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『6、百年経っても読まれる小説の書き方、風景描写はしなくていい』

ある方がエッセイに、いつも風景描写をどうやってするか、悩むんですよね、と書いていた。

風景描写はしなくていい。なぜかみんなは小説を書くということが、イコール風景描写をすることだと思っている。

あなたが余計な風景描写をしているうちに、なにが起こるかと言えば、もっとあなたが本当に書かなくてはいけない、大事なことが書いてない。

今、仕上げている新しい小説があって、掌編4,000文字の中で、羽田空港→銀座→新宿→銀座という場所の移動があるけど、私は風景描写なんて一回もしていない。

小説というものは、自分に自分の小説世界が見えていればいい。自分さえよければいいので、小説は自分との戦いで、他人のことはどうでもいい、他人に自分の小説世界を見せる必要はない。

自分の小説世界を風景描写として他人に見せようとすると、それは「説明」になってしまう。小説の中で一行でも他人に「説明」をしてやらなくていい。自分さえよければいい。自分に見えればいい。自分の為に書く。自分を信じる。

自分の小説世界がしっかり見えていないから、人に説明したくなる。自分の目に見えていないのに、いくら説明しても、他人には絶対伝わらない。

風景描写はぎりぎりのぎりぎりで、ここで一発どうしても風景描写を入れないとどうにもならんな、と覚悟をした時に初めて行う。そのくらいの勝負。

文豪の小説を読んでいて、プロットが乱れている部分、書いていて自分で展開に悩んでいるな、と思われる部分には、まず「説明」が現われる。それから余分な「風景描写」が入る。作品の弱い部分に現れる。


ノーベル文学賞をとった、川端康成の『雪国』の中で、風景描写らしい風景描写は二か所しかなく、どちらも非常に短い。信じられないと思うかも知れないけど。

じゃあ、あれはなんなの? 『雪国』の冒頭の二行?

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

川端康成『雪国』
  • 著作憲法をよく理解した上で、教育目的で引用をしています。


あれって風景描写じゃないの? と思われるかも知れないけど、それは大きな間違いで、じゃあ、風景描写じゃなかったら、一体あれってなんなの? と、聞かれた場合……

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