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昭憲皇太后のドレスと明治維新

明治神宮ミュージアムに「受け継がれし明治のドレス~昭憲皇太后の大礼服」という展覧会に行きました。

昭憲皇太后は明治天皇の皇后

フランス式軍服姿の明治天皇 21歳の写真

明治天皇は皇后に五摂家の一つ、一条家の美子(はるこ)を迎えます。
ちなみに五摂家とは、藤原氏を先祖にもつ五つの家系で、ここから代々摂政・関白を出してきたところです。

入内18歳 ほんとは20歳

明治天皇17歳、美子20歳の結婚。
3つ年上ということはしばらく公にしてなかったらしいです。
昭憲皇太后となるのは亡くなってからの追号なので、この記事の中では「美子(はるこ)」さんと呼ばせていただきます。

江戸時代から明治時代?

ここでふと疑問を持ちました。
「江戸時代が終わって、明治時代になった」って、歴史で習ったけどおかしくない?
明治時代以降は天皇が亡くなると、明治→大正→昭和→平成(退位)→令和でしょ?
江戸時代は幕府が大政奉還して終わったんで、その時の天皇は誰?
幕末の天皇って、孝明天皇じゃなかったっけ?
孝明天皇が死んで、明治天皇で明治時代?
大政奉還はそのとき同時に??? そんなにタイミングよく?

日本史に詳しい方は事の成り行きをご存じと思いますが、私は今回調べて初めてその謎が解けました。

1860年 公武合体で孝明天皇の妹:和宮が14代将軍家茂に嫁ぐ
1863年 家茂上洛、孝明天皇に引見。10歳の睦仁親王(明治天皇)同席
1864年 蛤御門の変
1866年 8月29日 家茂 大阪城にて死亡 
    12月5日 15代将軍に慶喜
    12月25日 孝明天皇 死去
1867年 2月13日 睦仁親王(明治天皇)即位          
         14歳
    11月9日 大政奉還
1868年 正月 本来なら15歳で元服のはずが17歳 
       まで延びて、ここで儀式を行う予
       定だったところ、
    1月15日 鳥羽・伏見の戦い→戊辰戦争
    2月8日 やっと元服 
        (6か国の公使の前で)
    4月6日 「五箇条の御誓文」
    10月  即位の礼 元号:明治
    11月  和宮と引見
1869年  2月  一条美子 入内
     9月  ビクトリア女王第2王子 
         エディンバラ公引見
1872年 10月   新橋~横浜 鉄道開通

驚きました。有名な和宮の公武合体からたった12年で鉄道開通。(旧暦と新暦が混ざるので若干の誤差をお許しください)

全部が初めてづくしだった天皇と皇后

生まれて物心ついたときには、すでに世の中がきな臭くなってきていた皇族の二人は、それまでの公家のようなのんびりした生活は当然送れなかった。

明治天皇にとって、政治的には薩長の面々に主導権をとられてきた青年期だったかもしれないけれど、内外に姿を見せた、見せなければならなかった天皇として、フランス式の軍服を採用して外交用の写真としています。

1869年のエディンバラ公の引見は、天皇が外国王族と初めて会ったことになるのですが、このとき、天皇が一段上にいて見下すのではなく、同じ高さの場所で対面したとあります。
こちらも下に見られたくないし、相手も下に見ない姿勢。
同じ王族として礼節を持って対面されたんだと思いました。

洋装の本当の意味

20歳で明治天皇が洋装。だったら、美子皇后も、と思ったら

天皇はじめ男性の洋装化は、欧化政策が始まる前から、各行事の西洋化などに伴って急速に進行したが、女性の洋装化は遅れた。宮中についていえば、明治に入ってから長らく女性の参朝時の制服として定められていたのは「袿袴」(平安時代から宮中で着用されてきた小袿姿を簡略化して動きやすくしたもの)だったが、明治17年(1884年)に宮内卿に就任した伊藤博文は天皇は洋装、皇后は和装というアンバランスな状態に不満で、皇后宮大夫香川敬三を通じて皇后に洋装の説得にあたった。進取の気風に富む皇后は「国ノ為メナレハ何ニテモ可致」と述べていたが、天皇が「ナラヌ」と述べて退け、香川は困却した。これは「男女有別」といった天皇の儒教的・保守的な思想の表れだった。これまでも天皇は宮中を完全に西洋化させることにはしばしば反対を示してきた。たとえば、天皇は、西洋君主のように皇后を自分の隣に並立させることに積極的でなく、皇后には自分の後ろを歩かせ続けたし、玉座において天皇と皇后が同じ高さになることも認めなかった

wikipediaより

「ナラヌ」ですか?!
なんと明治天皇のあの20歳の軍服姿から13年後、やっと皇后の洋装が認められました。このことについて、wikipediaに興味深い文章がありました。

東京大学医学部教授で皇室の侍医をしていたお雇い外国人のエルヴィン・フォン・ベルツもその一人で、彼は伊藤博文に「洋服は日本人の体格を考慮して作られたものではないし、衛生上からも婦人には有害である。なにしろコルセットの問題があり、また文化的・美学的見地からはお話にならない」と進言したが、伊藤は「ベルツさん、あんたは高等政治の要求するところを、何もご存じないのだ。もちろん、あんたの言ったことはすべて正しいのかもしれない。だが、我が国の婦人連が日本服で姿を見せると『人間扱い』されないで、まるで玩具か飾り人形のように見られるんでね」と答えている。坂本一登はこの伊藤の発言に注目し、「一国を象徴する皇后の身体表現は、国内向けにあるべき行為の模範を示すとともに、国際政治とも密接に絡み合っていた。すなわちここには、日本が西洋列強の文化人類学的興味の対象となることを拒否し、対等な文明国として扱われることを主張する、切実で断固とした意思表示が存在しているのである」と論じている

wikipediaより

決してただ欧米文化を真似たのではなく、和服の女性が欧米人に興味本位に見られることから守ったのです。

ティアラは日本製ではなくてドイツの会社制作
ダイヤはショーメ

大礼服

この展覧会に展示されていた修復された大礼服については、NHKなどで特集も組まれ、西陣の職人がフランスで勉強して、オールジャパンで制作したことに感動しました。

実物を見て、「小さい…」。
小柄な中学生ぐらいの印象です。
大礼服は、絢爛豪華な刺繍の西陣織の帯でドレスを作ったような印象で、かなりの重さだと推察しました。重かっただろうな…と思いましたが、よく考えると十二単とまではいかなくても、小袿袴姿にあの結い上げた髪型も結構しんどいし、どっちもどっちかなとも思いました。

大礼服そのものよりも、その背景に興味が湧いた展覧会でした。

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