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(追記あり)展示「私たちの解放区」を見に行ったら感想どころでは無かった事

暑さほどほどだが、晴れた日。
こちらを見に行って来た。

私たちの解放区(8/6 - 8/7) – JINNAN HOUSE

私個人の事情で、公共交通機関を使うのは極力控えているのだが、東京での会期が今日明日と短いため、思い切ってレンタカーで行った。(会場に駐車場は無いので、公共交通機関で行くのが通常だろう)
コインパーキングに止め、代々木公園近くの坂を上ったり下ったりしたところで、会場が見えた。カフェとギャラリーがあり、二階はオフィスらしい。建物前の青々とした広場には野外席や屋台があり、人々が寛いでいた。

カフェに入って、奥側へ歩いていくと、展示スペースが現れる。手前のスペースは、エッセイと写真。奥の部屋は、ZINE等物販、歴史の流れの展示、固定概念を突くメッセージがあり、来場者との「コミュニケーション」を目指しているように感じた。
(企画側の方も、奥の部屋で来場者とコミュニケーションを取られていたと記憶している)

正直、展示内容や展示の中で記載された情報を十分把握できたとは言い難かった。

私自身が場所の中で「異物」となった気がして、「どういう私」が展示を見ているか分からなくなってしまったからだ。

エッセイでは、勝手に身体や行動をジャッジされる事や、無知に晒される事への葛藤。自らをケアして受け入れていく過程。救いとなった友人の言葉等が、日常感があり、かつ鮮やかに表現されていた。

やがて、エッセイを読みながら、私自身が展示空間そのものに「見られている」気がして、落ち着かなくなった。

「男性として、生まれてこのかた、女性を客体化してしまうような行動や言動等を、全く、ただの一度も取らなかった事はありえない。だからそういったものを突き付けられてそわそわしているんだろう」

「あなたはまだ、社会に出たり、普通に出掛けたり、色々な生活が自由にできる。しかし女性はそうはいかない。あらゆるものが男性向けに設計された社会で感じる違和感があり、あなたが展示を見ながら感じた違和感はその裏返しだ」

私が落ち着きを失くした要因として、とりあえずは上に書いた二つが浮かんだ。多分間違いでは無く、要因の一つ一つを構成しているだろう。
しかしどうもそれだけでは無いと感じた。分かりやすい自己反省「のみで」済ませてしまう事は、何でもすぐに答えを出そうとする事に繋がってしまうし、展示に携わった人々の意志を勝手に分かった事にしてしまうのでは無いか。「反省」や「理解」を通して「所有欲」を満たす事には、とりあえずブレーキをかけた。

展示空間の中で自らを「異物」として感じたが、そんな私自身の中にも、「異物」はいると感じた。
今思えば私の中の「異物」は展示空間と共振していたのかもしれない。

あらゆる作品に触れる時、徹底的に内容や情報を読み取って、普遍性を見出すか、作品の制作者の気持ちに立って、作品を理解しようと試みるのが、私が常日頃心掛けている事だ。
しかし今回は私自身が作品を見る主体として分裂してしまった。
展示と自らを繋ぐ取っ掛かりを無くし、浮遊するように感じた。

写真を見て、奥の部屋の展示を見て、インパクトを感じながらも、なかなか落ち着かないまま、最初に読んだエッセイの前に戻って来た。
一つ一つまた、読み返した後に、壁際に並んでいた本を見た。(展示空間にはジェンダーを中心とした書籍が二箇所に並べられている)

とある一冊に知り合いの方が書いた対談形式の記事を見つけ、読んだ。
読み終えた時に、一つ取っ掛かりを見つけられたような気がした。
一度外をゆっくり散策してから、もう一回展示を見よう。そう思い、代々木公園へ向かった。

木陰にシートを敷いてくつろく人々。ダンスの練習をする人々。ランニングする人々。代々木公園にはそれなりに人がいて、それぞれの午後を過ごしていた。歩きながら、展示と、読んだ記事のことを考えた。記事からは「過去の自分を無かったことにせずに、知り合ったあらゆる人と尊重し合えるようにしていきたい」という筆者の葛藤と信念を読み取った気がした。

公園のトイレに行き、木陰の中を歩き、再び会場へ向かった。

エッセイ、写真と三度目の相対をし、奥の部屋へ行き、じっくりと展示に向き合った。落ち着きつつある自分を感じた。

展示に触れる中で、フェミニズムというものが、性というカテゴリーを越えて、障害の有無や人種等、あらゆる存在の尊重とセルフケア、相互ケアに繋がっている事を実感した。

しかし「あらゆる存在の尊重」だけを言うのは、時に「性なんて細かい事は気にしないでいいんだろう」というマジョリティ側の姿勢に繋がりかねない。一人一人の葛藤の理由や背景も歴史として重みがあるし、フェミニズム等、固有名詞の成り立ちや時代ごとの変遷を知るのも重要なのだ。
それは私自身についても言えることで、展示に触れることで得た葛藤を宿題としつつ、一度公園でセルフケアして、学習を深め、もう一度展示に触れるという、自らのサイクル、もしくは拠り所を見出した。

では、展示空間で、何に「見られている」ように感じたのか? また、私自身の中の「異物」とは何だったのか。

2XXX年に、あらゆる差別が根絶され、地球上のあらゆる存在が無理無く共存する世界が実現する。そんな世界の雰囲気や風が、展示空間に流れてきていて、見られているというより、「未来の空気を読んでいた」のかもしれない。

そして、そんな未来に相応しい自らの振舞いは何かという問いと答えが「異物」となり、私に違和感を与えていたのだろう。それは現在の私を安易に否定することなく、未来と現在の距離を測り、次の歴史の上を歩くよう、背中を押しているのかもしれない。

※今回写真をうっかり撮ってないので、画像は会場とは関係ありません。また、展示内容の詳しい説明ができたとは思えないので、是非気になった方は、他の方の感想を読まれるか、可能なら現地に行かれるのがいいと思います。

(本文中に出てくる記事)
文藝 2020年 8月号 : 文藝編集部 | HMV&BOOKS online - 078210820
上記書籍内のTVOD「シスターフッドについて語るわれわれというブラザーフッドについて」

(2022/8/15追記)

展示内の本の選書について、差別を助長する誤りがあり、その後の対応にも問題があったため、トランスジェンダーの当事者を傷付ける結果になったという事で、主催側より再発防止策含めたステートメントが表明されていますので、共有します。

私自身、展示を好意的に評価し、(差別本では無い別な本を取り上げたとはいえ)選書も評価してしまったので、自戒を込め共有します。

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