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情けかければ苦労あり、その先に幸あり


 
配役
 
与次郎    元侍で八右衛門長屋住まい      
お登世    与次郎の母             
文治     日本橋堀江町の御用聞き       
お仲     長屋の住人         
秀治     長屋の住人、お仲の父 舂米屋の職人 
六兵衛    長屋の住人 左官屋
寅蔵     長屋の住人 棒手振り職人      
弥助     文治の手下             
松次郎    長屋の住人 船頭          
お種     松次郎の女房            
お初     池之端の茶屋女           
紀衛門    八右衛門長屋の大家
七五郎    左官の親方
船頭     松次郎の同僚
 
 
 

八右衛門長屋井戸端
 
  向両国、駒止め橋近くの八右衛門長屋。
  ここは八右衛門長屋のどん突き。上手に屋根つきの井戸あり。下手奥側にはさほど大きくない鳥居と稲荷。その手前は物干しあり。稲荷の奥は黒塀。塀の後ろは枯れ細った柳が北風に揺れている。
  時刻は夕七つ頃。八右衛門長屋の住人、船頭の松次郎の女房お種が物干しの洗濯物を取り込んでいる。
 
お種   いけないね、湿気てるよ……これも……干しっぱなしにするから……
 
  お仲が下手から出てくる。お仲はこの長屋住んでいる春米屋の通い職人秀治の娘で、今年二十八の出戻りだ。
 
お種   あ、帰ってきた。干しっぱなしだから取り込んでいたんだ。
お仲   お種さんすみません。お父っあんに頼んでおいたんですけどね。
お種   残念ながら少し湿気てるよ。
お仲   あ、本当だ。仕方ないから部屋干しするか。
お種   今日は早かったね。文治親分さんの船宿、すす払いじゃなかたのかぇ。
お仲   そうです。でも思ったより早く終わりました。女将さんが綺麗好きだから、元々すすなんて溜まってません。
お種   女将さんもだけど、親分さんも結構綺麗好きだろう。いつもバリっとしてるもの。
お仲   ですね。
お種   でもさ、御用聞きのお店に奉公してると、なにかと気苦労が多いんじゃないの。
お仲   そんなことありませんよ。のびのびと働かせてもらってます。
お種   そう。
 
  「ビュー」っと風が吹く。
 
お仲   寒い……
お種   まったくだ。
 
  お仲、手が悴む。
 
下手袖から「この馬鹿野郎ッ」と怒鳴り声がする。ほぼ同時に下手から突き飛ばされるように出てくる六兵衛。そして七五郎と八右衛門長屋の大家、紀衛門が出てくる。七五郎は左官の棟梁。六兵衛はその弟子で八右衛門長屋の住人である。二人の後を追い秀治、船頭の松次郎がくる。
 
七五郎  なぜ黙ってた?
六兵衛  すみません。
七五郎  大家さんに呼び出されて赤っ恥をかいた。棟梁のおれが知らなかったで済む話じゃねぇ。
六兵衛  ……
七五郎  言わねぇかッ。
六兵衛  迷惑をかけたくなかったからです。
七五郎  仕事中に喧嘩して怪我をさせるなんざ馬鹿のすることだ。その上報告をしないとは話にならねぇ。おまえの親父に頼まれて左官の仕事を仕込んだが、今日限りで暇をくれてやる。
六兵衛  待ってください。相手に金を払って解決しますからそいつは勘弁してください。
七五郎  ならねぇ。
六兵衛  御願いします。
秀治   棟梁、勘弁してやってくださいよ。
七五郎  秀治さんは黙っててくれ。
お仲   お父っあん、どうしたんだぇ。
秀治   それが……
七五郎  この馬鹿、仕事に来た大工と喧嘩して大怪我させやがった。相手の大工は殴られて倒れた拍子に木材の下敷きになり腕を折りました。それで相手は六兵衛を訴える、嫌なら治療代を払えと……
お仲   治療代を……
七五郎  大工の給金ひと月分と治療代、迷惑料で五両。
お仲   五両……
紀衛門  六兵衛、金を払って解決するというなら金子はすぐに用意できるんだろうね。
六兵衛  それは……
 
  下手より、もと侍で現在は町人になった与次郎と棒手振り家業の寅蔵が現れる。
 
寅蔵   どうしなすった棟梁、喧嘩か?
七五郎  いえ、そうじゃねえんで。
六兵衛  なあ寅蔵さん、金貸してくれないか。
寅蔵   え、藪から棒に金の無心か。
六兵衛  与次郎さん、五両、いや、幾らでもかまわねぇ都合してくれないか。あんた、金を持ってるんだろう。
与次郎  ありませんよ。知ってのとおり、わたしは母親の世話で働けないのですよ。
六兵衛  お願いします。ねえ松さん、幾らか助けてくれないか。必ずかえします。
松次郎  うちにそんな金あるもんか。
七五郎  情けねぇったらありゃしねぇ。こいつは秀治さんにも泣きついたんだろう。
秀治   まあ……
七五郎  喧嘩で相手に怪我させたのも、それを黙ってたのもいけねぇが、自分で仕出かした始末を自分でつけようとしねぇところが情けねぇ。簡単に人を頼りやがって。恥ずかしくねぇのか。
六兵衛  だって金がねえんだから。
寅蔵   人に貸す銭はねぇよ。棟梁のいう通り、自分で何とかするんだな。
お仲   どうして喧嘩になったんです。
七五郎  仕事のいざこざですよ。
秀治   棟梁、助けてやらないんですか。
七五郎  近々こいつは女房をもらいます。
お種   え、そうなのかぇ。
六兵衛  はい……
七五郎  職人は所帯を持てば一人前だ。そこまで育ててやったのに、わっちの顔に泥を塗りやがったッ。六兵衛、二度と面をみせるな。
松次郎  棟梁、そう言わずに助けてやんなよ。六兵衛は棟梁の弟子だろう。
七五郎  棟梁が何とかしろと大家さんからも言われたが、わっちは助ける気はありません。六兵衛、てめえの尻はてめえで拭くんだな。
 
  七五郎、下手に去っていく。
 
松次郎  大家さんが助けてやりなよ。
紀衛門  冗談じゃありませんよ。
松次郎  大家といえば親も同然だろう。見捨てるつもりか。
紀衛門  六兵衛に金を貸すくらいなら川に捨てたほうがましです。川ならポチャンとお釣りがかえってくる。
松次郎  ひどいことをいいやがる。それでも大家か。
お種   ほんとうだよッ。
 
  紀衛門、松次郎たちに睨まれてたじろぐ。
 
紀衛門  と、とにかく先方に金を払って丸く治めなければ、長屋を出て行ってもらうからね。
六兵衛  え、長屋を……
 
  紀衛門、そそくさと去る。
 
松次郎  どうする……
秀治   六兵衛、五両あればはなしはまとまるのか。
六兵衛  はい。
松次郎  だったら長屋のみんなで助けてやるか。
六兵衛  ほんとうですか。
寅蔵   冗談じゃねぇ。どうしてこいつの尻拭いをおれたちでしなきゃならねぇんだ。
六兵衛  寅蔵さん、御願いします。
寅蔵   簡単にいいやがって。
六兵衛  (土下座して)助けてください。
与次郎  気安く人を頼るのはやめたほうがいいです。それに土下座はよしさい、恥ずかしくないのですか。
六兵衛  おれは恥ずかしいなんてこれっぽっちも……
与次郎  辱を知り己に誇りを持つべきだ。
六兵衛  ……
寅蔵   さすがもとお武家様だ、いうことが違うぜ。
松次郎  でもよ、どうにもならないときはどうするんだ。へたをすれば、六兵衛はところ払いだぞ。辱がどうだとか言ってる場合じゃないだろう。
秀治   うん、そうだ。
松五郎  それに嫁を貰うっていうんだ。だったら助けてやろうじゃねぇか。おれは一両都合してやる。ほかに助け舟を出せるやつはいないか。
お仲   お父っあん、ここは心意気の見せ所よ。
秀治   ふーん(と考える)……
寅蔵   あとで秀治さんが苦労するぜ、やめておきな。
 
  少しの間。
 
秀治   わかった。これも付き合いだ。ただし三分しか出せないぞ。
松五郎  あとはお二人さんだ。どうする。
寅蔵   金貸しから金を借りるんだな。わっしはご免こうむるぜ。
松次郎  与次郎さんはどうする。
与次郎  他人を充てにするのはいただけないが、これも長屋の付き合いなら……一両だします。
松次郎  これで二両と三分。おまえ(六兵衛)もすこしはあるだろう。
六兵衛  二両ほど。
松次郎  よし。あと一分ならなんとでもなる。六兵衛、七つに堀裏のひさごに来い。金子を渡してやる。だが貸すだけだ。返済期限をきらせてもらう。それから説教もしてやるぞ。
与次郎  わたしも行ったほうがいいですか。
松次郎  おふくろさんを放って出るのは無理でしょう。
与次郎  いえ、わたしも行きましょう。少しくらいなら大丈夫です。
松次郎  わかりました。
秀治   酒を控えているからわっしは遠慮する。金子は与次郎さんに預けておきます。与次郎さん、いいですか。
与次郎  ええ。かまいませんよ。
寅蔵   わっしは失礼するぜ。それじゃあな与次郎さん。
与次郎  今日はありがとうございました。
寅蔵   あれくらいなんでもないさ。
 
  寅蔵、去る。
 
お仲   今日、寅蔵といたんですか。
与次郎  仕事の世話をしていただきました。
お仲   へえ……
 
  六兵衛、また土下座する。
 
六兵衛  みなさん、ありがとうございました。
松次郎  六兵衛、金子を持って相手先を訪ねたら、きっちり頭を下げるんだぞ。たとえ相手が悪かろうと、怪我させたのはおまえだぞ。
六兵衛  はい。
松次郎  それから、おれと一緒に今から棟梁のところに行こう。おれもこの白髪頭を下げてやる。
六兵衛  すみません……
 
  松次郎とお種、六兵衛を連れて下手にハケる。
 
お仲   松次郎さん、本当に面倒見がいいわね。
秀治   まったくだ。それに比べて大家ときたら知らん顔しやがる。酷いもんだ。
与次郎  あの、わたしもこれで。
お仲   今から夕飯の買出しですか。与次郎さん、お登世さんの世話で大変でしょう、わたしが代わりに買ってきましょうか。
与次郎  すぐそこですから大丈夫ですよ。
お仲   遠慮しないでくださいな。
与次郎  いえ遠慮じゃありません。
秀治   与次郎さん、卒中で倒れたおふくろさんの世話を誰も頼らずしているのは立派だと思います。でも、わっしたちを頼ってもかまいませんぜ。
与次郎  お気持ちだけ、ありがたくちょうだいします。
 
  与次郎、下手にハケ。
 
お仲   本当は大変なくせに、意地っぱりなんだから。
秀治   心配だな。働かなくても食っていけるみたいだから金はあるんだろうがしょせんは長屋住まいだ。それにお登世さんは不自由なうえに惚けちまってんだ。そのうちに無理がくるんじゃねぇのか。
 
  音楽イン。
  お仲の不安な表情ありて、溶暗。
 
 
 
 
八右衛門長屋・与次郎宅
 
行灯の明りに浮かび上がる与次郎とその母、お登世。
お登世は布団で上半身を起して与次郎から食事の介助を受けている。家具らしいものはなく、行灯、枕屏風、行李などが貧しい暮らしぶり現している。
与次郎は介助を終えるとお膳を手早く片付だす。
 
与次郎  おふくろ、今から出かけてきます。長屋の松次郎さんたちと話し合いがあるんだ。
お登世  あれはどうしました。
与次郎  ん?……それでひさごにいってきます。
お登世  いつも使っているわたしの赤い茶碗はどうしました。
与次郎  おふくろ、あれはですね、
お登世  旦那様から頂いた大事な品です。
与次郎  ……茶碗は割れたでしょう。そのうちべつのを買ってきます。ですからそれで勘弁してください。
お登世  なぜ茶碗を隠すのです。そんなことをするのなら出て行きなさい。
与次郎  最近よく出て行けといいますね。一杯ひっかけに行くから出て行きますよ。だから早く寝てください。
お登世  いいから茶碗をお出しなさい。
 
  そこにお仲がくる。
 
お仲   どうしたんだ与次郎さん。
与次郎  え、お仲さん。
お仲   お父っあんに頼まれてきたんだけど……お登世さん、どうかしましたか。
お登世  だれです。
与次郎  お仲さんだろう。
お登世  屋敷にそのような者は……
お仲   ご隠居様、わたしは新しい下女です。
お登世  女中でしたか。ならその男を追い出しておくれ。
与次郎  わたしはあなたの倅です。
お登世  倅は侍です。
与次郎  侍はとっくの昔にやめました、二人で相談して決めたんじゃないか。
お登世  わけのわからないことを……
お仲   与次郎さん、こここはわたしに任せて。
与次郎  お仲さん、馬鹿な事をいわないでくれ。
お仲   いいから任せて。
 
  お仲、与次郎を木戸外に出す。戻ったお仲はお登世の手を握り、また背中をさすりなだめる。……お登世は落ち着くとお仲に促されて横になる。お仲が行灯の明りを吹き消すと夜の闇が部屋を包み、お登世は見えなくなる。
  お仲は表に出る。
  二人が舞台前に出ると舞台中の紗幕が閉まる。
 
与次郎  ありがとうございます。
お仲   礼なんていいんですよ。ああいうときは否定せず話を聞いてあげると安心して落ち着きます。
与次郎  なるほど……しかし情けない話しです。自分の倅が分からなくなるとは思いませんでした。
お仲   大変ですが頑張ってください。わたしでよければ手伝いますよ。お登世さんの洗濯物があるでしょう。わたしがやっておきます。
与次郎  いえ、大丈夫です。
お仲   この季節に朝早く洗うのは辛いでしょう。わたしがやりますよ、まかせてください。
与次郎  親切は痛み入りますが、母の世話を他人に任すことは出来ません、わたしの仕事です。
お仲   与次郎さん、自分一人で抱え込んじゃ……
与次郎  町人に身をやつしたんだ。わたしはもう侍じゃありませんが、武士は目上の人を敬う、両親を大切にする習いがあります。それは今のわたしにも根付いています。今夜はありがとうこざいました。
お仲   今からひさごですよね。
与次郎  そうです。
お仲   これ、お父っあんから預かってきました。
 
  お仲、金子を手渡す。
 
与次郎  一両ありますが、三分ではないのですか。
お仲   わたしが一分。
与次郎  いいのですか。
お仲   あとで困りますけどね。
与次郎  これで五両そろいましたか……長屋というのは不思議なところだ。武士ならこんなことはしません。もし出すなら、それは己の面子のためです。
お仲   一両出すのは与次郎さんの面子ですか。
与次郎  いいえ、長屋のしきたりに従っただけです。
お仲   長屋のしきたりは助け合いですよ。ですからお登世さんの世話を手伝います。
与次郎  ……それにはなじめません。
 
  与次郎、駆けていく。
  お仲の父、舂米屋の職人秀治が出てくる。
 
秀治   いっちまった。女の気持ちが分からねぇ野暮天だな与次郎さんは。
お仲   お父っあん。なんだよ女の気持ちって。
秀治   惚れてんだろうが。
お仲   そんなんじゃありませんよ。
秀治   嘘つくねぇ。それにしても元侍は頑固だね。一言手伝って欲しいといえば、自分も楽になれるし、出戻りの年増娘も喜ぶってのに。
お仲   年増はよけいだよ。
 
  これらの会話の間に……
  紗幕の後ろでは、お登世が寝ている部屋に男が侵入し行李を開けて中から金箱を取り出す。
  暗闇の中、足を踏まれたお登世が金切り声を上げる。
  紗幕前のお仲と秀治、なんだと振り返る。
 
お仲   今のお登世さんじゃ。
秀治   ああ。
 
  驚いた男は金箱を持って表に飛び出すと、ほろ酔いで戻ってきた松次郎と女房のお種に出くわす。
 
松次郎  え、与次郎さんか。
お種   そんなわけないだろう。与次郎さんはまだひさごにいるはずだよ。
 
  男は二人を突き飛ばして逃げていく。
 
松次郎  泥棒、泥棒だ。
 
  驚くお仲と秀治。
 
お仲   お父っあんッ。
秀治   いけねぇ大変だッ。
 
  音楽盛り上がり溶暗
 
 
 
 
八右衛門長屋に続く通り。
 
  花道より。
  日本橋堀江町に住む岡っ引き文治とお仲が歩いてくる。
 
お仲   一言助けてくれといえばいいんです。そうすれば与次郎さん少しは楽になると思います。
文治   心底困ったとしても、男は簡単に助けてくれとはいわないぜ。意地があるだろう。
お仲   それじゃつれないじゃありませんか。
文治   お仲、その与次郎に惚れちまったな。
お仲   そんなんじゃありませんよ。
文治   顔が赤いぜ。惚れた男の難儀を助けたい気持ちは分かるが、年老いた親の世話、まして他人の親の世話は生半可なことじゃ勤まりゃしねぇぜ。
お仲   傍から見ていると気の毒でなりません、だから……
文治   お仲の思いはどうであれ、おふくろの世話を赤の他人に頼むのは気が引けるものだ。
お仲   気持ちは分かりますが、与次郎さん親の世話で仕事が出来ません。なんとかしなきゃいずれ立ち行かなくなります。ですから親分のお知恵を拝借したいんですよ。
文治   難しいことを相談しやがるな……本音をいえは、与次郎さんは手を貸してほしいだろう。
お仲   なら助けを頼めばいいのに。
文治   それが中々難しい、わっしにも覚えがある。
お仲   親分さんに?
文治   おふくろは五年前に亡くなったが、わっしがまだ駆け出しのころ病にふせて動けなくなった。ちょうど御用で多忙を極めていて、その上看病も自分でしたから大変だ、疲れ果てとうとう御用をしくじった。罪人を取り逃がしたのだ。見かねた八丁堀の旦那は、誰かにおふくろの面倒を見てもらえといったが、迷惑はかけられないと旦那にいいかえした。色んな思いがあったが、とにかく親の世話で誰かに迷惑をかけるのは嫌だった。すると旦那が、お前の気持ちは分かるがそれじゃだめだ。今からまじないの言葉を教えるから騙されたと思って誰かに唱えてみろ。そうすりゃお前は楽なると言われた。
お仲   まじないの言葉ってなんですか。
文治   さっき、お仲が口にした言葉だよ。
お仲   え?
 
  文治は笑みを浮かべた。
  そこに文治の手下、弥助がくる。
 
弥助   親分。
文治   一通り洗ってきたか。
弥助   へい。三日前の夜半、長屋に住む船頭の松次郎と女房のお種が戻ってくると二件隣の与次郎宅から男が出てきた。暗がりで顔は見えず、影は松次郎を突き飛ばし逃げていった。松次郎とお種は堀裏のひさごで長屋の連中と飲んだ帰りで、ひさごには被害にあった与次郎がいました。松次郎はひさごへ走り、お種はお登世を起こし事情を説明したが、お登世は頭がぼけていてはなしにならない。亥の刻過ぎに松次郎に連れられて与次郎と一緒に飲んでいた左官屋六兵衛が帰ってきました。与次郎が部屋を調べると金を入れた手箱がなくなっていると騒ぎ出した。
文治   いくら盗まれた。
弥助   手箱に五十両入っていたと。
文治   与次郎の商売は。
弥助   職を転々としていました。最近は口入屋から普請の手伝いに出ていましたが、そこもやめたようです。与次郎は長屋で寝たきりの母、お登世の世話をして暮らしている。無口な男で女房はいません。
文治   しかし五十両は過ぎた金子だ。
弥助   まったくです。ですから大げさにいってるだけかも。
文治   与次郎は江戸者か。
弥助   三河の出です。長屋に越してきたおりに、番町御厩谷に屋敷を構える旗本に仕えた家来だったと大家に伝えたそうです。
文治   もとお侍か。
弥助   詮議するため長屋の連中に声をかけました。まもなく集まると思います。
文治   ふむ。先ずは与次郎からはなしを聞こうじゃないか。
与助   へい。
文治   お仲は自分の父っあんを連れてきな。
お仲   はい。
 
  お仲、去る。
  弥助、与次郎宅の木戸口へ。
 
弥助   与次郎さん、堀江町の親分がきなすった。
与次郎  はい。
 
与次郎が木戸口に出てくる。
 
与次郎  与次郎です。
文治   文治だ。
与次郎  お越しいただきありがとうございます。
文治   これは御用だ礼には及ばねぇ。失礼するぜ。
与次郎  どうぞ。
 
  文治と弥助、家に入る。
枕屏風のかげにお登世が寝ている。
 
与次郎  おふくろのお登世でございます。寝たきりですからご勘弁ください。
文治   なに、かまいやしねえ。……盗人に入られたそうだが、早速はなしを聞こうじゃないか。
与次郎  あの夜、近所のひさごに飲みに行き、亥の刻過ぎに松次郎さんに泥棒が出たと言われ帰りました。盗られたものはないか調べると、金を入れた手箱がなくなっていました。
文治   ここから出て行った男に心当たりはないか。
与次郎  ありません。
文治   以前に何か変わったことはなかったか。例えば誰かがここに出入りしたとか。
与次郎  とくにありません……あっ……
文治   何があった。
与次郎  大事な用が出来たので、おふくろの面倒を見てもらう為に口入屋から女を雇いました。十日ほど前です、お初という女でした。
 文治  なるほど。ところでおふくろさんは寝ているのか。
与次郎  はい。半時ほど前に寝てしまいました。
文治   何か覚えてないか聞きたいのだが。
与次郎  無理だと思います。それにおふくろは寝ていたから何も知らないと。
文治   むむ。ところで盗まれたのは五十両で間違いねぇか。
与次郎  はい。
文治   そいつは大金だ。いったいなんの金だ。
与次郎  ……御家人株を売りました。
文治   いくらで売った。
与次郎  七十両です。もう二十両ほど使ってしまいましたが、おふくろの世話をする大事なお金です。親分、どうか取り戻してください。
文治   分かった。他になくなったものは。
与次郎  ありません。荒らされた様子もありませんでした。
 
  そこに突然、
 
お登世  どうしました。
 
  お登世、布団から上半身をおこす。
 
与次郎  おふくろ、起きたのか。
お登世  (文治に)だれです。
文治   わっしは御用聞きの文治と申します。
お登世  そうですか。なにかありましたか。
文治   この屋に盗人が入り込んだようです。ご隠居さんはなにか見ませんでしたか。
お登世  盗人がこの屋敷に……
文治   へい。
お登世  残念ですがなにもみていません。
文治   そうですか。
お登世  なにか盗られたでしょうか。
文治   それが……
与次郎  なにも盗られてないよ。おふくろが気にすることじゃないから。
お登世  気にしてはいけないのかい……あの、親分さんに頼みたいことがあります。
与次郎  よさないか、親分さんは忙しいんだ。
お登世  お黙り。
与次郎  ……
文治   なんでしょう。
お登世  取り戻してください、大切な茶碗を盗まれました。
文治   え?
与次郎  何をいい出すんだ。
お登世  あんたが盗んだのでしょう。
与次郎  割れたんです。だから捨てたでしょう。
お登世  いい加減なことを……
与次郎  おふくろ、大事な金を盗まれて、それで親分さんが調べをしてくれているんだ。つまらないこと言わないでくれ。
お登世  つまらないことですって。
 
  お登世は布団から這い出し立ち上がろうとしたが、半身が利かず畳の上に倒れた。
 
与次郎  おふくろ。
お登世  ああ、もう嫌だ。まったく、もうッ……
 
  お登世は泣き叫んだ。
 
与次郎  すみません。おふくろは病なんです。おふくろ、迷惑をかけてくれるな。
お登世  わたしが邪魔なんでしょう。
与次郎  そんなことないよ。
お登世  死んでしまいたいよ。
与次郎  なにをいうんだッ。
 
  この異変は二軒隣のお仲の耳に届き、彼女は慌てて与次郎宅の戸口から飛び込んでくる。
 
お仲   大丈夫かぇ。
与次郎  親分さん日はこれで……
文治   わかった。手間を取らせた。
 
  文治、お仲と弥助を連れて与次郎宅を出る。
 
弥助   あれじゃ仕事は無理だ。
文治   お登世はいつから寝たきりに。
お仲   二年前に頭をやって命は助かったけど半身不随に。武家の奥方が町人に身を窶しても気丈に振舞っていましたが、自分に降りかかった災難に今度ばかりは気落ちしたんでしょう、とうとう自分の倅が分からないほど惚けてしまったみたいです。与次郎さんは八右衛門長屋に越して五年はうまくやってましたけれど、病から狂いが生じて仕事がままならなくなっちまった。その一方で医者や薬代の高いのは世の習いさ。今じゃ細々と暮らしながら、与次郎さんは寝る間を惜しんで世話をしてます。
文治   大家は手を貸さないのか。
お仲   いっそ小石川に預けてはと申しました。
文治   小石川養生所か。
お仲   でも与次郎さんは、母は狭くとも自分の家がいいというからここで世話をすると。
 
文治は思わず溜息。
 
お仲   お父っあんを連れて来ます。
 
  お仲、戻っていく。
 
弥助   親分、冷えてきやがった。
文治   極月だ仕方あるめえ。
弥助   ですね。親分、何か目星は。
文治   家捜しせず金の入った手箱を持ち出していることから、賊は手箱のありかを事前に知りえた者だ。
弥助   お登世が倅を盗人呼ばわりしましたが。与次郎の自作自演って事はありませんか。
文治   なくもないがまだ分からない。お前は与次郎宅に出入りしたお初という女を当たれ。何か出るかもしれない。
弥助   ようがす。
 
弥助、下手にはける。
船頭松次郎と女房のお種がくる。
 
文治   お前さんたちは。
松次郎  この長屋にすむ船頭の松次郎です。
お種   女房のお種です。
文治   わっしは堀江町の文治だ。盗人を見たのはお前さんたちだね。
松次郎  はい。
文治   粗かたの話しは手下から聞いている。だから与次郎が戻ったあとのことを話してもらおうか。
松次郎  何か盗まれたものはないかと尋ねると、顔色を変えてあちらこちらと探し回り、金の入った手箱がないと。
文治   その場には誰がいた。
松次郎  私と女房、お登世さんに与次郎さん、舂米屋の通い職人秀治さんと娘のお仲さんです。その後、与次郎さんと六兵衛が戻り騒ぎが大きくなって棒手振りの寅蔵が顔を出しました。
文治   ひさごで飲んでいたと聞いたが。
松次郎  へい。わっしと女房、六兵衛と与次郎さんで。
文治   どうして飲んでいた。
松次郎  長屋でごたごたが……
文治   なにがありました。
松次郎  左官の六兵衛が仕事でヘタを打ってクビになりそうだから、皆で知恵をしぼっておりました。
文治   なるほど……それから与次郎とお登世について聞きたい。
お種   与次郎さんは普段から無口で、すこし人を遠ざけるようなところがありましてね。
松次郎  それで六兵衛の説教ついでに与次郎さんにも少し意見をしてやったんですよ。そしたらそれっきり下を向いちまった。もう帰ろうといっても酒をあおって一向に尻を浮かせない。六兵衛がついているというから、それでわっしらは先に戻ったんです。
文治   ふむ……
お種   親分さん、お登世さんは面倒見のいいしっかり者でした。わたしらには七つになる松助という孫がありまして、今年奉公に出しました。その松助が生まれる時のことです。夜中に娘が産気づいたが産婆が来てくれない。亭主は慌てるばかりで困っているとお登世さんが来てくれて無事に松助を取り上げてくれました。お登世さんがいなければ、娘と孫はどうなっていたか。
文治   その娘さんはたしか……
お種   三年前に病で亡くなりました。
文治   女房の船宿で女中をするお仲から長屋の事を多少聞きかじっていますから、娘さんのことは耳にしております。気の毒でござんした。
お種   はい……
文治   ところで、二人はお登世さんの世話を手伝わないのか、恩があるでしょう。
お種   与次郎さんが断るのです。
 
二人は困惑した顔を文治に見せた。
  そこに与次郎の隣に住む棒手振りの寅蔵がくる。寅蔵は与次郎より後に八右衛門長屋に越してきた男で、仕事柄がたいがよく、粋な男前で腰に真新しい煙草入れを差している。
 
文治   お前さんは。
寅蔵   堀江町の親分さんですね、わっしは与次郎の隣に住む寅蔵と申します。
文治   お前さんは棒手振りだと聞いたが。
寅蔵   おもに魚と蜆を扱っております。
文治   そうか。さっそくだか聞かせてくんな。
寅蔵   へい……仕事で朝が早いのでわっしはぐっすりと寝ていましたが、あまりに外が煩いので表に出ると盗人が出たと聞かされました。それ以上は何も分かりません。
文治   与次郎やお登世と付き合いはあるか。
寅蔵   ほんの挨拶程度です。わっしが越してきた時にはお登世はもうあの様子で、時々夜中に叫んだり怒鳴ったりしていました。こっちは朝が早いので迷惑だが、事情を知っているので我慢してます。
文治   お登世の声はつつぬけか。
寅蔵   長屋だから聞こえて当然だ。
文治   事件以前に、何かを盗まれたとお登世が口にしたのを耳にした事はあるか。
寅蔵   ありません。
文治   そうかえ。
寅蔵   親分さん、もういいですか。
文治   いいぜ。三人もご苦労だった。
寅蔵   それじゃわっしはこれで。
お種   失礼します。
 
寅蔵、松次郎とお種、帰っていく。
入れ替わり六兵衛がくる。
 
六兵衛  六兵衛です。左官屋でございます。
文治   事件当夜、ひさごで飲んでいたな。
六兵衛  はい。
文治   喧嘩をして相手に大怪我をさせたらしいな。その後始末の相談をしていたんだろう。
六兵衛  ご存知でしたか。
文治   ああ、知っている。そのはなしを聞かせてもらおう。
六兵衛  今回の件と関係ないでしょう。
文治   それはわっしが決めることだ。
六兵衛  ……治療代などで五両払えといわれてます。出来なければ訴えるって……親方からは見放されそうになりましたが、金を払ってうまくはなしをまとめれば、今回だけは勘弁してやると。ですから、ひさごでその金の相談をしてました。
文治   金子の都合はついたのか。
六兵衛  ありがたいことに松次郎さん、与次郎さん、秀治さんがそれぞれ一両づつ貸してくれました。あとの二両は手前で用意します。
文治   与次郎が大金を持っていたのを知っていたか。
六兵衛  大金とは思いませんでしたが、それなりに持っているんだなと……親分、おれじゃありませんよ。盗人が入ったとき、おれは与次郎さんと酒を飲んでいました。
文治   ……らしいな。もう行っていいぜ。
六兵衛  は、はい……
 
六兵衛、戻っていく。
舂米屋の職人秀治とお仲がくる。
 
お仲   親分、何か分かりましたか。
文治   まだ何ともな。
お仲   それじゃ困りますよ、早く何とかしてください。
文治   そう慌てるな。そうだお仲、お前と与次郎さんのなれ初めでも聞かせてもらおうか。
お仲   ちょいと、よしてくださいな。
秀治   お仲のもと亭主は身持ちが悪く乱暴者でした。それでわっちが中に入り離縁させました。ところが未練がましく長屋に現れて口論の上お仲を連れて行こうと……そこに与次郎さんが現れて、腕っ節の強い元亭主をあっさりと倒して助けてくれた。あれ以来、こいつは与次郎さんに惚れちまった。
お仲   お父っあん、今はそんなはなしは……
文治   そいつは初耳だ。なら何とか与次郎の手伝いをしたいわけだ。
お仲   よしてくださいよ親分まで……で、ある日、与次郎さんが井戸端でお登世さんの着物や腰巻を洗っていたので、わたしがやりましょうかと申し出ると、これは他人にさせられないって、疲れた様子で下を向いて黙ってしまいました。洗い物はお登世さんの粗相による汚れ物だったのでしょう。それからも何かと手伝いを申し出たんですけどね。
文治   断られた。
お仲   はい。
文治   もう一つ聞きたい。与次郎は母親に酷い仕打ちをしたことがあるか。
お仲   あの人はそんな事しませんよ。
秀治   ええ、その通りで。
文治   与次郎の家に大金があったのを知っていたか。
秀治   いいえ。でもここ半年まともに働いてない様子でしたから、どうやって暮らしているんだろうって、長屋で噂になったことがありました。
お仲   そしたら寅蔵さんが、もとお侍だから金を溜め込んでるんじゃないかって。
秀治   でも松次郎が、「馬鹿いうな、長屋に流れ着いた侍くずれに金なんかあるか」って。でも、なきゃ暮らせねぇし。
文治   それから寅蔵のひととなりを聞きたい。
秀治   寅蔵は博打好きで酒癖が悪いが、仕事はいたって真面目な男です。
文治   女はいないのか。
秀治   いるようです。名前は知りませんが、池之端の茶屋女だと聞いた事があります。一度見かけましたが、垢抜けた女でした。
文治   そうか。
お仲   親分、きっと捕まえてください。
文治   なに心配するな、万事はわっしに任せておけ。
 
  音楽盛り上がり、溶暗。
 
 
 
 
 
八右衛門長屋 与次郎宅
 
  綿入れを羽織ったお登世が布団の上で上半身を起して、湯気の立つ茶をすすっている。お登世の表情はとても穏やかだ。与次郎は框に腰を下ろし出かける準備をしている。その姿はさながら大道芸人である。
 
与次郎  おかしな格好だと笑わないでくださいよ。仕事なんですから。
お登世  ……
与次郎  今日は調子がよさそうでよかった。仕事に行ってきます。なるべく早く帰りますから。
お登世  行ってらっしゃい。
与次郎  (お登世を見て)大丈夫かな……
お登世  わたしなら大丈夫。
与次郎  わかりました。行ってきます。
 
与次郎、出かけていく。
与次郎宅を出るとそのまま長屋内の通りになる。与次郎が自宅の木戸を出ると、船頭らしい男とお種が血相を変えて通りを走ってくる。
 
与次郎  お種さん。
お種   与次郎さん、なんだぇその形は。
与次郎  仕事でちょっと。どうかしましたか。
お種   うちの人が川に落ちたらしくてね。
与次郎  大丈夫なのですか。
お種   猪牙舟同士で接触して、弾みで飛ばされて掘割の石垣に身体を打ち付けたあげく、そのまま川に沈んじまったらしいんだ。
与次郎  えッ、それじゃ……
お種   いや、偶然らしいんだけど、近くにいた六兵衛が川に飛び込んで助けてくれたんだ。おかげで命拾いしたんだよ。
与次郎  それはよかった。
お種   一応医者が見てくれてるから行ってくるよ。
 
お種、船頭と走り去る。その後姿を見送る与次郎。
溶暗。
 
 
 
 
 
 
上野、池之端付近。
 
  沢山の人出がある。その中、甲高い太鼓の音が聞こえている。花道より大道商人の形をした与次郎がくる。与次郎はお手製のカンカラ太鼓を背負い、太鼓を打ち鳴らしながら歩いてくる。
  与次郎がハケると花道から文治が歩いてくる。文治、いぶかしそうに与次郎が去った後を見ていると、弥助がやってくる。
 
弥助   親分、ここでどうしなすった。
文治   引っかかる女が出てきてここまで来た。
弥助   こっちは口入屋から手掛かりを得て手伝いの女を捜しに。
文治   池之端か。
弥助   その通りで。
文治   どうやら繋がってきたな。
弥助   二人で出向きますか。この先の茶屋です。
文治   気になる事があるので一先ず女はお前に任そう。用が済んだらそちらへ行く。おう、それから……
 
  文治、弥助に耳打ちをする。
 
弥助   へい。
 
  弥助、かけていく。
  入れ替わり与次郎がくる。
 
文治   やはり与次郎さんか。
 
  与次郎は驚いて立ち止まる。
 
与次郎  親分さんでしたか。
文治   偶然見かけて声をかけた。そいつは河豚太鼓でござんすね。
与次郎  はい。
文治   おふくろさんは誰かが診てるのか。
与次郎  いいえ。四六時中目が離せないわけではありません。良い時と悪いときの差が激しく、今日は落ち着いていて昔のおふくろのようでございました。ですからここまで……
文治   これがお前さんの今の仕事か。
与次郎  寅蔵さんの知り合いの漁師から河豚の皮を分けてもらいました。河豚太鼓は簡単な玩具ですから私でも作ることが出来ます。しかし所詮は子供の遊び道具です。たいしたお金にはなりません。
文治   寅蔵の紹介か。
与次郎  はい。融通の利く仕事でなければ、今の私には勤まりませんから。
文治   女房をもらう気はないのか。
与次郎  無理ですよ、今のままでは。
 
  与次郎は視線を逸らし、いたたまれない顔で不忍池を見る。
 
文治   ご近所に手伝いを頼んじゃどうですか。
与次郎  迷惑はかけたくない。
文治   そいつがいけない。隣近所の者はお前さんの事情をよく知っている。きっと手を貸してくれますぜ。
与次郎  母の世話を他人に任すなど出来きませんッ。
 
  その声に驚いたのか池の雁が鳴いて飛び立つ。
 
文治   (笑って)頑固だな。
与次郎  すみません、これで失礼します。
文治   まだ聞きたい事がある。与次郎さんは金子のことを誰かに話したか。
与次郎  いいえ。知っていたのはおふくろだけです。
文治   最近、おふくろさんと金のはなしをしたか。
与次郎  ……茶碗が割れたとき、はなしの流れで手箱の金子を見せました。……おふくろの茶碗を割ったのはわたしなんです。思わず手が滑って落としてしまいました。似た物をさがして買ってくるといったら「あれは大切な物だ、値が張るんだ」と言われて……
文治   大きな声を出さなかったか。
与次郎  え?
文治   だから、そのとき大きな声ではなしをしたんじゃないか。隣に聞こえるくらいに。
与次郎  (少し考え)いいえ。
文治   おふくろさんは?
与次郎  興奮してましたが、さほど大きな声は。
文治   そうか……
与次郎  親分さん、おふくろは日々色んなことを忘れていきます。今では茶碗が割れたことも覚えていませんが、それが大切な物だというのは覚えているようです。茶碗はわたしがおふくろに買い与えた品です。
文治   そうなのか。
与次郎  はい。しかしおふくろの頭の中で、どうやら父上が送った品になっているようです。
 
  与次郎、背負子から箱を取り出す。中に赤い茶碗が入っている。
 
与次郎  さがして買ってきました。色が似ているだけの安物ですが、それでもおふくろは喜んでくれるかもしれません。
 
  与次郎、茶碗を元に戻して背負子を背負い立つ。
 
与次郎  わたしはこれで失礼します。
文治   与次郎さん、わっしはここに御用できたのだ。今からお前さんに、ちょいと付き合ってもらうぜ。
与次郎  しかし。
文治   御用の筋だ、付き合ってもらうぜ。
 
  音楽盛り上がり溶暗。
 
 
 
 
池之端の茶屋
 
  二階の平座敷。三味線の音が聞こえている。
  窓辺の席で文治と与次郎が向かい合い酒を飲んでいる。
 
与次郎  親分さん、どうしてこんなところへ。
文治   これも御用の一つだ。
与次郎  はぁ……
 
  与次郎、進められるまま猪口を口へ運ぶ。
 
文治   与次郎さんはなぜお侍を辞めなすった。
与次郎  改易のあとよい仕官先が見つからなかった。それに借金もありました。奉公先をなくしたわたしは信用もなくし、突然借金の返済を迫られて、仕方なく御家人株を手放しました。
文治   なるほど。
与次郎  わたしは町人の仕事をなめていました。四十をすぎると仕事がない、ようやく見つけても年下に教えを請い、物覚えが悪いと怒鳴られて時には殴られるあり様だ。
文治   そういう事もありましょう。
与次郎  嫌になります。
文治   あまり酔っちゃいけねえ。まだ御用がすんでない。
与次郎  ここで何の御用があるのです。私はそろそろ帰らなければなりません。
文治   間もなく終わるから、もう少し付き合ってもらいましょう。おふくろさんが心配だろうが、何かあればお仲が飛んでいくだろう。
与次郎  なぜお仲さんが。
文治   さあな。
 
  と文治は笑うと、視線を店の外にやる。
 
文治   それにしてもお袋さんの世話は大変だろう。
与次郎  歳を取れば子供にかえると言いますが、実際はそんなモノじゃない、色々ありすぎて身体や気力がもちません。実は昨日、おふくろが聖天様が見たいと言い出しました。若い頃、父上と一緒に眺めたそうで、今でも母は大川から眺める対岸の聖天様が好きなのです。しかし、暗くなっていたから断ると突然怒り出しました。落ち着かせようとしたがどうにもならず、私はおふくろを、とうとう殴ってしまいました。
文治   ……
与次郎  するとおふくろが、もう殺してくれと……
文治   そんな事がありましたか。
与次郎  わたしはどうしたらいいんだ……
文治   与次郎さん、思い詰めちゃならねぇ。例え自分の母親でも一人で背負い込むことはありゃしねぇ。わっしはそう思いますぜ。
 
  その時、茶屋外の土手に、弥助と粋な感じの女が現れる。
 
文治   はなしはこれきりだ。あの女の首実検をしてもらおう。
 
  与次郎、女を見る。
 
与次郎  あの女は、お初です。
文治   これでようござんす、気をつけてお帰りなせえ。
与次郎  お初が盗んだのですか。
文治   まだ分からないが、早々に埒を開けてごらんにいれますぜ。
 
  浮かない顔の与次郎。
  文治、女を見つめている。
  音楽、急速に盛り上がり溶暗後、音楽カットアウト。
 
  闇の中に茶碗の割れる音が響く。
  そして不安な音楽イン。
 
 
 
 
両国橋・広小路
 
葦張りの掛け茶屋やその他出店あり。見世物や大道芸人が並び賑やかな人通り。その中、大家の紀衛門に、六兵衛と松次郎がまとわりついている。
 
紀衛門  しつこいな。わたしはこれから自身番にいくんだ。
松次郎  大家さんよ、六兵衛はわっしの命を救ってくれた大恩人だ。うんと言ってくれるまで引かないぜ。
紀衛門  しかし、家主の八右衛門さんと話し合い、やはり出て行ってもらうということに。
松次郎  それは示談のはなしがまとまらないときだろう。
六兵衛  そうですよ。金を払って相手と和解しました。親方も今回は許してくれたんです。なのに出て行けは酷いでしょう。
紀衛門  もうあきらめてください。
松次郎  わかった、なら頼まねぇ。今から長屋のみんなで八右衛門さんのところに押しかけて直談判だ。
紀衛門  そんなことされたらわたしの立場が……わかりました、もう一度話し合ってきますから。
松次郎  約束だぜ。
紀衛門  はい……
 
その時、寅蔵が歩いてくる。
反対側から文治と弥助がくる。
松次郎たちはまだそれに気づかない。
文治は弥助に目配せをすると一人そのまま歩き出し、寅蔵とすれ違い様に声をかける。
 
文治   ずいぶん景気がよさそうじゃねえか。
 
  だしぬけに声をかけられ寅蔵は驚く。そして声の主が文治だと知ると彼は顔色を変えた。
 
寅蔵   親分さんでしたか。何かございましたか。
文治   羽振りがよさそうなので声をかけたのさ。
寅蔵   とんでもねぇ、しがない棒手振り家業でございます。
文治   そのわりにはいい煙草入れをさしてやがる。
 
  寅蔵は腰の煙草入れを手で触り、益々顔をくもらせる。
 
文治   お前さんだな、与次郎の金を盗んだのは。
寅蔵   冗談はよしてください。
文治   お初という女を知ってるな、しらをきっても無駄だ。
 
  寅蔵は不意に腰の煙草入れを文治に投げつけ逃げた。しかし弥助に組み付かれ転げ廻り、もみ合ううちに弥助を突き飛ばすと立ち上がったが、そこをを文治に十手で殴られ、彼は蹲った。
 
文治   御用だ、神妙にしろ。
 
  目の前に十手を突きつけられ寅蔵は観念して縛についた。
 
紀衛門  親分、これはいったい……
文治   与次郎の金を盗んだ下手人を召し取りました。
紀衛門  ええッ。
松次郎  まさか寅蔵が盗人。
文治   そうです。
紀衛門  え、えらいことだ。
 
  そこにお仲、秀治、お種が駆けてくる。
 
お仲   親分ッ。
文治   いいところに来た。
 
  長屋の一同は縛られた寅蔵をみて驚く。
 
秀治   どうして寅蔵が、
松次郎  与次郎さんの金を奪ったのは、こいつッ。
秀治   と、寅蔵が下手人!
松次郎  隣住んでるのに太ぇ野郎だ。
お種   本当だよ、腹だたしいったらありゃしない。
文治   寅蔵、盗んだ金子はどこだ。
寅蔵   ……家の床下だ。
文治   このことを与次郎さんに伝えてくれ。
お仲   それが親分、与次郎さんとお登世さんがいなくなったんです。与次郎さんが背負って出て行ったのをお父っあんが見かけて、わたしはすぐ後を追いかけたんですが……
文治   いなくなる前に何かあったか。
お仲   わかりません。でも与次郎さん宅の上がり框に割れた赤い茶碗が散乱してました。もしものことがあるといけません、二人を捜してください。
文治   弥助、この男を頼んだ。おれは与次郎を捜す。
弥助   へいッ。
松次郎  わっしらも捜そう。
 
  急ぐ音楽とともに溶暗。
 
竹屋の渡し
 
  与次郎とお登世が土手下の桟橋に座っている。
  その与次郎の腰には馬手差しあり。
  隣に座るお登世が震えているので抱き寄せると、与次郎は自分のふところに母の手を入れて暖める。
 
与次郎  見えないが聖天様は目の前だ。少しは気が済んだか。
 
  返答はなく、お登世は闇の遠くを見つめるばかりである。
 
与次郎  手を上げてすまなかった。おふくろが茶碗を投げ捨てるから、ついカッとなったんだ
 
  与次郎、お登世の首筋に手拭を巻いてやる。
 
与次郎  なあ覚えているか、二人で成田参りしたことを。
 
  お登世の返事はない。
 
与次郎  楽しかったな。門前の賑わい、仁王門の大きな赤い提灯、釈迦堂は立派だった。忘れられないのは行徳の笹屋うどん。あれは美味しかった。わたしが割ったあの茶碗は、笹屋前の船着場にたっていた陶器市で買ったんだよ。おふくろが気に入ったというから。
 
  与次郎は溜息をつく。
 
与次郎  わたしはお袋の倅でよかったと思っています。
 
  与次郎はお登世を抱き寄せ桟橋の先の闇をみる。
 
与次郎  自分たちの始末は自分たちでつけましょう。
お登世  ……子供が生まれたとき、
与次郎  え、なんです。
お登世  うれしかったね。それでね、
与次郎  わたしが生まれたのが……
お登世  その子と行った、成田参りが楽しかったよ。
与次郎  おふくろ……
 
  与次郎は涙が出た。それで思わず上を見上げると、どこまでも深く黒い師走の夜空が目に飛び込んできた。
 
与次郎  不甲斐ない倅で申し訳ない。二人で楽になろう。
 
文治   やはりここにいなすったか。
 
  与次郎が驚いて後ろを見上げると、土手の上に文治がいる。
 
与次郎  親分さん、どうしてここが。
文治   御用聞きとはそういうものだ。なあ与次郎さん、馬鹿な気を起こしちゃいけませんぜ。
 
  お仲、秀治が土手に現れる。
 
お仲   与次郎さん、聞いてちょうだい。
与次郎  放っておいてくれ。
お仲   親分さんが盗人を召し取ってくれたよ。やったのは隣の寅蔵だった。お金は戻ってくるよ。
与次郎  と、寅蔵さんが……
文治   寅蔵はお初の馴染み客だ。お初は昼間暇なので口入屋に仕事を頼んでおくとお登世の世話のはなしが来た。ここまでは偶然だ。壁越しに金子の話を聞いていた寅蔵は、やって来たのがお初だと知ると、お初に金子の在り処を尋ねた。お初は金の在り処は知らなかったが、行李が重く動かすのが大変だったと、つい口を滑らせてしまったのだ。そして与次郎さんがひさごに出かけたあの夜に忍び込んだ。
与次郎  取り戻してただきありがとうございます。しかし、その金もやがてなくなります。そうしたら……
お仲   なんとかなりますよ。
文治   悲観するとこはねぇ、どうにかなる。
与次郎  他人事だからいえるんだ。
文治   そうかもしれないが、
与次郎  わたしはもう息が出来ない。
 
  お仲、土手から桟橋に駆け下りる。
  与次郎、馬手差しを抜く。
 
与次郎  おふくろ、ご免よ。
お仲   駄目ッ。
秀治   やめろ与次郎さん。
 
  お仲、捨て身で与次郎とお登世の間に割ってはいる。
 
与次郎  どいてくれ。
お仲   どくもんかッ。
 
  お仲、与次郎にしがみつく。
  文治も桟橋に降りる。
 
文治   馬鹿はよせ。
 
  文治、与次郎の馬手差しを奪う。
  与次郎、組み付かれたまま倒れ、お仲に押さえ込まれる。
  松次郎、お種、六兵衛、紀衛門が駆けつける。
 
お仲   死んじゃいけない。
与次郎  お仲さん、どいてくれ。
文治   お前さんは自分とおふくろさんだけの問題だとお思いだろうが、遅かれ早かれ誰の身にも起こる事だ。
与次郎  親の面倒を見るのは世の習いです。なのにわたしはそれがうまく出来ない駄目人間だ。わたしは自分が許せません。
お仲   駄目なもんか、与次郎さんは十分頑張ってきた。でもさ、上手くことが回らないのは一人じゃ無理があるんだよ……だけど大丈夫。与次郎さんには、わたしがいます。
秀治   そうだ、わっしだっているぞ。
六兵衛  おれだって。
松次郎  みんながついてる。
お種   そうだよ。
紀衛門  長屋から咎人が出たのに、その上死人まで出したら憹はどうなるんだ。押し込めぐらいじゃすまなくなるんだぞ。やめてくれ。
お種   はあ?
紀衛門  憹の立場も考えろ。
松次郎  自分の事ばかりいいやがって。
紀衛門  は、早まったらだめだ。
六兵衛  うるさい、このくそ大家。
 
  紀衛門、松次郎たちに押さえ込まれる。
 
お仲   みんな手伝うといってくれてますよ。
与次郎  こんな思いを他人にされられない。
お仲   なら押しかけ女房になります、だからこれ以上、ひとりでがんばる必要ないんだ。与次郎さん、自分をゆるしてあげて。
与次郎  自分を……
お仲   その場限りの慰めじゃありませんよ。
文治   与次郎さん、こんなときによく効くまじないの言葉を教えましょう。それをお仲に向かって唱えるんだ。一言、助けてくれと。
お仲   親分、それがまじないの呪文ですか。
文治   そうだ。簡単なことだ、素直になればいい。
お種   その通りだよ。
松次郎  いうんだ与次郎さん。
秀治   さあ、いってくれ。なァ。
紀衛門  (押さえ込まれたまま)いいなさい。
六兵衛  あんたは黙れ。
 
  与次郎、起き上がるが無言のまま。
 
お仲   与次郎さん……
与次郎  わたしは今でも侍の心得だけは忘れてない。親の世話で情けにすがるなど辱と……
 
  お仲、与次郎の頬を打つ。
 
お仲   いつまでお侍気分がぬけないんだ。わたしたち庶民は助け合って生きてんだ。それに女が全力で助けるっていってるのに、自分の辱を気にするのか。そんな甘い考えじゃ誰も幸せに出来やしないよ。助けてほしいときに助けてというのは勇気がいるのかもしれないけど、ここは一番振り絞ってさ。それともわたしじゃ駄目なのかぇ。
与次郎  いや決してそんなことは……
文治   与次郎さん、情けはすがるものじゃない、ありがたく受け取るものですぜ。そして感謝すればいい。
六兵衛  そうだよ。おれなんか感謝のしっぱなしだ。
松次郎  命を救ってくれた六兵衛に感謝している。
お種   孫と娘を助けてくれたお登世さんに感謝してる。
秀治   情けは人のためならず、ですぜ。
文治   つまらない心得はここいらが捨て時だ。ものは試しだ、まじないの言葉を唱えてごらんなさい。
お仲   さあ、言ってちょうだい。
 
  間。
 
長屋一同 さあッ。
 
  少しの間。そして与次郎は息を呑んだ。
 
与次郎  お仲さん……
お仲   はい。
与次郎  助けてくれますか。
お種   声が小さくてこっちまで聞こえないよ。
与次郎  助けてくれッ。
 
  お仲、与次郎の手を握る。
 
お仲   あいよッ!
 
松次郎  与次郎さん、わっしも手伝うぜ。
お種   これで恩返しができるよ。
六兵衛  おれが一番に助ける。
秀治   馬鹿、一番はお仲だ。
松次郎  人助けに順番なんかなぇよ。
 
  与次郎、ふっと肩の力がぬける。
 
お仲   そのかわり嫁にしてもらうからね。
与次郎  (顔を上げ)これで本当にいいのですか。こんな情けをかければ苦労しますよ。
お仲   大丈夫、その先にきっと幸がある。
与次郎  お仲さん。
お仲   なんだぇおまえさん。
秀治   おい、それはまだ早いぞ。
お仲   いいじゃない。どうしたんだぇ、おまえさん。
与次郎  ありがとう……
お仲   水臭いことをいわないでおくれ。親分、また嫁に行けそうだから仲人頼みますよ。
文治   まったく気が早えなぁ。
お仲   頼みましたよ。
文治   あいよ。
松次郎  よし、祝言だ。そういえば六兵衛も嫁を貰うんだったな。一緒にあげちまうか。
六兵衛  いいですね、それ。
秀治   大家さん、祝儀ははずんでくださいよ。
松次郎  しかも二組分だ。
紀衛門  そんな……
 
  長屋の一同盛り上がり、ぞろぞろと桟橋に降りていく。
  文治、提灯をお仲に渡してお登世の手を取る。
 
文治   おふくろさん、今夜は霜がおりそうだ。このくらいで帰りましょう。
 
  お登世は文治の言葉が分かったらしく、頷いてみせる。
 
弥助   親分。
文治   おい、ここだ。
 
  弥助は土手を駆け下りてくる。
 
弥助   なんですこの騒ぎ。
文治   色々とあってな。
弥助   それでどうなりました。
文治   なに、押しかけ女房おかげで一件落着だ。
弥助   ん?どういうことで。
文治   なんでもねぇよ。
 
析頭。
文治は笑った。それにつられて皆も笑う。
  静かに流れる大川はいつの間にか青い月の道を水面に揺らし、江戸の冬空は満天の星を携えどこまでも澄んで深くみえた。
  それぞれの表情ありてキザミ入り、
  幕。

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