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龍馬を斬った男たち

「カトリック生活」で連載中の「日本史のクリスチャンたち」で、どんな題材がいいか担当編集者に相談したところ「植松さんの自由でいいですよ。ゴッドファーザーみたいに反社会的な人でもいいし」という。さすがに、そこまで知らないので、つらつら考えた末に、坂本龍馬を斬ったひとりといわれる今井信郎を、今月号で取り上げた。彼は晩年、プロテスタントの洗礼を受けて、敬虔なキリスト教徒になったので。

今井信郎は赤ん坊の頃、とても可愛らしくて、近所の少女たちが争って子守をしたがったという。長じては剣術に抜群の力を発揮し、上背もあったため、役者絵のように錦絵に描かれた。今風にいえば、アイドル級に人気のあるアスリートだろう。

幕府により京都見廻組が組織された時に、その一員に抜擢された。そして見廻組の仲間とともに、坂本龍馬の襲撃に加わった。江戸開城後は北へ転戦していき、箱館戦争まで戦って新政府軍に投降。

その後は、榎本武揚ら箱館戦争の幹部たちと一緒に、江戸城辰ノ口の牢に投獄されたが、ひとりだけ一時的に小伝馬町の牢屋敷に移された。坂本龍馬襲撃の件で取り調べを受けたのだ。その時、自分は見張り役だったと主張し、役目として捕縛に行ったことが認められて釈放された。ただし妻の証言によると、襲撃後に帰宅した信郎は、親指の付け根に深手を負っていたというから、ただの見張り役ではなかっただろう。

それからも紆余曲折を経て、横浜の教会で受洗し、現在の静岡富士山空港近くの山村で帰農した。なかなかの人物だったようで、村長まで努めている。

「カトリック生活」とは別に「新選組友の会」の最新号で、佐々木只三郎の墓所について書いた。見廻組での今井信郎の上司で、龍馬襲撃の陣頭指揮を取ったはずの人物だ。

彼のお墓は当初、和歌山にあったが、龍馬を斬った男として恨みを買い、墓石を倒されるなどのいたずらがあったという。もともと只三郎は会津出身だったので、歴史小説家の早乙女貢氏が「会津に帰りたかろう」と哀れんで、会津武家屋敷の一角に移築した。当時の担当編集者だった高橋千剣破氏が車を出して、ふたりで墓石を運んだという。

この話は早乙女貢氏と高橋千剣破氏の両方から聞いた。会津武家屋敷は歴史ミュージアムで、本来、お墓などがある場所ではないのだが、そういう理由で、きちんと供養されている。

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イラスト/いとうえみ


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