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私たちは違う国の女王さま

はるちゃんの日記を読んで「理解しあえないのは前提、だって別の人間だから」の一言に深くうなずいたよ。

私には『違国日記』(ヤマシタトモコ著/祥伝社)というだいすきでたいせつな漫画があるのだけど、作者のヤマシタさんは「“人と人は絶対にわかり合えない”という漫画を描きたい」という思いでこの作品を描きはじめたらしい。

実際にそれを象徴するように、主人公のひとり(叔母)がもうひとりの主人公(姪)に対してこんなことを言うシーンがある。

「あなたがわたしの息苦しさを理解しないのと同じように わたしもあなたのさみしさは理解できない それはあなたとわたしが別の人間だから」

『違国日記』(ヤマシタトモコ著、祥伝社)

絆や愛というものはたしかに存在するし、それによってお互いに「理解しよう」「理解したい」と思う感情も存在する。
でも、絶対にそれは完全には叶わない。

なのについ無意識に期待をしてしまったり、理解していると錯覚してしまったりするものよなぁ、人間というのは。
今まで何人もそういう人を見てきた。
そして彼らはまた一様に、そのせいで苦しんだり傷ついたりしていた。

だから、親孝行のためにも、自分のためにも「別の人間だから理解しあえないのは前提」と言えるはるちゃんは、とても理性の高い人だなと感じたよ。

私は頭ではわかっていても、そのときになると咄嗟に「なんでわかんないの」と思ってしまうことがある。
特に母に対しては。

考えてみれば、母と私が一緒に暮らしてきた年月はそのまま私の年齢で、そんなにも生活をともにしていると、同じタイミングで同じ発言をすることも多く、よく声が重なってお互いに驚いて顔を見合わせたりする。

私は姉よりも幼少期から母に性質が似ている節があり、とにかくポジティブで楽観的、そして妙にドライで、感情豊かなくせに常にどこか俯瞰で見ている部分もある彼女に並々ならぬ影響を受けてきた。

だけど最近は老いというものが彼女に近づいてきているのを感じる。
忘れっぽいのは昔からだけど(ちなみにそれはしっかり私に受け継がれている)、たとえばせっかちになったり、あんなにも柔軟だと思っていた頭がアップデートされていなくてこちらがイライラしてしまったり。

それで「なんでわかんないの」と思ってしまうことも増えてきたのだ。
わからなくて当たり前、そんなことはわかっているはずなのに、虫の居所が悪いときなんて、強い言葉で怒ってしまうこともある。

「そんなことで怒らなくてもいいじゃん」と返されて気づく。
怒りというエネルギーはしかるべきタイミングのために取っておきたいのに、こんな日々のよしなしごとのために使いたくないなぁ。

だからね、はるちゃんがお父さんの一言にぐっと耐えたのは、本当に尊敬する。
私だったらなにか返しちゃっていたんじゃないかな。

ちなみに『違国日記』への愛が爆発したPodcastを奇しくも今週配信したばかりなので、気が向いたらどうぞ笑。
宣伝みたいになっちゃった笑。
実は今回のアイキャッチは、Podcastを録った日にいろんなものの余りで作ったパフェの写真だったりする。

(Spotify以外にApple Podcasts、Google Podcasts、Amazon Musicでも聞けます←これは宣伝)

みなみ、最近イライラする

って、いとうあさこさんのネタであったよね笑。

私のPMSモードは「なにもない」「落ち込みやすい」「イライラしがち」の3パターンなのだけど、最近は最後の「イライラしがち」が発動することが多い。

それで、些細なことに苛立ってしまったときに、「ああもう!こんなことでイラつきたくないのに!」と思うと同時に、脳内でレオタードを着たいとうあさこさんが登場する。

すると「ああそう、みなみは今くだらないことでイライラしてますよ、はいはい」と少しばからしく思えて、気持ちが軽くなるような気がする。

でも苛立ちやすさが緩和するわけではないんだよね。
今まさしくPEMS(PMSで終わることが多いからちょっと珍しい)の最中というのもあるかもしれないけど、ちょうど仕事関係でムカムカしてきて、気持ちを落ち着かせるためにこれを書いています。

さっきの「人と人は理解し合えない」というところに少し近いんだけど、社会人経験もまぁそこそこ経て、キャリアもまぁそこそこ築いてきて、私は人の「できない」ことに対して厳しくなってしまったな、と思う。

自分ができるからって人ができるとは限らないし、それはだれかができることを自分ができないときに体験したはずなのに、つい「なんでできないの」と思ってしまうんだよね。

それはできることが増えたということの表れでもあるかもしれないけど、できないことへの寛容性が狭まったということはおおいに理解していて、いずれそれは自分に返ってくるぞ、と思い、なるべくその対象の人には言葉を選んで選んで伝えるようにしているんだけど、そうすると自分の中の鬱憤は余計に溜まってきたりして……。

ここにきて“社会人”というものの難しさを実感しています。

あと「なるべく言葉を選んで伝えるようにしている」には嘘もあって、面倒くさくなって「伝えない」を選択することも多い。
それが次の私のイライラを生むこともわかっているけれど。

こういう悩みはたぶん私ひとりだけが抱えているんじゃなくて、同年代とか同じようなキャリアを築いてきた人なら珍しくないんじゃないかなと思う。

でも重要なのは、そのあと、このさなぎ期間をいかに早く脱出するかということ。

みんなどうやって抜け出しているんだろう、と年上の同性の友だちに聞いてみたら、やっぱり「自分は自分、他人は他人」って返されてしまった。

自己と他人の境界線はいったいどこなんだろう。
たぶん昔に引いたそれは今の私には合っていなくて、もしくは時とともに形が変化して見失ってしまったのか、今はその距離感が掴めずにいます。

今は正直、畑の違う友だちとただ楽しく飲んで過ごしたいなという気持ち。
現実逃避かもしれないけど、仕事のことを忘れさせてくれる付き合いは本当に大事だよね。

でもいかんせん金欠で人を誘うことに抵抗が出てきてしまうこともあり、「あ~女性の給与低い問題!」と今度は社会に対しての怒りがこみあげてきたりして、結局最近はイライラすることが多いです。

それでもやはり、明日もきちんと仕事はするのだけども。

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