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息吹

リップクリームと洗面所の電球が切れてるから買わなくちゃ。今日は早出したから、退勤もちょっと早い。何の身にもならない業務(手間ばかりかかり経験値の足しにもならない作業)で手一杯になると、身体じゅうを血液と一緒に虚無感がめぐって、0まで消耗してしまうけど、今日は本当に必要な仕事が中心だったので、元気だ。人とたくさんおしゃべりしたので、さらに元気だ。というのがもう一昨日の話。

私にとっての快について考える。

日の光をたくさん浴びて、適度に風にあたること。

声を上げて笑うこと。同じものを見て、一緒に笑える人がいること。

食事が楽しいこと。美味しいものを口にする喜びを共有できる相手がいること。食べ物の話だけずっとしていても会話が成り立つような人とは長く付き合ってゆける。時々はまじめに話せるとなお良し。

一日の中で、きっちり会話のキャッチボールのできる相手が一人二人いること。ちゃんと目を見て話して、通じ合えているという感覚、コミュニケーションがきちんと成立している実感が、私を明るい気持ちにさせる。私の発言に笑ってくれる人がいるとか、ボケに突っ込んでくれる人がいるとか。「ねえねえ聞いて」と言える人がいるとか。「最近ラーメンはまってるんだよね」と言える人がいて、「最近ラーメンはまってるって言ってたよね」と覚えていてくれる人がいる。「髪切った?」と言われて嬉しいかどうかが、私にとって居心地の良いコミュニティかどうかを測るひとつの物差しである。人の悪口言ってる時に最高に良い顔してるのを惜しげなく晒せるとかもそう。

読みたいと思っていた本や漫画を自分で買わずに友達から借りること。

明るいうちによく動き、早めの時間に帰ってぐっすりと眠ること。

私にとっての快は、どこか植物的なところがある。日を浴びて、風にあたって、栄養を摂る。酒を飲んだり、美味しいものを食べて、体に取り込む。天気のいい日によく歩き、昼間から近所でビール飲む時の喜びといったら!これは私が生きていくうえでとても基本的なこと、基礎となるような部分で、なくてはならないもの。一人でも自分自身を取り戻せる術。

草木は何も言わないが、私は黙れない。日光も水も栄養も足りていたってダメ、ひとりで風に吹かれ揺れているだけでは到底満たされない。私の人間の部分が私を動かしている。私にとっての快のほとんどには人の存在が関与している。植物的幸福を満たした上でなお、人間的幸福を満たしたい。人と笑いたい、会話したい、人の言葉に影響されて行動したいし、身近な人が私の言葉に影響を受けるのは嬉しい。いろんな人とキャッチボール続けたい。ただしキャッチボールして楽しいと思える相手に限り。人とコミュニケーションとるのが私は好き、めちゃくちゃ好き、それがなくても植物的な部分では生命を維持できるけど、それがなければ人間的な部分ではきっと死ぬ。そう思う。

洗面台には左右に一つずつ電球がついていて、片方が切れても放置して、もう片方の生きてる方に頼って数日過ごしてしまうのだけど、新しく取り換えて、数日ぶりに左右揃って点灯する瞬間は、いつもはっとする。そのまぶしさに胸を打たれる。明るい光。ただの電球だけど。こんなに明るかったっけ。東日本大震災の時、電気のないまま暗い部屋で食事して、冷えた車の中で夜を明かした。電気が復旧して、部屋の灯りが点いた時、本当に感動した。洗面所の電球が切れて、新しく換える度に、そのことを少し思い出す。この洗面台の電球、この12年で何度換えただろう。今更LEDにしてみた。

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