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なんぼのもんじゃい

現代短歌は根の暗い人間のためにあるものと信じてきたけれど、歌会に通えるような人は本当に根の暗い人間ではないと強く思った。みんな楽しそうに見えた。「めちゃくちゃ楽しかった!」と言っている人が何人もいたし、過半数は常連のようだった。私は、ほとんどの時間を、「早く逃げたい」と思って過ごした。みんな短歌がしたくて、やるぞと思って、ここへ来ているんだなと思った。私はそうじゃなかった。文も絵も、そうじゃない。したくてしているのではなくて、趣味では絶対にない。趣味というのは、自分を日々から切り離して、ストレスの根源を忘れさせてくれる、明るいものでしょう。私にとっては、創作というのは、そんなんじゃなくて、むしろ生活そのもので、捌け口で、やるしかなくてやっているもので。プラスでもマイナスでもない。排泄と一緒。もしくは、喉に指突っ込んで吐いてるようなこと。特異な趣向でなければ、初対面の人たちの前でゲーゲー吐いてるとこなんて、普通は見せたくないだろう。そんで、そのゲロについて自ら説明をしたり、初対面の人間たちにあーだこーだと品評される。すべてはそういうことだ。その場にいる他の人たちはというと、自慢の手料理を振る舞っている感じだった。詳細なレシピを添えて、時には隠し味まで教えてくれる。短歌って、5・7・5・7・7に入りきらなかった言外の部分が好きだよ。言葉にできないものをなんとかして形にしているところが好きだよ。その1から10までを全部言葉で説明して種明かししてもらえちゃうなんて、ほんとうになんの風情もない、つまらない。自らボケの解説してるような滑稽さがある。誰かに食べてもらう前提で作っている。そして、人にもらった感想が、研究材料として次回に活かされる。少しもロックじゃない。短歌を「趣味」にしている人たちが集い共に楽しむ場所、それが「歌会」だった。

歌集をお守りのように胸に抱えて本屋から持ち帰ったこと、何度もある。救われたことが何度も。意味もなく本屋に行けば、ひとまず短歌の並ぶ棚に行くのが習慣だから、初めての本屋に入店したらまず詩歌のコーナーがどこにあるのか確認する。立ち読み中に目に留まった短歌で涙ぐんだこともある。だけど、どの歌もみんな生きた人間がベタベタに捏ねくり回した手料理なんだと思ったら、急に全部が気持ち悪く思えて、昨日買ったばかりの歌集だってまだ開いていないのに、短歌なんか嫌いになりそうになる。分かっている。私が嫌っているのは人間だ。よく知らない人の手作りしたお菓子を平気で食べたりできない。それでも時々でっかいハグしたくなるような巡り合わせがあるから、それが死ぬほど悔しくて、最高だと思うのだ。私は人間を嫌いきれない。好きにもなりきれない。それでいい。

仕事を通して、ここ一年でかなり精神面が鍛えられているのが、改めて分かった。今日のことをめちゃくちゃ良い失敗だったと思えたからだ。「合わないと学べたから」良い失敗なんじゃない。私は失敗を、何かを間違えることを、人一倍恐ろしく思っていて、仕事でもそういう場面があったのだが、尊敬する同僚のおかげで、失敗はしてもいいものだと身をもって知った。やったことないことを「失敗しないようにする」のは不可能だし、何にも繋がらない。何もしないうちから「失敗しない方法」なんて教えてもらえない。逃げだから。自分なりに考えて動いてみないとフィードバックもらえない。行動していないのだからもらいようがない。失敗は自分が行動に移した証で、トライアンドエラー、だから次の行動を決められる。失敗を避けようとするとなにも挑戦しなくなる。どんどん動けなくなる。失敗してもフィードバックしてくれる人がいるのだから、なんも怖がることない。むしろしておけ。そういうことを、仕事を通じて教えてくれた人が、いる。

だから今日は良い日だった。書くのに夢中で、帰りの電車はひと駅乗り過ごした。超絶モヤっとしていたから、せめてパルム食べないと一日終えられない。もう時間も遅いけど、明日は月曜だけど、借りてるスラムダンク一冊読んでから寝よう。今週のおっさんずラブだってまだ見ていないし。

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