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自分には常識がないと思い続けたわたしが、「シゴデキ」になろうと無理するのを手放した日

こんばんは、のぞみです。今日はちょっといつもよりそわそわ緊張しながらこのnoteを書いています。

数日前、メンタルモデルを紐解くセッションを受けました。不本意な現実としてずっと現れていた「休みの日なのに休めない」「ずっと仕事をしてしまう」という問題について。

月曜日と火曜日はお休みにしよう、お休みにしたい、と心の底から思っているのに、休むのが怖くて不安で心配でたまらなかったのです。ついついSlackを開いてしまうし、義務かのようにXをチェックしてしまう状態が続いていました。

60分間のセッションで、このお悩みのなかにどんな痛みが隠れていたのかを見にいってきました。


シゴデキ人間にならなきゃ


そもそもなんでSlackやXを開いていたのかというと、仕事ができるひとにならなければ!という強迫観念めいたものがあったからです。

仕事ができるというのは、返信が早いとか、先回りしていろんなことが考えられるとか、ことば遣いが丁寧とか、メールの慣用句をたくさん知っていて使い分けができるとか、そんなようなイメージでした。

声に出してみると、仕事ができるというよりは社会人のルール、マナー、エチケットのようなものを理解していて、呼吸するようにできる、といった意味で曖昧に捉えていたように思います。

「自分には常識がない」と信じてきた


実は、わたしにはずっと誰にも言えていないコンプレックスがありました。わたしは、「自分はずれている」とか「常識がない」、「外れ値だ」と思っていたのです。

実際に話が通じないと言われたり、何を言っているのかわからないと言われたりしたこともあって、「常識人」になりたいと思ってきました。

最初にこの気持ちを抱くようになったのは高校生の頃。適応障害で学校に行けなくなったわたしは、学校の授業という共通の話題がなくなって、ひとりでぽつんと寂しさを感じるようになりました。

「こんなことも知らないの?」と言われるのが怖かった。自分と周りとの間にはギャップがある、自分は周りのひとから普通じゃないと思われている、そんな痛みがチクチクと今も残っています。

高校は結局卒業できず、高卒認定を受けて大学へ。担任からクラスメイトに「のぞみさんは私立の大学に合格したそうです」とだけ伝えられたため、クラスメイトはみんな名の知れた大学だと勘違いして連絡を寄越してきて、居心地の悪い思いをした時期もありました。

誰もが名前を知っているような大学に周りが進むなか、また自分だけ違う道に外れてしまったという気持ち。大学に進学してからも、2カ国留学を目指していた自分と卒業ギリギリの単位で大学生活を謳歌するクラスメイトとのギャップや、院進を目指す自分と就活を早々に終えて楽しく過ごすクラスメイトとの溝の深さに悩み続けました。

もしかしたら自分は、普通に生きていたらわかるようなことがわからないんじゃないか?会話をしているなかで「このひとずれてんな」と思われるタイミングがたくさんあるんじゃないか?それが怖くて、常識的な社会人に「擬態」して過ごしてきたのだと思います。

本来のわたしって、幼稚園児みたい


シゴデキの皮を被る前のわたしを思い出してみると、スパッとひとを傷つけてしまうほどの正直さとわがままさを持っていました。

例えば、誕生日プレゼントをもらったとき。所謂大人だったら、どんなプレゼントであっても「え〜〜!嬉しい!!これ選んでくれた気持ちも時間も全部嬉しい!!一生大事にするね〜〜!!」となるでしょう。(個人差はあると思うけれど、わたしの思う大人像です)

一方、わたしのなかの幼稚園児は「え!!なにこれ!!いらな〜〜い!!」とポイっと投げてしまうような子です。好みに合わないフレグランスをもらったら「え、クサッ!!この匂い好きじゃな〜〜い!!」って眉間に皺を寄せて鼻を摘んじゃうような子です。

こんな自分でいたら、ひとが離れていってしまうんじゃないか。幼稚園児のわたしを好きになってくれるひとがいるはずがない。そう思って、ずっと抑え込み続けてきました。

そのくせ、素の自分でいられない相手や、なんだか落ち着かない相手は、自分から距離をとって離れてしまいます。自分から離れておいて、「悲しい」と言うんです。「またひとりになっちゃった」としばらく悲しみに暮れてしまう、めんどくさい毎日でした。

このループ、もうやめよう!


今まで、このループをずっと続けてきました。続けてこられるだけの旨味もあったからです。擬態していればしっかりものだと思ってもらえるし、仕事早いねって褒められるし、自分の社会的な地位を守ろうとしてきた気持ちもあったかもしれません。

でも、このまま今世を生きていって、わたしのお葬式の日がきたら?「のぞみさんはすごくしっかりもので・・・」とお別れの手紙を読まれても、全然嬉しくないかも。だって、外面だけしか知られていないまま死んでしまうんだから。

やりたくないことばかりやって生きていって、最期のお別れまでありのままのわたしを見てもらえていないのって、今の苦しさよりももっともっと悲しい。だから、このループはもう断ち切りたいと思うのです。

常識がなくても、ずれていても、話が通じなくても、わたしと一緒にいてほしい


わたしがすぐにこの思い込みからスルッと抜け出すのは難しいと思います。ずっとずっと自分には常識がないと思い込み続けていたから、急に今日から自信を持って生きていこうとするのは無理。

でも、幼稚園児のわたしが出てきても一緒にいてくれるひとが周りにひとりでもいたら、すこしずつ柔らかくほぐれていくような気がするのです。幼稚園児のわたしに、成功体験を積ませてあげられたら。

そのうち「シゴデキにならなきゃ」という強迫観念も手放して、わたしは仕事が全然うまくいかなくても一緒にいてくれるひととのんびり笑って過ごせたら嬉しいなあと思っています。

しばらくは、「またひとりになっちゃったね、」と小さな女の子のそばにいながら、そのうち泣き止んで立ち上がるまで、わたしも一緒にここにとどまっていたいと思いました。


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