小説『バターソテーは高温で』
注文を終える。
近くの高校の制服があふれた店内で、たまたま空いていた端の席。となりの学生グループは全員勉強に励んでいて、喧騒は膜をはったように遠い。
目があう。それが渚の中でどれだけ意味を持つことなのか、いまだに測りかねている。
「恋華ちゃん、ほんとうにひさしぶり! 声かけてくれてうれしい。……ほら、私」
「ううん、いいの。わかってるから」
繊細な刺繍が入った布の多いワンピース。大学生になっても、渚が着ている洋服は、その生活レベルをずっと遠くに感じさせる。小学生の時も、服からランドセルまで、どれも有名な子供服ブランドのキャラクターがついていた。そういうところが、また、渚を悪く目立たせて。
「えへへ、やっぱりあなたは優しいね! 中学ぶりに会えてうれしいよ。よく私だってわかったね?」
「……んー、なんとなく、かな?」
「すごい!」
「いや、すごくないよ、ほら、私と渚よく……いっしょにいたから。雰囲気とか、そういうのでなんとなく」
「へえ、そういうものなんだ」
渚は、純粋に聞いている。
渚の薄茶色の瞳は、うつしているようで、うつしていない。人間の、顔だけを。
ずっと昔に大人に説明された単語を覚えてはいない。けど、渚はそういうものなんだと、みんな知っていた。
「うれしいなあ、なつかしい」
渚と目があう。そう言うのかは、わからない。
渚が口をひらくたび、心臓が大きくはねる。どうして声をかけてしまったのか。名乗ってしまったのか。
「あなたはずっと、私の味方でいてくれたよね」
どうして、そんなに無邪気に笑えるのか。
転校生の渚が、四年生の間で話題になったのは当然の話だった。かわいくて、肌が白くて、言葉遣いが上品で。口にいれたら甘く、溶けていきそうな女の子。
きれいなお母さんといっしょに教室に入ってきて、自己紹介のあとにはお母さんから挨拶があった。
「渚ちゃんは、生まれつきの性質で、人の顔の見分けがつきません。だけど、みんなと同じふつうの女の子です。みんな、渚ちゃんとお話するときは、お名前を言ってからお話してね」
渚については、担任からも説明があった。学年集会もあった。大人はみんな、渚について説明したがった。
最初は真剣に聞いていたクラスメートたちも次第に飽きて、そのうち決まりだった名乗りもしなくなった。
そして誰かが「渚は贔屓されてる」と言ったとき、はじまった。
消しゴムが汚れていたり、えんぴつが折れていたり。そういう、大人にバレても言い逃れができそうなことから。
誰かが気がついた。渚だけが困ること。渚が、みんなと違うところ。
渚が困るのを、みんなが面白そうに見ていた。きっと渚にとっては無視されるより、嘘をつかれる方が困っただろう。だから、いつもグループ学習で班がわからなくなっていた。
それを見るのが、自分がされているようにつらかった。
私にできたことと言えば、見かけたとき、クラスとイジメをとりしきっていた子に「やめなよ」と声をかけることくらいで。
「渚、またイジメられてたんでしょ?」
たまたま親同士が仲良しだったから、チクられると困ると思ったのか、私の前では行われなくなったけど。
「えっと……ごめん、お名前は?」
「恋華だよ」
「あ、恋華ちゃん! ごめんね、私、いつまでも覚えられなくて」
「いいのいいの、渚は人の顔覚えられないんだから」
そのくらいしかできなくて。後ろから渚の安堵した顔を見ると、罪悪感にかられた。
それが中学を卒業するまでつづいて、だいぶ経ってから、遠くの高校に進学したと聞いた。
どうして、そんなに無邪気に笑えるんだろう。
先に取ってきたオレンジジュースを飲みながら、ドリンクバーで飲み物をえらぶ後ろ姿を見る。
嫌な小中学校の思い出。恋華だって、その一部だったはず。つい、話しかけてしまったけど。ファミレスに入るのを提案したのは渚で。なにを考えているのか、まったくわからない。
イジメられて、それでもがんばって笑顔を浮かべる健気さが、またイジメを苛烈にさせていた。
「お待たせ」
むかいに渚が戻ってくる。ポットと、カップ。
オレンジジュースを置いた。
「紅茶?」
「うん! 伊予柑紅茶だって。茶葉からいれるタイプのドリンクバー、はじめて見たからやってみたくて。すごくいい香りがするよ」
たしかに意識して匂いを嗅ぐと、顔を近づけなくとも紅茶の中に柑橘の香りがする。
渚の笑顔は、やっぱり無邪気だった。
高校生活が小中を忘れさせるほど楽しかったのか、大学生活が充実しているのか。それとも、渚の中で恋華の思い出がとてもいいものなのか。どうしても、わからない。でも、本人に聞く気にはとてもなれなかった。
「ねえ、恋華ちゃんって成人式行く?」
「うん、行く予定。渚は?」
「私まだ悩んでるんだ。たぶん恋華ちゃんと同じ成人式に呼ばれてるんだけど、転校生だったから知ってる子も少ないだろうし……」
華奢な腕時計を確認して、渚がカップに紅茶をそそぐ。
「そうだ、覚えてたら教えてほしいんだけど。誰だっけ? 恋華ちゃんの後ろにいつもいた女の子」
「え」
「覚えてないかな? 恋華ちゃん、いつも後ろに女の子がいたよね。幼なじみかなにかの」
恋華と名乗って、やっぱり一瞬反応が遅れてから、ひさしぶりだね、と言われた。
ろくにおぼえてないだろう、私の顔も知らないのだから。ましてや交友関係なんて。そう、思っていたのに。
「……愛でしょ」
「そう愛ちゃん! 恋華ちゃんとよくいっしょにいたよね! 私あんまり話したことないんだけどどんな子だった?」
伊予柑紅茶のカップを両手でつつむ渚。
なんで、その話題なんだろう。目が泳がないように渚の座る白いソファを見つめることにする。渚にはわからないのに。
「……愛は、ただの幼なじみだよ。うん、家が近くて、親同士が仲良かっただけ。小学生のいっしょにいる子なんて、だいたいそうでしょ? 愛は暗くて、ぜんぜん喋らなくて……誰かといないとなにもできないからずっと後ろにいた。名前は愛ってかわいいけどぜんぜんかわいい子じゃない。見た目も中身も。なんにもできない」
「もしかして恋華ちゃんは愛ちゃんのこと嫌いだったの?」
ソーサーとカップの触れ合う音。
渚は紅茶を一口飲んだ。
「……うん、そうだね」
「そっか、じゃあ恋華ちゃんは嫌いな子とも仲良くできたんだね。うん、そうだろうな」
ソファから視線を戻す。渚は無表情だった。
「じゃあ私のことよくイジメてた子の名前覚えてる?」
「えっ……」
「恋華ちゃんの双子の妹だよ。いつも同じお洋服着てたでしょ?」
ずっと、笑顔だったのに。
渚がゆっくりとカップを戻す。
無邪気な笑顔は理解ができなかった。
でも、急に無表情になられると、それも理解ができない。なにもなかったみたいに笑える渚のことも、渚のことになると残酷になるクラスメートたちのことも、なにもわからない。わからなくて、こわい。
いいこと思いついたんだ、と話しだしたあのときのこと。言おうかどうか迷って、結局あの名前を口にする。
「はな、でしょ……」
「そう、はなちゃん! はなちゃん、恋華ちゃんと同じ格好だから、いつも二人は見分けがつかなかったんだ。私、人の顔がわからないでしょう? よく、うわばきやランドセルで見分けてたんだけど、二人はぜんぶ、同じだったから」
こわい。
「……ねえ、渚。それが、どうしたの?」
「なにが?」
「いや……急に愛やはなの話をしだすから……」
「あ、嫌だったかな? ごめんね、ひさしぶりだから、なつかしい話しか思いつかなくて」
「いや、いいんだけど、」
「ほんと? じゃあこのお話も聞いて!」
渚が机に乗りだす。
オレンジジュースが波立った。
白い肌を頬だけ赤くさせて、かわいい顔が、無邪気に笑っている。
「恋華ちゃんとはなちゃんの違いはね、後ろに愛ちゃんがいるかどうかだったんだ」
「えっ……」
「二人はぜんぶ同じだったから、見分けがつかないって言ったでしょ? でもね、愛ちゃんだけは恋華ちゃんとしかいっしょにいないから、愛ちゃんがいればこの子は恋華ちゃんだって安心できたんだよ。ふふふ、愛ちゃんってね、うわばきの色がみんなと違ったからすぐわかったんだ」
ゴムが緑のうわばきは、愛ちゃんしかいなかったんだよ。そう言われて、たしかに、思い出す。身長はそうでもないのに、足だけ大きくて。高学年くらいのときから、中学生の姉のお古を履いていた。学年カラーの緑色のを。
「だから、恋華ちゃんが愛ちゃんのことを嫌いでも、私は愛ちゃんに感謝してるよ」
「……そっか」
「ねえ、それでね」
オレンジジュースを口に含むのを見て、渚は一度言葉を切った。
さっきより少し早口な声を止めるつもりはなかったけれど、冷たいものでも飲まないと、変なことを口走ってしまいそうで。
渚は笑顔のまま、眺めている。昔は、私が眺める方だったのに。
三分の一になったオレンジジュースをテーブルに置く。遠くのテーブルで急にあがった笑い声に応じるように、渚は口をひらいた。
「はなちゃんっていないんでしょ?」
「……え?」
また、静かになる。
「私ね、こういう体質だから毎年先生に学年全クラスの名簿表をもらってたの。となりのクラスだって言ってたけど、小学校にも中学校にもいなかったよ、はなちゃんって子」
小学校にも中学校にもはなちゃんって名乗る子がいたのにね。
渚のまぶたの隙間、薄い瞳に覗かれている。
「私のこれはね、ただしくは相貌失認って言うの。相貌失認って言ってもいろいろタイプがあって、他の人はどうかわからないけれど、私はね、顔はわからなくても声は聞きわけられるの」
「え、そんな、」
「びっくりした? わざわざ言わないよ、みんなが勝手に、私はあれもこれもできないって決めつけてただけ」
渚は笑っている。
「恋華ちゃんが話しかけてくるとき、よく「やめなよ」って声がした。これ、愛ちゃんの声だよね。愛ちゃんが止めるからイジメてこなかっただけで、愛ちゃんがいないときは私のこと、イジメてたんだよね? はなちゃんって名乗って」
渚が大きく瞳をひらいた。
「はなちゃんって、恋華ちゃんなんでしょ?」
身体がかたまって、動けない。
誰も、渚が気づいてるなんて思ってなかった。渚をイジメるはなと、イジメられるたび慰めてくれる恋華が同一人物だなんて。誰も、渚が気づいてて、恋華に笑いかけてるとは思えなかった。
認めるのは簡単で、うなずくのはもっと簡単。
それでも、渚が気づいていたことが信じられなくて。
「それで、恋華ちゃんは今日、なにをしにきたの?」
「なにって……」
「別の名前でイジメてた私を自分の名前で慰めて、おもしろかった? 今日はたまたま私を見かけたからひさしぶりにまたやってみようと思った? 再会に喜ぶ私、おもしろかった? それとも、謝ろうとか思ったのかな?」
無邪気な笑顔。
その可憐さからは、想像できない言葉が発される。可愛らしい小さな口から、歌うように。
やっぱり、声をかけるんじゃなかった。
たとえ、高校生活が小中を忘れさせるほど楽しかったとしても、大学生活が充実しているとしても。渚の中で、恋華の思い出は沈殿しているのだ。それを、私はかき混ぜて、浮きあがらせた。
恋華と名乗れば、傷つけないと思った。
それが、間違い。最初から素直にしていればよかったのに。
「ふふふ、冗談だよ。ひさしぶりに会えて、うれしすぎたのかも」
「は……?」
「いや、きっと会ってたんだよね、たぶん。ずっと前に、学科の掲示板に学生証の落とし物であなたの名前が書いてあるの見たよ」
「お待たせいたしました、ほうれん草とベーコンのバターソテーでございます」
「あ、私です。そっちは彼女に」
渚の前にはほうれん草とベーコンのバターソテー、私の前にはシーフードアヒージョが置かれた。伝票を残して、店員は去っていく。
渚はバターソテーの香りを嗅いでから、取り出したフォークで一口食べた。
「私、言ったよね。聞きわけられるって。すごいがんばってね、高校の途中くらいからは話しかけてくる声を完全に聞き分けられるようになって、人を間違えなくなったんだよ」
渚が一口、また一口食べすすめていく。
シーフードアヒージョは、来たときのまま、湯気だけが減っている。
「ああ、まだ帰らないで。私、こんなに話せると思わなくて、ほんとうにうれしいの」
フォークを持ってない方の手で、まだ残っているオレンジジュースを示された。思わず鞄にそえていた手を、そこに戻せと言うように。バターソテーは、半分も残っていない。
「味方面してた恋華ちゃんや先生さえ、いつかみんなと同じようになれるとか、治るとか、できるようになるとか、私に言ってきた。私のこれは生まれつきの、変わらないものなのに。それを理解して、そんなこと言わないでいたの、あなただけだったから。今日だって、聞く前に名乗ってくれた。さすがに、恋華ちゃんだって名乗られたときはびっくりしたけど」
私が恋華ちゃんと仲良しだって、本気で思ってたのかな? あなた、いたずらでこんなことしないもんね。
そう言いながら、渚は、口元をペーパーナプキンで拭う。
「ね、まだたくさん話そうよ。私、あなたとちゃんと話してみたかったんだ、愛ちゃん」
きれいに拭われた口元は、無邪気な笑顔を浮かべている。
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