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思い通りになる、ならないは立場の違い

我々は生まれてくる時、所、姿など選んで生まれてきたわけではありません。

気がついたら自分というものがあることに気づいた、というのが多くの方の思うところではないでしょうか。

また我々は眠っている間も呼吸や血液の循環、その他の生命維持活動が行われています。
我々が行っているわけではないのに行われているわけです。

そういった事実からも自分というものは自分の意思によらず現われ、自分の意思によらず生きているということがわかると思います。

つまり、我々が自分と思いなしているものは、自分の意思とはかけ離れた何らかの力によって生かされているというわけです。

そこに神なるものの存在を感じないでしょうか?

あるもの一切は神より与えられたものだと言われます。
故に何事も人の思い通りにはならず、何を得て、何を失い、何が起こるかなど一切の出来事は神のみが知るものです。

神とは弥栄と言われ、一切と永遠の立場からより良くしようと仕組んでいるから、与えられたものを神と同じ立場に立って使えば良いんです。

そうすることで神心となり、何事も思い通りになるんです。
日月神示にはこう書かれています。

【梅の巻 4帖】
⦿(かみ)が預けてあるものは、預かった人民よきに取りはからえよ、大き小さいの区別ないぞ、塵(ちり)一本でも⦿のものざと申してあろが、塵一本動かすに、いちいち⦿の心聞いてやっているとは言わさんぞ、預けるには預けるだけの因縁あるのざぞ、預かった人民よきにせよ、奥山何処に移ってもよいと申してあろがな、⦿の道弥栄。

【梅の巻 8帖】
目覚めたらその日の生命頂いたのぢゃと申してあろう、新しき生命弥栄に生(あ)れるのぢゃ。
今日一日⦿に仕えまつれよ、与えられた仕事御用ざぞ、生命ざぞ、取り違い致すでないぞ。