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ディアレクティ系観念ビルダー 2024/04/12の日記

今日は山括弧塾だったと思う。たまにそうじゃないこともある(一敗)。

今回の範囲はヘーゲルらしい文句というかつまらないケチばっかりの回だったな…。面白かったからいいけど。

ヘブライ語って外的な言語らしい。だからヨハネはキリスト信仰に向いてなさすぎる自身の民族性に困ったんだって。普通にヘイトすぎるのもそうだけど、ヘーゲルはよくそんなこと知ってるな。なんかイエスのことも直接会ったみたいな雰囲気で雑語りしてるけど、そんな勝手なこと言っちゃって大丈夫?それとも妄想日記?(ヘーゲルの評判)

ケーニヒスベルク大のカントにそっくりよね。
カントがイケる人なら大満足じゃない?
主張はカントより進歩的だしね。

⚠イマヌエル・カントにはまったく似ていません!⚠
ドイツ観念論にありがちなナショナリズムに帰結する肝い思想です。


特に言うことないし、質疑応答であった話題書いてくか。今回は結構議論があった。

まず、キリスト教と仏教はなんだかんだ似ているよね、という話。確かにバラモン教やユダヤ教のような前身があるところもそうだけど、人知を超えた超越的な原理がまずあり、それが各人に備わっているという世界観も両者は共通している。これって結構不思議だよな。地域も時代も全然違うのに、なぜこれほどまで共通した構造があるんだろう。

あと、永井はキリスト教と仏教の類似に対してバラモン教とユダヤ教は全く似ていないと言っていたけど、私はむしろよく似てるんじゃないかと思う。というか、キリスト教と仏教の類似点は、すでにある権力に対して、議論の上でもっともらしいことを言うためのセオリーが似ているんじゃないかな。で、それはおそらく疎外論なんだろう、まさにヘーゲルの言うように。

だからこう…なんか難しいんだけど…要するに、自然のうちに自分の中に宿っているものを他者に譲らないのと民族外のものに排他性を持たないのって、実は共通してると思う。

つまり、実定的な規範(ユダヤ法など)が重視される場合には超越者との関係はよそよそしいものにされるけど、その超越的な「本質」を資格なしに誰しもが持っているとすると、どういう条件下に置かれている人であっても、そういう教義を理解できるならその人はキリスト教を信仰することができるようになるよね。もちろん人種的な区別なしに。

これはいわゆる構成主義-本質主義みたいな構図だと、超レベルの高い本質主義ということになるのかな。ものすごく内部的なんだけど、そこに差異が存在しないレベルに純粋な本質を立てる、というコンセプト。

この本質の共有みたいな路線を頑強にやっていったのがいわゆるグノーシス主義ということになるらしい。このグノーシス主義の話題に関連して、トマス・アクィナスの話もしてたな。

トマスによれば神は純粋な知性体なのであるが、同時に自己反省も行うので、その結果生まれたのが子であるキリストなんだとか。どういうこっちゃ。

なんかずっと出てきてるけど、こういう哲学における「反省」って言葉の意味はマジでずっとよく分かってないな。やってること自体は多少わかるけど、それに伴ってどういうことが起きるのかはマジで謎。そこらへん誰が解説してくれないかな。もし詳しい人いたら教えてください。

後は少し前に授業があった谷口論文の話をしてた気がするけど、もう全部忘れた。私は眠かったからほとんど意識がなかったよ。

最近意味なく早起きばっかりしてて意味不明なんだよな。こういうキショい生活がかさんでいきなり死んだら怖すぎる。大袈裟だろうか?


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