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安心したければ嫌うことをやめる

『嫌うことをやめさない』

師匠が弟子の私達を指導しながら辿り着いた教えです。

非常にシンプルな教えですが、シンプルゆえに多くの要素が含まれています。

教えと言うと馴染みのないものに思えますが、ようは生き方のことで真剣に続ければ誰でも絶対安心になれる方法です。

では嫌うこととは一体、何を指しているのでしょうか?

何かあった時に僅かでも心が反応するなら嫌う心があることになります。

なぜ心が反応するのでしょうか?

良い、悪いという思いがあるからです。

良い、悪いという思いがあるということは裁く心がある証拠です。

仏教では憎むこと、嫌うこと、裁くことを三悪として厳しく戒めています。

日月神示では悪憎むことが悪だと言われています。

そして何よりも重要なのが人は『己の裁く心に裁かれる』という事実です。

別の言い方をするとあなたの憎む心、嫌う心、裁く心だけがあなたを憎み、嫌い、裁いているんです。

あなたにこのような心がなければ、誰もあなたを憎み、嫌い、裁くことなど出来ません。

一切の苦しみはあなた自身がつくり出しているんです。

嫌う心がある限り、あなたは常に憎まれ、嫌われ、裁かれる恐怖から逃れることは出来ません。

嫌う心は害にしかならない意味のないものです。

それでもあなたは嫌う心を持ち続けたいですか?

以下は師匠の教えです。


【師匠の教え】
仏の教えとは苦しみからの解放であり、最終的な苦しみからの解放は涅槃ではあるのだけれど人々の苦しみからの解放を説くのが仏の教えである。

では仏の教えでは苦の原因は執着にあると言うわけだ。

もちろん執着にあるんだけれど、もう一つ原因があるんだ。

苦楽を逆さまに見ていることなんだ。

神はこのように説く。

『嫌えば苦しみ、喜べば喜び』

事を物を人を嫌うから苦しむのだ。

苦しみが嫌で、嫌なことから逃げるのが苦しみなんだ。

人は自分で苦しみを選んでいるんだ。

だから逆さまなんだ。

苦が嫌なら嫌わなければよいと言うわけだ。

苦が嫌なら苦しまなければよいのだと説くわけだ。

どうにもならないことに駄々をこねていることが苦しみの本体なわけで、苦しみに実体などどこにもないのだ。

一切を愛し、一切に感謝し、一切を喜びなさい。

焦りや嫉妬や妬みや怒りなどがおきたら『それは楽しいか?』と自答しなさい。

それで楽しくなかったらやめてしまいなさい。

『苦しんで何になるのか?』

『楽しいか?』

と気づいたら治まるようになるまで問い続ける。

そう言うものがおさまったら禅は三密は自然に現れてきて、風鈴のような生き方になって来て、終いには貴方を有ると無いの彼方に連れ去って行くんだ。

この風鈴のような生き方がインドで言うところのマハ・ムドラーであり、神は惟神(かんながら)と呼ぶんだ。

まずこれ試して自分が楽になれ。

楽になったら人々に伝えよ。

これは神仏混合の法であるから仏の教えと矛盾しないんだ。

出来ないときは何かが分からないんだ。

まず自分の問題解決せよ。

次に楽になったら人の問題解決せよ。


【マハムドラーの詩】ティロパ(988~1069)
マハムドラーは全ての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために今この詩を与うべし
「空」は何ものも頼まず、マハムドラーは何ものにも依らず、また労せず
ただゆったりと自然であることによりて人はくびきを打ち壊し、解脱を手の内にするなり

もし中空を見つめて何も見ずその時、心をもって心を観ずれば人は差別を打ち破り、ブッダフッドに至るなり

空を彷徨(さまよ)う雲には根もなくまた家もなし
分別の思いの心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば識別は止まん

空間に像と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

「空」を説くに言葉の語らるることあれど「空」そのものは現され得ず
「心」は輝ける光のごとし、と言うもそは全ての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど「心」は万物を抱き、そして容るるなり

からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り、心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ、与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて、やがて汝はブッダフッドに至らん

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の目標を追わざるを得ざれば、そはただ光を隠すのみなるがゆえに

いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神に背くなり
全ての行動を止め、全ての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と並びに無差別の原理を損なわざる者
タントラ教理をささげ持つなり

切望を避け、かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて、人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者、永久(とこしえ)に不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

儚(はかな)きかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーに辿り着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど

無知なるヴェールを焼かん

心に執着せる者の心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには人は、きっぱりと心の根を断ち切りて裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り、くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば、誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて、すべてのあらわれはダルマタへと溶解し、自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

至高の理解はかれこれの一切を超越し
至高の行為は執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギはおのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごとゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ