【小説】ディア サーチエンジン 6 銀座のカトリーヌ・ドヌーブ

翌朝、夏実は寝坊した。何を着ていくのかまでは考えていなかったので、ばたばたと小さいクローゼットをあさり、手近にあった袖なしのからし色のトックリのセーターに、同色のコットンのパンツをはいて、黒いジャケットをはおり、玄関でローヒールの薄茶の靴を履いていると、彬子が出てきて、「まあ、『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーブね」と笑った。「お母さん、そんな古い映画、誰も知らないわよ」と夏実はマスクを着け、ドアを開けて駆けだした。

久々の銀座で夏実は迷ってしまった。コロナウイルスの蔓延で二年以上銀座はおろか、池袋でさえ出かけていなかったので、マスクを着けた人が大勢歩いているのにも驚いた。約束の時間に遅れそうなので、小走りで店を探した。汗だくになったので、ジャケットを脱いだ。風月堂の看板を見つけてほっとしてマスクを外し、ぜえぜえ息をついていると、長身で丸顔の若い男性が、「大石さん?」と声をかけてきた。「中本です。始めまして」

実物の中本は、あまりチャーリー・ブラウンに似ていなかった。それほど太ってはいなかったし、白いマスクを外すと、細い黒縁のメガネをかけた落ち着いた大人の男性の顔が現れた。夏実は、「後れてごめんなさい。すぐわかると思ったのですが、迷ってしまって」と何回も頭を下げ、「いいんですよ。さあ、入りましょう」と中本は夏実のジャケットを持ってくれた。「東京はまだマスクを着けている人がたくさんいますね。僕のいるイリノイでは誰も着けていません」「まあ、そうなんですか。マスクってうっとおしいですものね」「でも、感染症の予防には最適です」という会話とともに、中に入った。

四人掛けの四角いテーブルの壁際に、銀色の生地に黒い縁付きのスーツを着で、首にえんじ色のスカーフを巻いた初老の女性が座っていた。厚いアクリル板で仕切られたテーブルには、彼女のものらしい淡いピンク色の布マスクが置かれていた。「母の幸子です」という中本に、夏実は慌てた。婚活サイトのお見合いは親が同伴するルールがあったのかしら。だが、「すみません、どうしても母が夏美さんに会いたいと言うので、連れてきました」と言う中本の言葉からそういうルールはないということがわかった。

立ち上がった中本の母親は、きれいに化粧した顔で目をパッチリ開けてアクリル板越しに夏実に微笑み、「あなた、森画伯の娘さんでしょう?」といきなり聞いてきた。父親の名前を中本の母親から聞くとは思っていなかったので、びっくりして「はい」とうなずくと、「お若くてお美しい娘さんだこと。まあ、息子に内緒で勝手に婚活サイトに申し込んで、怒られたんですけれど、その甲斐があったわ」と、立ち上がってアクリル板から身を乗り出し、両手で堅く夏実の手を握り締めた。紀美子の母親である冴子の手と違い、ほっそりとしており、指輪の固い感触があった。

「お母様が勝手に申し込まれたんですか。じゃあ、中本さんは婚活サイトのことはご存じなかったんですか」と、夏実が驚いた風に聞いた(実際驚いたのだが)。耳元で「掘り出し物じゃん」と紀美子がはしゃいだ。

「いやあ、もちろんそういうサイトがあるのは知っていましたが、自分では申し込みませんね。だから、母から聞いたときはびっくりしました。それに、母が、夏美さんのお父さんに心当たりがあるというものですから、ちょっと興味がわいちゃって、お会いしたくなりました。すみません」

「私ね、昔から森先生の大ファンでしたの。何十年も前かしら、丸の内のカルチャースクールで絵を教えてらしたしたでしょう。私もそこに通っていましてね。あなたのプロフィールを見て、写真が若いころの森先生そっくりで、苗字が、森先生の何というか、内縁の奥様みたいな方と同じで、これは絶対森先生の娘さんだと確信しましたの」

幸子は陽気な調子で「お昼、まだでしょう。ランチを注文しておきましたわ。コーヒーでよろしい? ケーキもつけておきましたの、ここのおいしいのよね」とにぎやかにしゃべりたて、夏実が返事をするまもなく、「聡はね、何しろアメリカにいるせいだか何だか知らないけれど、全然結婚する気がないみたいで、この年になっちゃって。母親としては早く結婚して落ち着いてほしいんですけれど、日本語をしゃべれない人を連れてこられても、困るし。まあ、それはそれでなんとかなるんじゃないかとも思うんですけれど、やっぱり意志の疎通ができませんとね、何かと不便でしょう」とまくしたてた。

中本は横でにやにやして、「お母さん、夏美さんが困っていますよ」と、幸子の腕に手を置いた。

「まあ、ごめんなさい。私ばかりしゃべって。夏美さん、どう、聡の第一印象は? お仕事はお忙しいの? ウエブライターって、どういうお仕事なの?」

「お母さん、少し黙って。ほら、ランチが来ましたよ」

食べている間は、幸子は無言だった。時々、「あら、これ、何かしら。おいしいわ」とつぶやくだけだった。それでも、「まあ、何年ぶりの風月堂かしら。主人が生きている頃は二人でよく来ましたのよ」と、食べ終えるとすぐ、コーヒーをすすりながらしゃべり出した。それで、聡の父親がすでに他界していることを夏実は知った。

それから、「夏美さん、今日のお洋服、色合いがとっても素敵。古いフランス映画みたい」と彬子と同じようなことを言ったので、気をよくした夏実は、「母にも、まるで『昼顔』ね、と言われました」と答えた。彬子が古い映画の話題を出がけに振ってくれてよかった、これで、会話に参加できる、と思った。

「あのころのカトリーヌ・ドヌーブは、ほんとにきれいでしたもんね。夏美さんの今日の髪型もそっくりで」と、幸子は髪をぞんざいに丸めてピンで止めただけの夏実の頭を差して、「素敵」と、きれいに口紅をぬった唇を丸めて強調した。「お母様は映画がお好きなんですか」と聞くと、中本は、「若いころ見た映画だけですよ、最近のはさっぱりだね、お母さん」と幸子を見た。仲のいい親子らしい。

 結局中本とは話らしい話をしないまま、夏実は二人と銀座の駅で別れた。「まるで母親とお見合いしたみたい」と夏実は思った。「でも、相手の母親は大事よ。これから一生付き合うかもしれないもの」と紀美子がささやいた。

 その夜、婚活サイトのメッセージ欄を開くと、「うるさい母親で、すみませんでした。僕は明日、アメリカに戻ります。当分帰国する予定はないのですが、またメッセージを送ってもいいですか。勝手に母が申し込んだ婚活サイトですが、夏美さんに出会えてよかったと思っています。もっと夏美さんのことが知りたいですね。あなたも同じ気持ちだといいのですが」とあった。夏実はほっとした。

中本が自分を気に入ったらしいからというより、これ以上婚活サイトでほかの男を探す必要がなくなったからだ。「ああ、疲れた」夏実はベッドにひっくり返り、両手を思いっきり伸ばして、今朝飛び起きたままのくしゃくしゃになった毛布に寝ころんだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?