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自己肯定より大事なこと

いつも大変お世話になっております。

掲題の字面を見ただけでこの記事にアクセスしていただいたあなたに、最大限の感謝を申し上げたいと思います。

そしていつもお疲れ様です。
ゆっくり休んでくださいね。

さて、本題になりますがこの記事では、私たちがなぜ幸せになれないのか、その理由を私なりの解釈、もとい森田療法の解釈に則ってお話ししたいと思います。


医者でもなければ専門学者でもなく、学生時代にちょこっと齧った程度の知識を、 MacBook Airより薄く語っているだけなので、雑学程度に聞いてくださいね。
間違えてたら教えてください偉い人。

幸せ、噛み締めてますか?

早速ですが、美しく尊い皆様は、日々幸せを噛み締めていらっしゃいますでしょうか。

これまでの私はといいますと、日々の小さな幸せを見過ごすことが多い人生であったような気がします。

幸せに目を向けるより、自分が不幸であると感じた出来事を反芻しては「ああいやだな」「こんな過去無くなればいいのに」「死んでしまいたいな」なんて暗い闇に堕ちて行ってました。

ストレスフルな社会において、同じような経験をした方も多いのではないでしょうか。

ではなぜ、私たちは嫌なことに目を向けて落ち込むのでしょう。

より良く生きたいんだよ

この出来事は嫌だった、ということは、「もっとこうだったら良かった」という欲求の裏返しであると言えます。

私たちは自身の人生をより良くしていきたいと考えるのが常であり、その気持ちが強ければ強いほど、理想が高ければ高いほど、一つの嫌な出来事にぶつかったときの反動が大きくなって不安を感じるのです。

死にたいと思っている根本の原因は、自分に生きる欲求があるからであると考えると、矛盾だらけで愛おしくなりませんか。

より良く生きたいと思っている中で、その願いに反することが起こったら、不安な気持ちになるのも当たり前ですよね。

囚われの身なのかもしれない

さあ、生きたい気持ちがあるとわかったところで、今度はなぜ辛い時のか、理由に迫っていきましょう。

2つの「気にしすぎ」があると思います。

1つ目は、ある物事に対して、注意が集中しすぎてしまうパターンです。

例を挙げると、Aくんは私のこと嫌いなんじゃないかと考えた時、私はAくんの行動に敏感になるでしょう。

すると、普段は気が付かないような返信速度や態度の変化に気が付き易くなり、余計意識が集中する様になるでしょう。


2つ目は、とある理想に囚われてしまうパターンです。

例えば、人前では可愛くなければいけないと考え、可愛くない自分を見ると不安になり、不安を無くすためにより一層可愛くいることに拘る、というようなこと。

可愛くなければいけないという思想に囚われているため、そうではない自分を受け入れづらくなるでしょう。

あるがままで良い

ここまでの話を聞くと、「気にしすぎちゃいけないんだ!」「理想高すぎちゃダメなんだ!」というような気持ちが出てくるかもしれませんが、一旦深呼吸しましょう。

気にしすぎても、理想が高くても、大丈夫です。

そして気にしすぎちゃいけない、理想高すぎちゃダメだと考えていてたとしても、大丈夫です。

生まれてくる不安や思考を一旦自覚して受け入れましょう。

難しければ、何か思慮した時は「今私は〇〇と考えているんだ」と客観視すると受け入れやすくなるかもしれません。

無理にポジティブに考えなくてもいいんです。
自分のことが嫌いだっていい。

大事なのは、まずはそうやって考えている自分がいることを知り、生きようとするならそれも当たり前と受け入れること。

そうすると不器用な自分を少しだけ許せた様な気がして、生きることに目を向けられるかもしれない。

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