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世界初 クロマグロの完全養殖

日本の魚 世界初!クロマグロ完全養殖への軌跡 (仮訳)TOMOKO NAGATA 世界的に水産資源の枯渇問題が重要視されるなか、日本食に欠かせないマグロの完全養殖を実現させた近畿大学水産研究所にプロジェクト実現までの長き道のりを聞いた。 画像 トモコナガタ

トモコ ナガタ


畿大学水産研究所本部(白浜実験所)は、和歌山県白浜町の風光明媚な入江にある。開設は1948年。「戦後食糧がない時代、初代総長の世耕弘一が海を畑ととらえ『海を耕せ!』という理念を掲げ、養殖研究が始まりました。当時は必要に迫られて始めたことでしたが、非常に先見性のある舵取りでした」。近畿大学水産研究所長・特任、宮下盛博士は語る。

日本における養殖は1928年、香川県で野網和三郎氏がハマチで初の成功を納めたが、入江全体を利用する築堤式であったため全国には普及しなかった。1954年、近畿大学水産研究所に赴任した2代目所長・原田輝雄氏が、小割式網生簀養殖法を開発し、すぐにブリ養殖、さらにマダイ養殖へと着手した。完全養殖から品種改良、稚魚の販売を実現し、研究の成果とともに利益を納めた。

クロマグロの養殖研究は1970年、水産庁の3年プロジェクトとして、近畿大学の他、複数の大学や公的研究機関が参加しスタートした。しかし、幼魚ヨコワが数ヶ月で全滅するなどプロジェクトは難航し、予算と期限切れで他の研究機関は撤退せざるをえなかった。開設から独立採算制で運営してきた近畿大学水産研究所だけが研究を続行できた。自ら予算を捻出する体力があったとともに、2代目原田氏から受継がれた「天然資源維持のため、養殖用原魚は人工産稚魚を」という理念が、研究継続の原動力であったと宮下教授は語る。

とはいえ、クロマグロは最大級の回遊魚、ブリやマダイと同じようにはいかない。稚魚の多くが死滅、成長の過程で共食い、また水槽の壁に激突死もする。肌が極端に弱く、触ったり網にかかったりしても死んでしまう。

研究は困難の連続であった。産卵のない年が11年にも及び、さすがに継続を危ぶむ声も出てきた1994年、産卵に最適な水温環境となってマグロがふたたび産卵した。その後2002年、世界で初めて完全養殖(人工ふ化させて育成した親魚から卵を採り、再び人工ふ化させるサイクル)に成功した。研究開始から、32年の月日が流れていた。

卵から親魚まで育つ生存率は0.0016%から現在1%にまで達している。数字を見ると少なく感じるが、「仮に天然に置き換えると、海はマグロだらけになってしまう」と教授は言う。このクロマグロは「近大マグロ」と名付けられ、現在は産業化への道を模索している。

まずは、よき親魚を安定して育成するのが第一だ。またエサの開発も大きな課題である。マグロのエサを天然魚に頼っていては、生産も安定しない。植物性の原料を活用し、無魚粉の飼料の開発を急ピッチで進めている。

近畿大学の水産技術は世界から注目され、マレーシアなどの大学との学術交流の他、過去にはカナダやオーストラリアなどへ技術者を派遣したこともある。日本食ブームもあり、将来的には海外への輸出も検討している。技術提携している企業と併せて、2020年には生産量を現在の年80トンから約3倍の240トン(約6000匹)に増やす計画だ。

養殖魚の魅力や水産技術の高さを伝え、漁業の活性化を図ることは、海外だけでなく国内向けにも必要な施策である。国内では日本人の食の多様化から、魚食が低下している。養殖魚は美味しくないというイメージも根強い。

そんな中、近畿大学水産研究所自らが、大阪梅田と東京銀座に養殖魚専門料理店を出店し、ともに行列ができるほど人気を博している。2015年6月、一般のスーパーマーケットでも大手水産会社の完全養殖マグロの販売が始まったところだ。

宮下教授は「全国的に魚の価格が落ち、漁業は停滞しているが、悲観していません。水産資源の枯渇問題に直面している今こそ、養殖魚は必要不可欠です。今まで一緒に歩んで来た養殖業の仲間とともに、発展を目指したい」と語った。


高等教育の明日 われら大学人
教育学術新聞

<3>近大マグロ 世界の海を泳ぐ!? 海なし県に育つ 「夢は必ず実現できる」 クロマグロ完全養殖で安定供給をねらう 熊井英水さん(74)

 資源の枯渇が危惧されるクロマグロ。海のない県に生れた人間が、このクロマグロの完全養殖を成し遂げたのは快挙であり、痛快なことだった。近畿大学水産研究所(和歌山県白浜町)前所長で、近畿大学大学院農学研究科教授の熊井英水さん。
 いま、卵から成魚に育て国内で消費されるクロマグロを完全養殖で賄おう、というロマン溢れる夢と格闘中だ。大学教授というと、とっつきにくい雰囲気があるが、この人は気さくで、クロマグロ完全養殖の難しさ、数々の失敗、成功の歓喜をあけっぴろげに話した。少年時代の夢、ひょんなことから近畿大学に来たこと、研究と実践に費やした試行錯誤の30有余年。夢を追うことが少なくなった世の中、クロマグロ完全養殖に半生を賭けてきた「夢追い人」の熊井さん。この人の歩みには、社会が、そして大学が失いかけている何かがきっとあるはずだ。

 山々に囲まれた長野県塩尻市生まれ。「塩尻と松本の間の片丘村というところです。初めて海を見たのは、中学3年の修学旅行で京都・奈良に行ったとき、車窓から見た伊勢湾でした」

 高校は地元の名門、松本深志高校へ進む。「高校では生物部に入り、ミジンコの研究をしました。高校2年のとき、三重県・鳥羽に行き、初めて海水に触れ、舐めて『しょっぱいな』と感じた」。海にあこがれる、生物好きの少年だった。

 大学進学をめぐって父親と反目。「親父は、大学にはやれないと食いっぱぐれのない国鉄を勧めたが、自分は好きなことがしたかった。東京の大学でなく金のかからない地方の大学に行くからと説得、一回だけ受けてよい、となった」

 人の運命はわからない。「生物の顧問の先生が広島高師(現広島大学)出身で、広島大の水畜産学部(現生物生産学部)は新しくできた学部だから、お前でも受かる、といわれ受験、運よく合格しました」。大学でもプランクトンの研究を行う。

 1958年に卒業したが就職難の時代。「三重県庁に合格したけど、『空きがない』と採用されず。履歴書を預けた学部長が新しく開設する近大農学部水産学科職員の就職口を見つけてくれて、運よく採用されました」

 ここで、運命の出会いをする。先代の近大水産研究所所長で、恩師となる原田輝雄さん。「魚を先生にせよ、が口癖で観察眼を学びました」。まずハマチの養殖に成功。「ヒラメ、イシダイと次々に養殖に成功。学会で発表したが、『あんなもん、学問ではない』と総スカンでした」

 異端扱いに対し見返してやろう、という反骨心がもたげた。マグロの養殖は研究者にとって夢だった。体長3メートルにも達する魚体が大回遊するクロマグロの養殖はさまざまな問題があった。近しい漁師から「絶対に無理だ」といわれた。

 1970年、水産庁の遠洋水産研究所が「マグロ類養殖技術開発企業化試験」という研究会をスタートさせた。この研究会に近大水産研究所も参加、近大のクロマグロ研究の嚆矢となった。

 クロマグロの幼魚「ヨコワ」を飼い付ける研究から始めた。なぜ、「ヨコワ」と呼ぶのですか?「幼魚のマグロは断面をみると丸いんです。小さいときは体側に縞(しま)があるんです。それが、ちょうど横の輪が並んでいるように見えるので、ヨコワというんです」

 「ヨコワはデリケートで少しでも傷つくと死んでしまう。いけすで育てたんですが、光や音に敏感に反応してパニックを起こしたり、いけすの網に激突したり…。どうすれば死なないか、毎日そればかり考えていた」

 1974年、ヨコワの飼い付けに成功、5年経過した79年に世界で初めていけす中で飼育したクロマグロの産卵に成功。「卵は直径1ミリ、これを育てるのがまた大変でした」。孵化後47日目に全滅した。

 完全養殖の道は険しかった。いけすや餌などに改良を加える。「いけすの広さを倍以上にし、成長に応じて餌をプランクトンからイワシの稚魚、サバなどに変え、光に慣らさせるため夜間照明を設けるなどして問題点を克服していきました」

 83年から11年間、産卵のない年が続いた。「暗黒の時代でした」。91年、原田所長が急逝、熊井さんが所長に。なぜ、産卵が止まったのか。「いけすのあるところは、海流が複雑で一日の中で水温が乱高下するのが原因らしい」とわかった。

 熊井さんは、あきらめない。95、96年と産卵があった。この95年産が6尾、96年産が14尾の計20尾が生残し、2002年、これら6~7才魚が産卵。「6月23日のことでした」、その日を忘れていない。

 「完全養殖」の成功、世界初の快挙、32年がかりだった。「前年(2001年)秋の台風で、いけすに濁水が押し寄せ、あわや全滅かと身の細る思いをしました」

 完全養殖成功の気持ちを改めて聞いた。「私学の有難さ、近畿大学のよさを身を持って知りました」。感慨深げに語る。

 「初代総長の世耕弘一先生は、成果がでなくても研究予算を削らなかった。11年間も産卵がないとき、研究を止めようと思いましたが、『続けなさい』といってくれたのは2代総長の世耕政隆先生でした。国立大学だったら、研究期間は予算で打ち切られていた」

 03年、養殖魚の販売を行う「アーマリン近大」を設立、熊井さんは代表取締役になった。完全養殖に成功して成魚になったクロマグロを出荷したのは04年だった。地元の串本町で試食会を行い、大阪の百貨店に出荷した。

 「試食会の評判は上々でした。クロマグロを解体したんですが、赤味が10%、中トロが60%、大トロが30%。近大マグロは天然よりトロが多く、しかも安い、と好評でほっとしました」

 国内で供給されるクロマグロは年間4万3000トン、そのうち約4分の1を養殖物が占める。養殖物はヨコワを捕獲し、いけすで育てる。近大は、09年度、国内の養殖向けヨコワの出荷量の1割に相当する約4万匹を人工的に生産した。

 熊井さんが夢を語る。「これを10割にしたい。クロマグロの養殖生産を天然資源に頼らず、その全過程を人工的に生産する。うちだけではできないが、同系の研究所と一緒にやれば必ず実現する」

 夢は果てしない。「将来は、放流にも挑戦したい。海に放流して育ったマグロを捕獲することができれば、資源を確保しながら漁業ができる。もちろん、国内の供給量も確保できる。世界中の海を近大マグロが泳ぐ姿が見られる日も夢ではない」

 「海は諏訪湖の何倍あるのかな」と諏訪湖を見て育った少年は、半世紀経ったいま、世界の海をキャンバスに夢を描く。熊井さんが若者に呼びかける声が聞こえてきそうだ。
「夢はいつか、きっとつかめる。ボーイズビーアンビシャス」


略歴 熊井英水 くまい・ひでみ 1935年、長野県塩尻市生まれ。日本の水産学者、近畿大学大学院農学研究科教授。
1958年、広島大学水畜産学部を卒業し、近畿大学白浜臨海研究所(現・水産研究所)副手となる。以来、約半世紀にわたり、一貫して魚類の養殖にたずさわる。1983年、同大教授。1991年には同所長に就任。2002年には、研究チームのリーダーとして、難しいと思われていたクロマグロの完全養殖を成功に導いた。
長野県塩尻市出身。長野県松本深志高等学校を経て、1958年、広島大学水畜産学部を卒業し、近畿大学白浜臨海研究所(現・水産研究所)副手となる。以来、約半世紀にわたり、一貫して魚類の養殖にたずさわる。数々の海産魚の完全養殖に成功したほか、交雑魚の研究でも成果をあげた。1983年同農学部教授。1991年から2008年まで同水産研究所所長。

2002年には、研究チームのリーダーとして、難しいと思われていたクロマグロの完全養殖を成功に導いた。世界初の成果である。この研究は、1970年にスタートしたが、様々な困難が伴っていた。1991年には、研究チームのリーダーであった原田輝雄前所長が急逝するという危機をむかえるが、その後は熊井英水がチームのリーダーとなり研究が継続された。
成功にいたる経緯は、NHKのプロジェクトX~挑戦者たち~に取り上げられている。

2003年には、近畿大学水産研究所が申請した「クロマグロ等の魚類養殖産業支援型研究拠点」がCOE拠点として採択され、その拠点リーダをつとめる。また、2003年、養殖魚の販売を行う「アーマリン近大」を設立。2006年まで代表取締役をつとめた。日本水産増殖学会の会長もつとめた。


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