見出し画像

[飛鳥宮+藤原京+吉野宮+恭仁京+紫香楽宮+難波宮+豊浦宮] 自然の中にみえる結界

吉備や出雲を中心に活動していた豪族たちを大王と呼んだ時代、人々は海外との貿易を盛んに行い、様々な舶来ものを取り入れながら、独自の文化を築きました。その大王の中でも天孫降臨により選ばれし王家が大和に入り、大和朝廷を樹立させ、倭国から日の出づる国、日本を建国したとされています。

天孫の大王は自らを天皇と自称するようになり、その天皇の世代が変わるたび、前任の都を穢れとして捨て去り、新しい都を飛鳥や難波をはじめ、山城や紫香楽へ遷都してきました。その捨て去られた都には未だに結界がはられています。今回は古の宮跡をご紹介したいと思います。

飛鳥宮(あすかのみや)ー 奈良県高市郡明日香村飛鳥


6世紀から7世紀末にかけての飛鳥は政治の中心地として、第34代 舒明天皇の飛鳥岡本宮をはじめ、第35代 皇極天皇の飛鳥板蓋宮、第37代 斉明(皇極が重祚)・第38代 天智天皇の後飛鳥岡本宮、そして第40代 天武・第41代 持統天皇の飛鳥浄御原宮の6世代に渡る宮殿があったとされる。

飛鳥宮跡

これらの宮殿は天皇の居住地としてだけではなく、様々な政治や神事の儀式が執り行われる公の場として、国内外からの最先端技術が集まる中央集権地といっても過言ではない。

特に飛鳥浄御原宮は、天皇の後継者争いとして知られる壬申の乱にて、天智天皇の息子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子が争った場所として、また大海人皇子が勝利した後、天武天皇として即位した場所としても知られている。後に、天武天皇の皇后であった鸕野讃良皇女が持統天皇として即位した宮でもある。

飛鳥宮跡

**
天皇が代替わりする都度、新しい土地へ都を移すことが習わしであった古代、この飛鳥宮跡には複数の天皇が居を構えていたことより、明日香という地に特別な意味があったことがわかります。
飛鳥宮跡から辺りを見渡してみても特に際立ったものがないように思いますが、その位置を地図上で確かめてみると、明日香は神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰の末裔とされる古代豪族 蘇我氏・葛城氏・鴨氏の地へと道が続き、その先には法隆寺や四天王寺を建立した聖徳太子の陵や日本ではじめて女性天皇となった第33代 推古天皇の陵墓がある太子町へと続き、そして更にその先には住吉三神を祀る住吉大社や、当時から海外との交易が盛んであった堺や難波へと道がつながっています。

飛鳥宮跡

自然が要塞となる山々に囲まれていた飛鳥という土地に古代の人々は様々な神々を感じながら暮らしてきたのかな・・・と思いながら、上記立札を眺めていると、どこからともなく、黄色の蝶が目の前をふわり、ふわりと飛んできました。

黄蝶に導かれて飛鳥京探索

蝶は卵から幼虫、さなぎ、そして成虫へと変身しながら成長をしていくことに加えて、さなぎで一旦、死んでしまったかのように見えるため、古代の人々は蝶々を死からの復活や再生、変化の象徴として考えてきました。特に黄色の蝶々は繁栄や物事が好転するとされてきたようで、まさに飛鳥宮跡で出会った黄蝶は飛鳥時代から日本の成長を見守ってきたかのようであり、そして神の眷属として今後の私の成長や変化を見守ってくださっているような暖かさを受け取りました。


藤原京(ふじわらきょう) ー 奈良県橿原市


飛鳥京の北西部に建設された日本初の都城として、東西南北に碁盤の目のようにひかれた大路に、南北中央に朱雀大路を配した左右対称の都市国家である。このような大路によって区分された東西列を条、南北列を坊と呼び、藤原京の建設はそれ以降の都づくりに大きな影響を与えたことで知られている。

持統天皇・文武天皇 藤原宮址

第41代 持統天皇、第42代 文武天皇、そして第43代 元明天皇の3世代にわたり16年間続いた藤原京は、神々の山として知られる畝火山 (うねびやま)・耳成山 (みみなしやま)・天の香具山 (あまのかぐやま)の大和三山を結んだ三角形の真ん中に位置しており、まさに神々に守られた結界の地に造営された都である。

大和三山とは!?
抜粋元:ニッポン旅マガジン

平城京をしのぐ日本最大の古代都市であった藤原京は、遣唐使が初めて「日本」という国号を使用したとされ、日本書紀には藤原京ではなく、「新益京(あらましのみやこ)」と記されている。

**
持統天皇の孫である文武を天皇に即位させるために、自らを天照大神として、その孫であり天孫降臨をした邇邇芸命を文武に例えることでその正当性を主張したことや、その後継となる元明天皇がやはり孫となる聖武を天皇に据えようと、持統になぞり自らと聖武の関係性を天照大神と邇邇芸命に例えたことについて、その時代の王位継承が簡単な引継ぎではなかったことが伺えます。

鴨公神社

また藤原京が大和三山の神々に守られた結界の中に存在していることや、その延長線上の北天には天智天皇の御陵があり、南天には天武・持統天皇の御陵につながることも天智・天武・持統の御代、自然に逆らうことなく、且つ、神からの高次元のエネルギーを最大限に生かした国づくりがあったことが伺えます。

奈良から京都、南北縦断「聖なるライン」に天皇陵・有力古墳異説の日本史(2)
抜粋元:エンタメ!歴史博士

駐車場から藤原京へ入ろうと足元を見ていると、ハグロトンボがいることに気が付きました。
神様トンボや極楽トンボ、仏トンボとして知られるハグロトンボは、その羽を開閉する姿がまるで人が神様に手を合わせて祈る姿に似ていることがその由来とされています。

ハグロトンボ

田畑を荒らす害虫を食べるトンボは、五穀豊穣をもたらす縁起の良い神様の眷属として古来より慕われており、また前にのみ飛び進むため、物事が前に進むという意味があります。ハグロトンボが赴くままに飛ぶ後ろをついていくと、ふと気になるこじんまりとした木々の小丘にたどり着きました。「ここは、何?」と無意識に質問がわいてくると、どこからともなく、「ここはトイレ」と聞こえた気がしました。藤原京は南側が小高く傾斜しており、その位置に糞尿の場があったため、その汚水が内裏のある北へ流れてくる処理がうまくコントロールできなかったと知りました。私が出会った木々の小丘は右京北側の内裏敷地の横にあり、まさに右京南側にあった汚水が流れ着く場所だったのかもしれません。


吉野宮(よしののみや)宮滝遺跡(みやたきいせき) ー 奈良県吉野郡


第37代 斉明天皇(皇極が重祚)が吉野に造設した離宮として、特に大海人皇子が壬申の乱を決起した場所として知られている。また持統天皇、文武天皇、元正天皇、聖武天皇が行幸した宮として、持統天皇においては在位11年の間に計31回の行幸をされたと言われている。

宮滝遺跡
吉野離宮顕彰碑

宮滝遺跡には古くは縄文や弥生時代の土器をはじめ、古墳・奈良・平安時代に製造された呪文のようなものが描かれた土師器も出土している。

**
山々に囲まれた谷間にポツリと現れる吉野宮滝はまさに自然の中に存在する離宮であり、まるで時がとまってしまったかのような森閑さに包まれています。同時に、離宮の横下には大きな岩肌の巨石が続き、その間を流れる川水に子供たちがはしゃいで遊んでいる風景が目の前に現れました。

持統天皇はこの吉野の地へ足しげく通ったようですが、この宮瀧に密かな楽しみをもっていたのではないかと思います。それは胸が躍る楽しみというよりかはむしろ、この吉野の神々がもたらす英知を会得する喜びではないかと思います。神武天皇をはじめ、応神天皇や後醍醐天皇、そして源義経も吉野へ入り込んでいますが、単に山深い吉野を隠れ蓑にするだけではなく、その空間を流れる日の光や風、そして水や土がもたらす神力に感服されたからかなと、宮滝の中で感じました。


恭仁京(くにきょう) ー 京都府木津川市


わずか3年で廃都となった幻の都として知られる恭仁京は、第45代 聖武天皇が造営した未完成の都として知られている。当時、平城京にあった大極殿を解体して恭仁京へ移築したとされ、そもそも平城京にあった大極殿も、もとは藤原京から移築したものとされている。

恭仁京跡

鎮護国家思想に基づき、聖武天皇が「国分寺建立の詔」を発布すると基本的には全国各地に「国分寺」と「国分尼寺」の2つの寺が建立され、現在の「国分」という地名は国分寺があった場所の名残でもあり、また国分寺は各地域の行政の中心である「国府」が置かれた場所に設置されたこともあり、国府という地名もその名残と言える。

山城国分寺跡
山城国分寺跡

恭仁京の建設中に、難波京へ遷都するが、その翌年には紫香楽宮へ遷都する。

紫香楽宮跡

紫香楽宮では新京として大仏の建造に身を乗り出すが、度重なる火災や疫病といった社会情勢不安が発生したため、結局は平城京へ再遷都することとなる。

紫香楽宮

**
聖武天皇が眠る陵墓を訪れた際、なかなか御陵の入り口へ辿り着けず、結局その周囲をぐるっと回った後、気が付くと入り口を通り過ぎていました。
聖武天皇というと遷都を繰り返した引越魔というイメージがある一方、国分寺や東大寺盧舎那仏像を建立するといった常に心の安住を探していた姿が思い浮かびます。
こういった遷都の繰り返しや寺社仏閣を建立をするために多くの人々が担ぎ出されたと思われ、きっと私の祖先はそういった聖武天皇のやり方に賛同をしていなかったため、聖武天皇の御前を素通りしてしまい、なかなか辿り着かなかったのかなと思いました。

聖武天皇陵
聖武天皇陵

難波宮(なにわのみや) ー 大阪市中央区法円坂


宮殿遺構には前期と後期の難波宮が確認されており、前期難波宮には火災痕跡があることより天武天皇の難波宮にあたり、またその後、孝徳天皇が造営した難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)と考えられており、後期難波宮は聖武天皇によって再建された難波宮とされている。

難波宮跡
大極殿基壇跡
大極殿基壇跡
八角殿跡

**
難波宮と言えば孝徳天皇が最期、一人寂しく崩御された場所という印象がありましたが、実際に大極殿へ一歩足を踏み入れたところで、菜の花のような真黄色に囲まれた中に、人々が頭を下げてお辞儀をしている、とても暖かく、心地の良いイメージを受け取りました。そして、振り返って人々が立っている辺りを見渡してみながら、「ここにいたような気がする」と、懐かしい気持ちが蘇りました。
孝徳天皇と言えば大化の改新であり、律令国家の礎を作った立役者です。もし仮に孝徳が一人、難波に残ったとするのであれば、それは天皇として自分の役割を全うするためだったのかと思いました。またその皇后である間人皇女(はしひとのひめみこ)は孝徳を難波宮に残して、母である斉明や兄の天智と共に飛鳥へ戻ったとされていますが、それもまた中皇命(なかつすめらみこと)として、孝徳から斉明(皇極が重祚)までの中継ぎ、或いは斉明から天智までの中継ぎ天皇としての役割を飛鳥の地にて果たすためだったのかなと思いました。

そう考えると決して孝徳は孤独ではなく、むしろ自分の使命に向かって一生懸命に生き抜いた一人であり、また間人皇女も夫と離れ離れになりましたが、家系を守るという使命感をもった意志の強い人であり、この難波宮はその二人が固く決意を誓った場所だったのかなと思います。


おまけ


豊浦宮(とゆらのみや) ー 奈良県明日香村豊洲

第33代 推古天皇が即位した宮殿として、現向原寺内にその宮殿を支えた柱の石敷きが残る。元来、豊浦の地は蘇我氏の本拠地であり、この豊浦宮の造営から飛鳥時代が始まったとされる。

豊浦宮 石敷遺構
豊浦宮 石敷遺構

推古天皇が豊浦宮から小墾田宮(おはりだのみや)に移った後、蘇我稲目がその跡地に豊浦寺を建立して百済の聖明王から献上された釈迦佛を祀ったことが日本の仏教の始まりとされている。その後、疫病が流行り、その原因が仏教崇拝によるものと、物部尾輿がその仏像を難波の堀江に捨ててしまい、豊浦寺は焼却されたという。

仏像が投げ入れられた難波池

**

豊浦寺跡を目印に向原寺を参拝したものの、普通のお寺の景色であったため、その裏手にある甘樫坐神社を詣でて帰ろうとした時、車を止めていた母親が遅れて向原寺へ入っていったため、その後ろを無造作についていくと、なぜか、向かって左側の茂みが気になり、足を向けてみると、靴の置き場がありました。

向原寺

何が何だかよくわからないけれど、なぜかその奥が気になり、進んでいくと、その奥には石敷遺構がありました。

石敷遺構
文様石
豊浦寺 講堂礎石

好奇心というか、ご縁というか、流れに任せるというか、恐る恐る入ってみた先での出会いは感激そのものでした。よく起こることですが、私の母が神様の眷属となり、様々な場所へ私を導いてくれることが多く、今回もそのお導きだったようです。


私たちは高次である宇宙へつながればつながるほど、よりパワフルな引き寄せの法則を体現することができ、ひいては物事を動かすために必要なエネルギーを養います。そのエネルギーをつかみ取るためにも、中今(なかいま)を生きることです。中今とは過去を振り返らず、未来へ望みを託すこともなく、今に向き合い、今を全力で生きることです。高次へつながることは容易いことではありませんが、成し遂げた先には必ず、浄土があります。常に中心は私であり、あなたです。

今を大切にお過ごしください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?