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どうして小説を読むか

皆さんは小説を読みますか?

わたしは過去の投稿で、現代小説を批判しました。
といっても、その全てではありません。素晴らしい作家も数多くいらっしゃる中で、どうしても目につくようなヒドイのもあるというわけです。

ヒドイといっても、実はいろいろあります。プロの作家が書いているわけですから、基本は全てしっかりしていると思います。ただし、ベストセラー作家や、アニメ化してヒットするような漫画などと比べると、そこには一口に「通俗的エンタメ」といってもクオリティに雲泥の差があります。

過去の投稿で、小説は文学という形式と地続きなため、通俗性から逃れていく性質があると言ったことがあります。

しかし、通俗性から離れれば、すべて文学になるかというと、そういうわけでもありません。むしろ「売れ筋」に反逆していくことで、とんでもない魔物が出来あがったりもしますし、

むしろ大衆的なドラマの中に、きらりと光る文学的なものがあったりします。たとえば黒澤監督の映画は、ほとんどが大衆的なエンタメ作品ですが、どれもこれも芸術的というか、文学精神に資するものばかりでした。

文学というのは、目的性ではないし、志向性だとは思っておりません。
むしろわたしは、作者の「世界への向き合い方」によるものだと思います。

モーツァルトの音楽は大衆向けに作られたものばかりで『魔笛』なども、大衆を面白がらせる内容に富んでいますが、どうしてあれほどまでに素晴らしく、人を感動させるのでしょうか。
それは、モーツァルトがいったい何を考えて作品を書いていたかによります。

あれほどまでに宗教的と呼ばれたバッハですが、実は宗教音楽をやろうという明確な目的性があったというより、ただ彼は日ごろの生活から、キリスト教の神に祈りをささげ、節度ある暮らしをしていたので、どんな曲を書くときにも「神」というモチーフが入って来ていたのです。
目的はただ、音楽という可能性を模索するということにすぎません。

話を戻しまして。
わたしが今回取りあげたいのは、こういう小説です。

高村薫といえば、社会派サスペンスの書き手です。
文章はお上手で、社会的な問題を軸にした「読者に考えさせる面白さ」がウリだと思います。

基本的には面白いです。社会的なテーマ、謎の生まれる事件、犯人たちの心理。

でもわたしは、こういったことはテレビドラマでやればいいのでは?
という気がしてなりませんでした。

そもそも小説というのは、読むのが大変です。文字を追うのは疲れるし、シーンを想像するのも頭を使う。
読書というのは、基本的には意識の大半を使って行う行為です。ながら読みというのは、ちょっと難しい。人と会話しながらは無理だし、携帯をいじりながらでも無理。

何を言いたいのかというと、どうせ小説を読むなら、小説でしか表現できないものを書くべきではないかということです。

つまり…

この小説は全て、テレビドラマの脚本として代替可能であると言いたいんです。
そうすると「小説でしか表現できないことって何だ?」となると思います。

一つは、「思考の深み」であると思います。
映像では「思考」を表現することはできません。モノローグを入れることはできるでしょう。しかし、映像作品のモノローグは基本、ストーリーを動かすものでなくてはなりません。
そしてそれは「享楽的な面白さ」がなければならないのです。
夏目漱石の『門』の長ったらしい独白(ああでもない、こうでもない…)を映像作品でやったら、見ている人はすぐにチャンネルを変えると思います。わたしは吐くと思う。

二つは、「語り」です。
これは「文体」とか「リズム」「文彩」といってもいい。文章を味わうことです。
たとえば極端な例になりますが、

古池や 蛙飛びこむ 水の音

という松尾芭蕉の俳句があります。

これは小学校でも習う俳句ですが、これをもし映像作品でやったら、単なるお茶のCMだと思うでしょう。まったく独自性がない。
これは読んで、声に出して、そして想像する。
という三つの段階を踏むことで、独特の味わいが生まれてくるのです。

人間はこのように「読む」プロセスにおいて、文章を味わうことができ、それが小説・詩の醍醐味だということができます。

ほかにも小説のいい点はあるのですが、主に上記二つの点が、小説にしかない独自なものであると言えるでしょう。

で、これはわたしも言われたことがあるのですが、

小説を読んでいる際、まるで映像が流れているように読者に思わせることが、ひとつの「上手さ」だと。
実際、今ながら思うのですが、こういうのは「小説の速さ」というべきものであって、必須条件ではないのですが、ひとつの大切な技術であると思います。

もし何らかの物語を読んでもらいたくって、それは思考の流れを書いた「思考的な内容」でなくて、オーソドックスな「フィクション=物語」であるならば、実際そうでなかったら困るのです。

皆さんは小説を読んだ際(それは古典文学作品でもいいですが)、けったいな、重苦しい小説やな……と感じたことはありませんか?

それは小説のスピードが遅いのです。遅いから悪いというわけではありません。遅いなら遅いなりに、何かがあるはずです。しかしその「何か」が読者にとって魅力でなかったり、あるいは意味不明だったりすることがあります。

しかし、わたしはちょっと脱線しすぎたような気がします。
もう少し具体的な話に戻しましょう。

先ほどの「冷血」という作品ですが、文章が上手とは言いましたが、それはどちらかといえば「読むのにつっかえない」といった意味で、先ほどの「語り」の味わいに繋がるほどではありません。

小説がスムーズであるというのは、書き方がスムーズであることも大切ですが、内容を細かく精査することも必要です。

たとえば、文章が非常にかんたんで、難しい表現を一切使わずとも、読んでいて「スムーズさ」を感じないことがあります。

それが「内容がくどい」時です。
朝起きて、顔を洗って、犬に餌をやって、服を着替えて、お湯をわかして、コーヒー豆を挽いて、ドリッパーに入れて、その間にパンを焼いて、洗濯機を回して……などなど。

今日はいい天気になるといいな、るんるんっ! とかも同様です。
こういうのは書かなくてもいい。「カーテンを開けると、抜けるような青空だった。わたしは朝の支度をしてコーヒーを一杯飲んだ」こう言えばいい。

もし上記のような朝の支度の連続した一幕を「どうしても」描きたかったら、それは映像作品のほうが向いているのです。

わたしの言いたいことが、ようやく言えました。
映像作品で表現できることなら、実際小説は、まったく必要ないと思うのです。それはただコストが低かったり、作家一人で書けるというような経済的な問題のみに終始します。

しかしこう言うと、映画ファンの方々には怒られるかもしれません。

メルヴィル『影の軍隊』

映画においては、映画でしか表現できないものがあります。
単純に「ストーリーを伝える」ものではないのです。一つ一つのカットには、映画独自の表現が組み込まれています。

もしストーリーを伝える、ただそれだけに終始していたとしたら、それは単なる駄作か、よくて消費されるだけの通俗的作品でしょう。

同じことが小説にも言えるとしたら、あとは結局同じことです。
ロラン・バルトが「小説的なものと、小説は同じではない」ということを言っていましたが、まさしくそうです。
小説でしか表現できないものがあります。それがない小説作品は、じゃあ小説じゃなくてよくね? となるわけです。
単純にストーリーを伝えるということしか目的としていない映像作品のほうが、まだマシです。小説は読むのがつかれますから。

わたしは「小説を映像作品のように読ませる」という「小説の速さ論」にも一言いいたくて。
それは根幹技術の一つですが、それをクリアすればいい作品ができるというわけではないと思います。
まさしく上記のように、小説じゃなくていいやんけ、ってなるわけだから。

だから「なぜ小説を読むのか」ということを考えなければいけないのかな、と思います。

単純に「読みやすい」というのが、いったいどういう意味を持っているのか、考えるべきです。
「読むのが楽」じゃ意味がなくて。
「読んでいて楽しい」でなくてはならないのかなと。

そういうことで、現代小説にはまだまだ「読むのは楽だけど、ただそれだけじゃね」という作品が結構あって、「文章」というものが伝えられる価値を、もっと模索した作品があってしかるべきだと思います。

形だけ難解にして、中身が漫画でも伝えられるような内容、というのも同様です。もっと中身を精査しなくてはいけません。

お話のプロでありながら、絵のプロでもある漫画家のように、小説家も物語と文章のプロであってほしいものです。

本を読まない方が多い中、小説はクオリティが高くあってほしいと思います。「作家性」などといったものを盾にしないで。

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