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試験勉強じゃない

今日は寒いので手袋してきた。散らかった部屋は年内に片付くだろうか。髪を切ったら可愛くなったのでやっぱり伸ばしすぎない方がいい。先々週の友人の結婚式を引き摺っており、連日式場や演出や会場飾り付けのアイデアなどを検索し、使用するBGMも絞り込みはじめた。放置していたマッチングアプリでめずらしく話したいと思う人がいたが、たった1往復で相手の返信が途切れた。今月末までのすきパスを今更買った。

私にも描ける絵ってあるだろうか。イラスト好きで、昔は毎日のように描いていたけど、それも10年以上前のこと。今の私には、この気持ちを残したい、絵にしたいと思っても、その術がない。私が心をかたちに換えられる主な手段は文を書くことで、絵はもう全然描けない。でも描きたい。好きな人間があまりにもいい顔してる時には描ける。描いて残したいと思う。あとは、素敵なものを手に入れて大切に持って帰っている時や、綺麗だなと思った時。別れを悟った時。自分の人生を映画にして、主演で出るのと同時に客席から観てるみたいな感覚で「あ、このシーン」と思うことがあって、そういう時に絵にしたくなる。栞を挟みたくなる。

その時の気持ちを丸ごと記録したくて、わりと本物そのまんまを描こうとしたがる。想像して描いたりは全然できない。これは文を書く時と同じ。フィクションや空想は無理。自分で経験したことしか書けない。絵になるとさらに視覚に限定される。自分の視点で見たもの、目に焼きついてるもの。写真見ながらじゃなきゃ描けない。たぶん目しか使ってない。人の表情描いてる時はその感情に乗っ取られるけど。触った感じ、温度、眩しさ、聴こえる音、そういうのは絵では考えたことがない。考えたことを言語化するのが文章だけど、言葉で考えて言葉にのせるのが文章だけど、色や線にも思考をのせられるんだろうか。それとも、思考を出力するのは言葉の役割で、絵には別の役割があるのだろうか。文字は、人と人とで伝達しコミュニケーション をとるために生まれたものだから、筆跡で人との関わり方がある程度分かるのだと昔知り合いが言っていた。言葉があれば伝えられるなら、絵は何のためにあるんだろう。言語には限界がある。言葉で伝えられること、伝えられないこと。「君の顔が好きだ」が頭を過ぎって、歌い出しから一番の終わりまで、記憶で再生しながら帰った。

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