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古代の日本は「豊葦原水穂国」と称する

特別史跡 三内丸山遺跡


約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡。日本最大級を誇る遺跡。発掘調査により竪穴住居跡や墓、貯蔵穴などが見つかり、当時の生活や自然環境などの解明が進められています。また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶のほか、ヒョウタンやゴボウなどの栽培植物も出土。DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見もあり縄文文化のイメージを大きく変えたといわれる遺跡。

その後に地方豪族が生まれ政治形態ができ始めた。

ヤマト王権は、古墳時代に「王(きみ)」・「大王(おおきみ)」などと呼称された倭国の首長を中心として、いくつかの有力豪族が連合して成立した政治権力、政治組織。2世紀末〜3世紀にかけて大阪平野〜大和盆地の勢力、吉備をはじめとする瀬戸内や四国、出雲や丹後、但馬などの山陰、あるいは北九州を含む西日本や近江をはじめとする東海など地域を超えた勢力が連合して大和盆地東南部、三輪山麓の纒向遺跡に成立し3世紀後半までには南東北から南九州まで日本列島の広範囲に影響を及ぼしており前方後円墳体制とも呼ばれる。この時点では緩やかな政治連合を形成していたと考えられている。

旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、戦後、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語などが用いられはじめた。
本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について解説する。

呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王/天皇を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。

ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。

国のカタチができはじるめると、権力支配者と、そこに仕える多くの従者がそれを支えるようになる。

それが舎人である。

舎人(とねり)とは天皇や貴人に近侍して仕えることを職分とする官である。ヤマト王権時代には既に存在した。律令時代には皇室や朝廷に仕えるトネリは「舎人」、親王と内親王に与えられるトネリは「帳内」、五位以上の大夫(貴族)に与えられるトネリは「資人」と書き、表記で区別したが読みはすべてトネリである(親王が五位以上の官位をもっている場合には帳内と資人の両方を与えられた)。帳内と資人はそれぞれの家政機関で主人に仕えた。

天武天皇の673年(白鳳2年)に大舎人寮に仕官希望者を配属させる制度を定めて本格的整備が始まる。律令制の成立後、公的な舎人制度として内舎人(定員90人)・大舎人(同左右各800人、計1600人)・東宮舎人(同600人、うち30人が帯刀舎人)・中宮舎人(同400人)などが設置された。原則的に三位以上の公卿の子弟は21歳になると内舎人として出仕し、同様に五位以上の貴族の子弟は中務省での選考の上、容姿・能力ともに優れた者は内舎人となり、それ以外は大舎人・東宮舎人・中宮舎人となった。大舎人・東宮舎人・中宮舎人の不足分は六位以下の位子からも補われた。この他に兵衛なども舎人と同じような性格を有した他、令外官的な舎人も存在した。

舎人の職務そのものは宿直や護衛、その他の雑用などであったが、その中において官人として必要な知識や天皇への忠誠心などを学んだ。律令制の任官制度では、舎人に任じられた者は一定期間の後に選考が行われて官人として登用されることになっており、支配階層の再生産装置として機能した。また、地方出身者は帰国後に在庁官人や郡司に任じられた。朝廷にとって、国内支配階層の各層から舎人を集めることは、その影響力を各方面に及ぼす上で有利に働いた。

こうした律令の支配が地方へも及んだことは、出雲国風土記で出雲国意宇郡に舎人郷(現:島根県安来市)の地名が見られることからも類推される。だが、平安時代に入ると、舎人の志望者が減少して、本来舎人になれない外位や白丁の子弟からも不足分を補うようになった。また、舎人の身分を悪用して違法行為を行うものも現れ、制度そのものの衰退につながり、「舎人」は使われなくなっていったと考えられる。

二世紀末〜三世紀古代日本、の有効国土面積

ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。

という見方からして、日本歴史が奈良盆地などの近畿地方中央部から始まっていることがわかる。
としても、冒頭しめした北の青森「三内丸山遺跡群」で判るように、それよりもっと古い文明が存在していたことは、その遺跡で知ることができる。

歴史というのは常に「勝者」によって語り継がれたものの記録であることは疑いの余地はない。

そしてさらに古い世界の歴史を覗くと、そこには民族紛争の絶え間ない「戦争」歴史が記録されていた。


Twitter舎人1231





編集構成#つしま昇


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