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岡山の城巡り(3)後楽園~砥石城 (K-70 / smc PENTAX-DA★16-50mmF2.8)

前回のあらすじ: 岡山城に来た、見た、勝った。誰に?

 さて岡山城を一回りしたので、本丸北側の橋をわたって後楽園へ。

 天気予報はあまりよくなく、朝の岡山駅到着時点では雨がぱらついてたくらいなんだけど、午後にはこのくらいの天気になっていたのはさすが晴れの国岡山。

 今では美しく整備された庭園で、今の姿について私はあまり語る言葉がない。困ったな。

 宇喜多秀家が岡山城のために旭川を捻じ曲げた結果、大雨降ったらすぐ氾濫して街が水没、と大変なことになった。いくら晴れの国でも。
 それで岡山藩の池田氏四代目の池田綱政の時代、もう少し上流に百間川という放水路を作って旭川の水量を抑えることに成功。それで藩財政も回復したので、贅沢して城の対岸に庭園作ろうってことになったそう。

 カメラ持ってればなんぼでも楽しめるといえましょう。

 これは確か花交の池だったかな。

 茶祖堂。見た感じ茶室っぽいけどお堂であるらしい。
 もともと利休を祀ってたのが、戦争で焼けて再建するとき、臨済宗の栄西禅師が岡山出身にして茶を日本に伝えた人として合祀され、それで茶祖堂となったそう。

 園内中央にフルヘッヘンドした唯心山は、この季節は白いツツジに飾られていた。上にも上がれるんだけど、もう人でいっぱい。まあGWは仕方ないな。

 茶畑も広がっている。近くに田んぼもあったけれど、元々池田綱政は田園風景が好みで、後楽園も農地を観るような作りだったそう。

 慈眼堂……というかこの異様な岩が目についてしまう。竈門炭治郎が斬ったんじゃなくて、36分割に切り分けて運んできて組み直したらしい。他の場所にも同じような岩があったけど、そうする意味があったのかな。
 今の後楽園は中洲だから、運んでこようと思ったら船が沈まないサイズにせざるを得ない……とかならわかるけど、そもそも最初から中洲だったのかどうか。

 庭園から城が借景になるようになってる。

 近くからもある。

 庭園とかって整備が命なもんですが、実に行き届いてるなあ。
 作った頃から担当奉行を置いてしっかり管理してたそう。

 花葉の池。ここは蓮が咲く時期がいいんだろな。備中松山城も蓮が見どころっぽいから、時期を合わせてくるのがおすすめ。

 一回りしてまた橋を戻る。橋からのお城もなかなかの美しさ。
 しかしこっちから見るとほんとに川に近いな。
 あと川にスワンボートならぬピーチボートがいる。

 最後に、本丸西側のほうに、岡山城の前身の石山城の本丸だった丘に案内看板があった。私有地感ありすぎて勝手に立ち入るのは遠慮。
 もともと石山城には金光宗高という人がいたんだけど、宇喜多直家に目をつけられて陥れられ、城を奪われて切腹させられた……というのが通説だけど、別にこの件に関してはそこまで邪悪じゃないという説も。元々直家の主家たる浦上氏が金光氏と関係悪かったから、普通に戦って奪っただけと。

 この後、ぶらぶら歩いて、おかでんの清輝橋線を乗りつぶしに。
 途中ででくわしたアサノカメラという店がなんともいい感じに中古が豊富で、smc PENTAX 24-35mmF3.5なんて私は現物見たことなかったレア玉がしれっと。

 そしてゴールデンウィーク直前に取れたホテルは、この実にいい感じのザ・昭和。
 古さは否めないけど四畳半二間あって、同じく四畳半くらいある広々とした風呂はリフォームしたてらしい綺麗さで、ずいぶんリーズナブルに泊まれたなあ。

砥石城

 帰りはどうしよかと思ってたけど、思ったほど体力も消耗してなかったので、こういう機会でもないとなかなか行けそうにないとこ、砥石城にいってみよう。
 検索すると信濃の戸石城(武田信玄が派手にまけたとこ)と混ざってしまうけれど、備中砥石城は宇喜多直家が生まれたところ。

 どこから行くかといいますと、岡山からは赤穂線に乗る。
 備中国は、今でこそ大都会岡山が中心なんだけれど、過去には岡山の東の西大寺(今も駅あり)、それからさらに東の福岡(今は長船駅西側あたり)が中心だった。
 砥石城は、そのふたつの街を両睨みにするようなところにある。
 邑久駅か大富駅か、どっちからでも歩く距離は大差ないので、大富からいって邑久に戻ることに。

 ただまあ……大富駅から南東の砥石城阯まで、ひたすら農地の隙間を歩いていく感じになっちゃったな。こののどかな景色が続く。これもこれでいいけれど。

 砥石城のすぐ北、千町川を渡ってすぐに集落があり、その西端あたりに小さな荒神社がある。
 ここが、砥石城攻防戦の戦跡とある。これで検索してもほとんど武田信玄の話ばっか出るけども。
 丹生田(荷蓋)畑の戦いという大きな会戦があったそう。

 宇喜多直家は砥石城で生まれたとされてるけど、実のところ有名な割に生まれたときのことがよくわからない。父親は興家というのは創作らしい。
 祖父の能家が砥石城で島村盛実という武将に殺されてしまった、というのが案内板に書いてる(『備前軍記』が元ネタっぽい)。
 だけど、これも後世の創作らしく、宇喜多氏は浦上氏に従っていたので、浦上村宗が大物崩れでいきなり死んでしまった後に、赤松晴政が攻めてきて負けたんじゃないか、とのこと。

 その後、直家は浦上宗景に従って働くようになる。浦上氏もまた宗景と政宗兄弟に分裂していて、宇喜多氏もまた和泉守直家と、政宗側についた大和守国定(直家からみて大叔父)が対立することになる。
 それで国定を討てと、直家に浦上からの命令が出て、三年に渡る戦いの末に砥石城を落とす。そのときにこの丹生田畑の戦いがあった。

 千町川を渡ってすぐのところに、畠山製菓というおかき・煎餅メーカーがあって、直売所もあるので寄ってみて購入。備前焼せんべいと黒豆かきもち。うまかった。

 3キロほど歩いて到着。橋渡ったらまっすぐ見えてるから、間違えることはない。

 ただ、登山口は間違えないんだけれども、登山道がめちゃくちゃハードだった。15分程度で登りきれると案内されてるけど、傾斜がきつくてかなりの高さまで一気に上る。
 道も狭いし荒れていて、転落しそうなところも多いし、落ち葉だらけで滑るところもある。登山靴とまではいわないけれど、サンダルとかで来ちゃダメなとこだったな。
 私が知る中で、佐和山城と並んで登るのが怖かった城だなあ。

 ところどころに宇喜多直家のイラストがある。へろへろになって7割上ったところで「あと5分だ頑張れ」と直家に言われるても、上った先で狙撃されそうな気がする。
 実は直家自身は、祖父が討たれたときにはまだ元服前の子供。それで成人して戻ってきて奪還するんだけど、その後も別に居城にせず弟に与えた。居城にしたことはないらしい。

 奥に写ってる左右を山に挟まれた隙間の向こうが備前福岡のはず。

 左手を見ると、西大寺の市街地が見える。

 本丸らしい平たいところはあるのだけど、もちろん建物などもない。
 小さな祠みたいなのは何だかわからなかった。

西側を上から
西側
東側

 石垣がちょっと残っている。石垣が見られるような場所に立てない、というのが難しい。
 うぃきぺによると、石垣は江戸時代にあった金刀比羅宮のもの、とばっさり書いている。
 実際まあ、砥石城って1559年に直家が落としてからはぷっつり記録から名前が消える。その後程なく使われなくなったなら、石垣使うようになる前に消えた城には思えるな。
 もう少し後まで誰かが居て、重要な城として改修が加えられた、というなら石垣がつくのもわかるんだけど、何分なにも情報がない。

 戻るときは、流石に上ってきた激坂を降りるの嫌(登りで危険感じるところを降りるのはまじで危ないと思う)、南側からもう少し穏やかな道で下りていくルートがあった。最終的に東側の道路に出る。
 そして下りたところに「宇喜多直家生誕の地」と碑があった。
 砥石城が居住性のある城とも思えんので、下りてきたこのあたりに屋敷があって、直家はそこで生まれたということかな。

 道路脇のこのちょっとした崖が、大橋貝塚という縄文時代の遺跡であるそうな。

 ここからぶらぶら邑久駅へと歩いていく。3kmあるけれども。
 邑久はまずまず賑やかなところ。
 ゆめタウン邑久というショッピングセンターに入って、すわき後楽中華そばなる岡山の老舗ラーメンチェーンで食した。なんか劇的で一発で記憶に残るというような味ではなかったけれど、長く続く何度も入るような店ならそういうのがいいのかもしれない。
 さいたまのぎょうざの満洲にもそんな印象受けたなあ。3割うまいとはうまいこという。


 以上、全く計画してなかったけどGW数日前にホテルと新幹線が取れちゃったから飛んでいった岡山旅行でした。
 流石にちょっと砥石城に体力を奪われすぎたので、時間の余裕はあったけどこのまま素直に帰宅。

 小旅行やる機会が今後とも作れそうだから、また行くところ考えておこう。山陽地方だと福山城も三原城もまだだし、いくらでもネタはあるな。

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