に奇妙な建物であることが判った。

岩上町 若一神社 拝殿〜本殿/境内社/石祠

拝殿の左手の並びには2社の境内社御鍬社(天照大御神)と津島神社(建速須佐之男命)が銅板葺切妻造で前面全面がガラス窓となった連棟覆屋。

岩上町 若一神社 境内社連棟覆屋

連棟覆屋のさらに左の並びには平面にコの字型に石造の壁を建て、上に屋根型に削った石で蓋をした覆屋内に柄の太いしゃもじ形の板碑が納められている。

岩上町 若一神社 境内社若宮八幡〓石造板碑

板碑に刻まれた文字は上から「若宮八幡」までは判読できるのだが、最後の一文字が剥離しており読めない。

岩上町 若一神社 境内社若宮八幡〓石造板碑

不明の一字は「宮」か「社」だと思われるのだが、「宮」である可能性が高いと思われる。

若宮八幡〓石造板碑脇の坂を登って若宮八幡〓石造板碑の裏面に出ると、渡殿と本殿覆屋の側面が観られた。

岩上町 若一神社 渡殿/本殿覆屋

いずれも瓦葺切妻造で白壁に窓が付いている。
本殿覆屋は土手に面した部分のみが安藤忠雄流のコンクリート打ちっ放しの壁が採用されている。
神社というよりはモダンな和風建築の雰囲気だ。

◼️◼️◼️◼️
平氏であり日本国民。つまりWの負け組です。しかし、勝ち組だったはずの源氏もあっという間に滅び、米国もヨレヨレです。米国のカリフォルニア州で950ドル以下の窃盗が微罪処分になるという、魔法のような法律が立法されて話題になっています。ウォルマートのような小売業は民兵をやとって自衛するか、閉店するしかない状況のようです。警察官より犯罪者の人口の方が圧倒している米国。州兵と民兵の銃火器所有数が米国軍の倍になっている米国。バイデン政権下で米国の移民流入が激増していて、白人は地方と海外に追いやられ、日本に転居した米国人の人口は戦後最多になっているそうです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?