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マンザナー強制収容所

【超長文。2017年に書いたものです。】

★一人でも多くの方に知ってもらいたい史実です★

先週の日曜、8月6日。
72年前、広島に原爆が投下された日。

わたしは毎年、この時期になると、いわゆる「戦争物」と言われる、映画やドキュメンタリーやアニメなどを観る。

今年は、映画「硫黄島からの手紙」をDVDで観た。

*…*…*…

「よよさん。折角LAにいらっしゃるので、今年はマンザナーに行ってみませんか?大戦中の在米日本人が入れられた『強制収容所』の資料館があるので案内しますよ。」

DVDを一緒に観ていたシェアハウスのオーナーさんが誘ってくれた。

わたしは、ふたつ返事でお願いした。

それというのも、その昔(1984年)NHK大河ドラマ「山河燃ゆ」を毎週欠かさず観ていて、大河ドラマの中では、一番記憶に残っている印象深い作品だった。
それは、原作がわたしの一番好きな作家、山崎豊子さんの「ふたつの祖国」だったことも影響していた。
ちなみに主演は、松本幸四郎さんだった。

*…*…*…

軽く誘って下さったので、近いのかと思いきや…
片道3時間⁉️

お願いすることにしたものの、あまりの遠さに申し訳なく思ったけれど、やっぱり行ってみたかった。

そして、その夜。
少し予習をした。


*…*…*…

翌朝8時過ぎに出発。

LA中心部を離れるフリーウェイに乗り、逆に中心部に向かう反対車線の、永遠に続くのかと思えるような渋滞を横目にマンザナーに向かった。

相変わらずの抜けるようなLAの青空。
まだ早い時間にもかかわらず、ジリジリと照りつける陽射し。
助手席の右肩が灼ける。
フロントガラスのサンシェードでその陽射しを遮りながら、強制的に収容された方々の気持ちに想いを馳せた。


気をつけながら、ゆっくりとチャンネルを合わせた。



1941年から始まった強制収容。
立ち退き期限は、一週間から48時間以内。

行き先も告げられず、慣れ親しんだ生活を棄てさせられ、家族も離れ離れで、さぞかし不安だっただろう…と。

砂埃舞う砂漠地帯の中を、トラックの荷台に押し込められた人々が視えた。
火がついたように泣いている赤ちゃんの声。
あやす母親。
誰もが不安そうに、グッタリとして目を伏せていた。

その時ふいに、汗にへばりつく砂埃とむせ返る熱風を感じた…


これ以上は辛すぎて、静かにチャンネルを閉じた。



*…*…*…

午前11時50分。

背後に広がる雄大なシエラネゥァダ山脈の麓。
モハベ砂漠やデスバレーを越え、日系アメリカ人が収容された10箇所の収容所の中で最もよく知られている、カリフォルニア州インヨー群インデペンデンスの「マンザナー強制収容所」に到着した。

言葉が出ない…

資料館に入る。
全てが英語表記なので、サッパリわからない…
でも、昨夜の予習が功を奏した。

ミニシアターの上映時間が来た。
ここもやはり英語オンリー…
唯一の日本語は…

「仕方がない」

当時の方々の想いを知るには、このひと言で充分だった。

*…*…*…

今日、わたしたちが「平和ボケ」と言われるまでに、生命の危機を感ずることなく、衣食住さらには娯楽を楽しむことができるのは、こうした先人の方々が、日本人として実直に生きて礎を築いてくださったからだと思います。

人権を無視し、強制的に抑留され、ほとんどの財産を失うという、戦争というあらがえない時代の中で、苦労され精一杯生きられた方々に尊敬と感謝を表したいと思います。

生命のリレー
正義のリレー

「みんな誰かの大切な人」

正義は振りかざすと喧嘩に…強いては戦争になります。
しかし、自分の中で育みアイデンティティを確立し、他との共存共栄協調させていく…
それこそが正義だと思いたいわたしです。

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