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【書評】読んでいない本について堂々と語る方法(ピエール・バイヤール著 ちくま学芸文庫)

 11代伝蔵書評100本勝負27本目
 挑発的な題名に惹かれて本書を手にしました。どんな内容かと思い、取り急ぎ目次を確認するとさらに過激な見出しが並びます。特にⅢ「心がまえ」の小見出しを書き写すと「1気後れしない」「2自分の考えを押しつける」「3 本をでっち上げる」「4自分自身について語る」ですから。もしかしたら何かの比喩かと思い、確認するためにも読んでみることにしました。
 本書は3部構成になっていて、まずは「本を読む、読んだ、或いは読んでいない」の意味を定義します。「そんなの定義するまでもなく、読んだか、読んでないかの二者択一だろう⁈」と思いがちです(少なくとも僕の場合は)がそれほど単純な話ではなくて、例えば、読んだのことは覚えているけど、内容を全く忘れた本はどこにカテゴライズされるべきかは簡単に答えにくい問題です。そこでバイヤールはその本をどんな読み方をしたのか、そして評価を記していきます。まず読み方ですが、未=読んでいない、「流」=流し読み、「聞」=人から聞いた、忘=読んだけど忘れたなどに分類します。驚くべきことにバイヤールは本書で取り上げた本を一冊も僕たちが普通に考えるようには(通読)読んでいないのです。どうもバイヤールにとって「読む」とは「流」であって今後は通読するつもりはないようです。それは彼が通読することには多くの弊害があると考えているからです。まずは膨大な本が出版されて続けている現状では全ての本を読むことはできません。確かにこの本は読めてもあの本は読めないのです。バイヤールは「読むことは読まないことと表裏一体だ」と言います。僕のように「本は読むべきだし、読み始めたら通読すべきだ」という脅迫観念の強い人間にとっては示唆に富む指摘でしょう。さらにバイヤールは続けて「流」或いは「聞」そして「読まないこと」で通読することの弊害、つまり本の細部に影響を受け過ぎることで自分の考えをなくしてしまうことから救うと主張します。自説を補強するため、バイヤールはムージルの「特性のない男」を取り上げます(ちなみに僕はムージルを知りませんでした)。登場人物の1人である「本を一冊も読んでいない図書館司書」を紹介します。その司書はその図書館にある万巻の本に通じていながら書名と目次以外は一冊も読んでいない設定です。そしてこの人物こそバイヤールの読書観に通じる人物です。バイヤールはある本を全体の中で位置付ける重要性を説きます。例えば彼は自分自身のこととしてジョイスの代表作である「ユリシリーズを取り上げ「読んだことはないし、これからも読むつもりはない」と言います。それでもバイヤールはこの本の位置付けをよく知っているというのです。すぐには全て賛同できませんがもし本当にこの本の位置づけ、すなわち「ユリシリーズ」のあらすじやその特徴、そしてこの作品が代表作と評される意味、その後の文学全体に与えた影響などをきちんと説明できるならもはや、読む必要はないかもしれないし、バイヤールがこの本を読んでいないとは言えないかもしれない(どっちやねん)と考えるようになりました。ある本を全体の中で位置付けることをバイヤールは「共有図書館」と名づけ、まずはこの効用を主張します。次に主張されるのが「内なる図書館」です。「内なる図書館」とは「私が本書で導入する3つの図書館の内の〈共有図書館〉に続く2つ目のもので個々の読書全体に影響及ぼした書物からなる〈共有図書館〉の主観的部分である」ということだそうです。よくわかりませんね(笑)。僕の理解は、それぞれ各人の「共有図書館」に蓄積された本のうち、自分の読み方、評価(つまり主観)ということだと理解しました。バイヤールの論説に助けられながらもう少し説明すると例えばある本について友人と話しているとします。1人は「あれはとっても面白い本だった」とします。普通は話はそれで終わるでしょうが、時に意見の相違は深刻な対立を生み、もしかしたら友人関係を壊しかねません。バイヤールは「内なる図書館」は単なる本の話ではなく、読書通して形成される人間性と深く関わると主張したいのでしょう。だからこそ「内なる図書館」に対する認識の必要性を説くのだと思います。
 そしてバイヤールが提言する3つ目の図書館が「ヴァーチャル図書館」です。ここでもバイヤールの説明を引用してみましょうヴァーチャル図書館〉は私が本書で導入する図書館の内、3つ目のタイプで書物について口頭ないし文書で他人と語り合う空間である。これは各文化の〈共有図書館〉の角部分であって語り合うものをそれぞれの〈内なる図書図書館〉が出会う場合に一致している 

 これだけでは少し分かりにくいので、僕の理解を書きます。
 バイヤールによればこの「ヴァーチャル図書館」における絶対的なルールの一つが「ある本を読んだことがあると言う人間が本当はそれをどの程度まで読んでいるかを知ろうとしてはならない」というものです。バイヤールはこのルールがある理由を次のように説明します。

ひとつには、言表の真実性に関するあいまいさが維持されなくなると、また出された問いにはっきりと答えなければならなくなると、この空間の内部で生きる事はたちまち耐えがたくなるからである。もうひとつはこの空間の内部では、誠実さの概念そのものが疑問に付されるからだ。先に見たように、まず「ある本を読んだ」と言うことの意味からしてよくわからないのである。
Ⅲ心がまえ

 これまたさらに分かりくいですが、僕の理解は本について語るとき「他人にその本を読んだかどうか問題にしてはならず、だからこそ〈内なる図書館〉同士の意思疎通が可能になるということだと思います。そしてバイヤールはこれら3種類の図書館を設定することで、「読んでいない本を堂々と語れるようになる」と主張します。例えばバイヤールは「ユリシリーズ」を読んでいませんが、それを読んだ、その人がたとえ著名な専門家であってもこの本について語り合えるでしょう。それを可能にするのが「共有図書館」であり、「内なる図書館」であり、「ヴァーチャル図書館」だというわけです。そして通読はやめ、「流」でとどめることで本に従属するのではなく、読書人は新たな創造者たるべきだと主張します。
 大変面白く読みました。「流」の効用や、通読の弊害、そして「創造者」という言葉も魅力的です。ただ、これらのことが許されるのはバイヤールが、高明な学者で、おそらく膨大な量の本を「流」してきたからではないかということが僕の頭から離れませんでした。そういう意味で僕はまだまだ通読の呪縛、彼のいうところの「教養主義」に毒されているのでしょうね。そしてこの書評を書くために本書を文字通り「通読」せざるを得なかったことを告白してこの文章を終えることにします。

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