昭憲皇太后のドレスと明治維新
明治神宮ミュージアムに「受け継がれし明治のドレス~昭憲皇太后の大礼服」という展覧会に行きました。
昭憲皇太后は明治天皇の皇后
明治天皇は皇后に五摂家の一つ、一条家の美子(はるこ)を迎えます。
ちなみに五摂家とは、藤原氏を先祖にもつ五つの家系で、ここから代々摂政・関白を出してきたところです。
明治天皇17歳、美子20歳の結婚。
3つ年上ということはしばらく公にしてなかったらしいです。
昭憲皇太后となるのは亡くなってからの追号なので、この記事の中では「美子(はるこ)」さんと呼ばせていただきます。
江戸時代から明治時代?
ここでふと疑問を持ちました。
「江戸時代が終わって、明治時代になった」って、歴史で習ったけどおかしくない?
明治時代以降は天皇が亡くなると、明治→大正→昭和→平成(退位)→令和でしょ?
江戸時代は幕府が大政奉還して終わったんで、その時の天皇は誰?
幕末の天皇って、孝明天皇じゃなかったっけ?
孝明天皇が死んで、明治天皇で明治時代?
大政奉還はそのとき同時に??? そんなにタイミングよく?
日本史に詳しい方は事の成り行きをご存じと思いますが、私は今回調べて初めてその謎が解けました。
1860年 公武合体で孝明天皇の妹:和宮が14代将軍家茂に嫁ぐ
1863年 家茂上洛、孝明天皇に引見。10歳の睦仁親王(明治天皇)同席
1864年 蛤御門の変
1866年 8月29日 家茂 大阪城にて死亡
12月5日 15代将軍に慶喜
12月25日 孝明天皇 死去
1867年 2月13日 睦仁親王(明治天皇)即位
14歳
11月9日 大政奉還
1868年 正月 本来なら15歳で元服のはずが17歳
まで延びて、ここで儀式を行う予
定だったところ、
1月15日 鳥羽・伏見の戦い→戊辰戦争
2月8日 やっと元服
(6か国の公使の前で)
4月6日 「五箇条の御誓文」
10月 即位の礼 元号:明治
11月 和宮と引見
1869年 2月 一条美子 入内
9月 ビクトリア女王第2王子
エディンバラ公引見
1872年 10月 新橋~横浜 鉄道開通
驚きました。有名な和宮の公武合体からたった12年で鉄道開通。(旧暦と新暦が混ざるので若干の誤差をお許しください)
全部が初めてづくしだった天皇と皇后
生まれて物心ついたときには、すでに世の中がきな臭くなってきていた皇族の二人は、それまでの公家のようなのんびりした生活は当然送れなかった。
明治天皇にとって、政治的には薩長の面々に主導権をとられてきた青年期だったかもしれないけれど、内外に姿を見せた、見せなければならなかった天皇として、フランス式の軍服を採用して外交用の写真としています。
1869年のエディンバラ公の引見は、天皇が外国王族と初めて会ったことになるのですが、このとき、天皇が一段上にいて見下すのではなく、同じ高さの場所で対面したとあります。
こちらも下に見られたくないし、相手も下に見ない姿勢。
同じ王族として礼節を持って対面されたんだと思いました。
洋装の本当の意味
20歳で明治天皇が洋装。だったら、美子皇后も、と思ったら
「ナラヌ」ですか?!
なんと明治天皇のあの20歳の軍服姿から13年後、やっと皇后の洋装が認められました。このことについて、wikipediaに興味深い文章がありました。
決してただ欧米文化を真似たのではなく、和服の女性が欧米人に興味本位に見られることから守ったのです。
大礼服
この展覧会に展示されていた修復された大礼服については、NHKなどで特集も組まれ、西陣の職人がフランスで勉強して、オールジャパンで制作したことに感動しました。
実物を見て、「小さい…」。
小柄な中学生ぐらいの印象です。
大礼服は、絢爛豪華な刺繍の西陣織の帯でドレスを作ったような印象で、かなりの重さだと推察しました。重かっただろうな…と思いましたが、よく考えると十二単とまではいかなくても、小袿袴姿にあの結い上げた髪型も結構しんどいし、どっちもどっちかなとも思いました。
大礼服そのものよりも、その背景に興味が湧いた展覧会でした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?