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午後の白い光 〜 伴走小説 #1


<あらすじ>
都内の大学に通う僕(タカシ)は、旧いBMW(車)を手に入れた事で、ヴィンテージのBMW(バイク)を乗りまわす同学年のユウキと出会う。彼は破格の美男子だったが、その生い立ちに闇がある事を、無二の親友となった僕は知る。
ユウキにはサキという恋人がおり、彼女も破格の美女であったため、「完璧な絵」のような存在となった。僕にも恋人が現れ、四人は五月の連休の空いている道を郊外へピクニックに出かけ、時代の最良の空気を呼吸するような幸福な時を過ごす。
やがて美男美女のカップルは、その高潔な生き方、優しさと繊細さゆえ、別れる。輝きは失われる。
シティポップが鳴り響く中、スピードと熱狂、友情と死、恋愛をめぐる、群像劇。


「それで、彼とはどんな風に知り合ったってわけ?」

硬めのスポーツシートに座りなおすようにして真美は言った。

「えっと、BM(W)繋がりって、やつかな」

「ふうん」

納得した、という風でもなく彼女は頷き、車体がかけ登ってゆく坂道の先を見た。

ステアリングの中央に位置するのと同じ白と青のエンブレムが、ボンネットの少し先に見える。と言っても、向こうはバイク、二十世紀に生産された、ヴィンテージ、と言ってもいいぐらいの代モノだ。

前世紀の大学生ならば、車やバイクは関心の的だったのかもしれないが、今更それを話題にする者などいない。まあ、何にしろ、今更感というのはあるのだけれど。

坂の上で車線に合流すると、視界が展けた。ゴールデンウィーク中の首都高速は、いい具合に空いていて、前方の黒いバイクは荒野を得た馬のようにスピードを上げた。ハンドルを握る彼はカウルの前に身を屈め、後ろの彼女はしっかりと彼の腰を抱きしめた。

追走する僕の車は、さすがに今世紀に入ってから製造された物になるが、旧いBMWは手が掛かると、風評みたいなものが蔓延したせいで、格安で手に入れる事が出来た。単純にラッキーなのか、それとも悪い噂が過ぎたのか、今のところ深刻な故障に見舞われた事もなく、自然吸気の直列六気筒エンジンは快音を奏で始める。

(今では生産されなくなった形式のエンジンでね)

などと野暮な説明など、もちろん彼女にも、それ以外の者たちにも、避けたほうが賢明だろう。今更感たっぷりにキャンパスに集まった者たちへの、処世術みたいなものを自分も身に付けようとしていたわけだが、どこから聞き付けてきたのか、「君が購入したBMWに俺を乗せてくれ」と言って聞かなかったのが、前を行くR100の男、優樹だった。

車内では当然の事のように、いかにこのエンジンが素晴らしいか、シャーシがスポーティに締め上げられているか、彼は僕に説明し続けてくれた。もっともそれは彼自身未経験の、耳知識に過ぎなかったのだけれど。

曰く、「大切にしろよ。もうすぐガソリンエンジンの栄光は、終わりになるらしいからな。文明の、最後の輝きってやつだ」

オシャレというのも気が引けるぐらい、都会人の純血種みたいな雰囲気の優樹が、なぜそんな熱血漢めいた事をしたのか、という点に関しては、車の中が密室である事も多分に関係したのだろうけれど、その後ことある毎に、彼の内燃機関をもつ乗り物への関心が、興味の範囲を超えて、愛にまで至っているのを、僕は知る事になる。

僕の前に、デートの申し込みを受け入れてくれそうな女性が現れたのを知って(そんな事まで僕は彼に話すようになっていたのだ)、優樹は「なら、ダブルデートしよう、ドライブで」と言った。

「同乗して行くのではなく、俺たちはバイクで、お前らは、車で、にしようじゃないか」

高速の段差を、車体は容赦なく拾う。最新の車の助手席に乗り馴れた女性ならクレームが出てもおかしくない?分からない、自分には、ドライブの純粋な愉しみがあって、旧いBMWはそれにうってつけで、何がデートに適切か、そちらの方まで考えがまわらなかった。

「ふうん……」

しばらく黙って、晴天の下首都に建ち並ぶビルディングのどこかに視線を投げていた真美は、しかし横目で見る限りは、特に居心地悪そうにしているわけでもなさそうだった。そして、優樹のことを、根掘り葉掘り訊いてくるのでも……そんな女性が、世の道理みたいに後を絶たない事を、僕は身を以て知っていたから。

彼女たち曰く、「どうやら、あなたはユウキ君の友達、それもかなり親しい部類の友人みたいだけど、どうしてそんな奇妙な事が起こるのか、今は問わないけど……それより彼について、色々と教えてくれない?」

まるで人類の珍しい事例を眺めるかのように、怪訝そうな表情を浮かべて僕に詰問してくる女性たちの列に真美が並んでも、おかしいとは思わない。けれども彼女は、優樹の話は早々に引き上げ、後席で彼を抱き締めている、恋人へ話題を集中させた。

「それにしても、あの人、サキさん、だったかしら、本当に素敵よね」

正直に言うと、僕はその、早希という優樹の恋人をあまり知らなかった。会ったことは少なからずある。優樹はよく、彼女をバイクに乗せて僕の前に現れたし、そのまま三人で時間を過ごす事も多かった。それでも、彼女と何かを話したという記憶がほとんど無いのだ。

彼女が僕に何かを話しかけるとしたら、それは優樹の言葉のある部分の反映であり、個人としての彼女から放たれるものではなかった、と思う。しかし、誤解を恐れずに言うのなら、もし僕が何か、彼女自身の事柄を話しかけられたりしたら、(それは腹が減ったとかむかついたとか、瑣末な事であっても)落ち着かない気分になったに違いない。

「あんなに綺麗な人と、もし二人きりになったら、私、何を話したらいいか……」

起伏の多いこの車のシートにも、彼女はそれなりに安息の地を見つけたかのように見えた。少なくとも乗り心地にクレームを付ける気配はない。

「ああ、分かるよ。いつだったか、三人である店でお茶していた時、優樹がトイレに立って早希と二人になった僕は、胸が苦しいような窮屈なような、どうすればいいのか現実から逃げ出したいような気分になった。もちろん、僕は親友である優樹の彼女を、彼らが二人でいる時の姿を通じて、好ましいとは思っていた」

「美しいとは、そういう事よ。嫌いなはずはない、嫌いになれるわけがない、でもそれは、ある程度距離を置いて、眺めていた方がいいのかもしれない、ごめんなさい。彼女のことを何も知らないのに、私、とても嫌なことを言っている」

そう言って、移り変わる景色の中で他に重要なものなど無いかのように、早希の後ろ姿を真美は見つめた。ぴったりしたレザージャケットの肩にフルフェイスのヘルメットから流れ落ちた黒髪が妖しげに揺らめいていた。

「話してみたら、案外気が合うかもよ」

自分でも気が滅入るほど凡庸なことを言っていると分かったが、ドライブデートで会話が無くなるという事態を回避する術を、僕は知らないのだった。プレイリストにしておいた、1980年代のシティポップも、真美は古過ぎると思うかもしれないし、かけないでいた。

「ふうん」とまた、彼女は鼻を鳴らした。でも、先ほどよりも緊張が解け、表情には軽い笑みさえ浮かんでいるように見えた。凡人の俗っぽさが、人を安心させる時もあるのだ。カーステレオに、手を伸ばした。

『ライド・オン・タイム / 山下達郎』

窓に映る都市の膨大なあれこれ、様々な人が住み色とりどりの広告看板が並び個人の想像などはるかに超えた出来事があちこちで起こっている、その迫り来る圧苦しさが、今日は少し緩んでいるように見えた。人々がどこかへ出かけて都市が閑散としている事と、それは関係しているのかもしれない。燦々と降り注ぐ五月の陽光の下、街はどことなくゴーストタウン、かつて隆盛を極めた者たちが去ってしまった場所に見えた。

直列六気筒のエンジンは滑らかに回転数を上げてゆき、車体を先へ、その先へと進めてゆく。時に乗り、時を刻め……シルバーのフェンダーの僅か前方に、レザージャケットが鈍い光を浮かべる、その周辺だけ特別な何かの気配に包まれているように、何かから、手招きをされているように、長い黒髪が揺らめいている。

じきにバイクは高速の出口を降りた。

「渋滞には絶対に巻き込まれない」と優樹は言った。頑張って遠出をして、ノロノロ運転にはまるような野暮は、バイク単独ならまだしも、後ろに車を控えている身として、避けなければならないのだ、と。


都市の景観に森の影が混ざり込み、やがて樹々の輪郭が鮮やかに眼に映るようになった頃、バイクは停まった。

脱いだヘルメットの中から艶やかな黒髪がこぼれ落ち、首を僅かに揺することによって黒革の肩から背中へ流れていった。その様子に目を奪われていた真美は、早希が自分に近寄ってくるのを見て震えだした。麗人が到着するよりも前に、車のドアを開け、彼女の手を取った。真美に触れた最初の瞬間だった。イギリス流のレディファーストに僕が馴染んでいる筈もなく、シートが低く深い車のせいで、真美がぎこちない姿になってしまわないためだった。

早希が、自分の意思をはっきりと示して動く事自体が稀だったからか、それは引き伸ばされた時間のように眼に映った。次に何が起こるのか心が揺さぶられ続ける、そんな甘美な夢に人が永く酔いたいと願うように。

早希の前に我々が手を握り合って(それは固く結ばれていた)立った時、真美の表情に浮かんでいた様々な雲は跡形もなく消え、今日の空のように隅々まで晴れ渡っていた。

「マミさん、サキです」

平均的な身長の男性よりも上の方から差し出された手は、握ってしまうのが躊躇われるほど華奢で繊細に見えたと、後で真美は言った。

「普通に触れると、壊れてしまうように思えた」

でも彼女は、我々を結ぶ掌とは異なる、空気に漂う微細なものに触れるような「そっと」さで、早希の握手に応えた。驚いたのは、早希からの彼女への触れ方が、真美の「そっと」よりはるかにソフトで、「微かな」ものに感じられた事だった。

「いったいどうしたらあんな風に、他人に触れる事が出来るのだろう」と後で真美は僕にため息をもらした。

握手をしながら、早希は真美に言った

「あなたと、心から、親しくなりたいと思っています。私は、たぶん鈍感さからなのでしょうけれど、色々な人を傷つけてしまいます。自分では意図しなかった、なんて言うつもりはありません。でもマミさん、もしも私の無神経さに気付いたら、どうか遠慮なく言ってほしいんです」

真美は混ざり気のない笑みを浮かべていたけれど、どういうわけかそれは泣き顔のように見えた。もちろん涙など浮かべてはいない。でも、雲一つない晴天の裏側で、どしゃ降りの雨が降っているようにも思えたのだ。さらに固く握られた僕の手には、今ここで降っている雨音が響いていた。

いずれにしても、僕が早希の本心と思しき言葉を聞いたのは、その時がはじめてになる。淀みなく口から出た言葉は、その意味がもつ感情的(エモーショナル)な内容とは別に、完璧な音韻で騙られた日本語のようでもあり、その分なぜか抑揚を欠いて聞こえた。

「やあ、はじめまして、よく来てくれました」

早希の背後から現れた、太陽を背にした男の影の中に白い歯が現れた。真美が最初に見た、ヘルメットを脱いだ優樹の印象はそれだった。

「歯は、笑っているように見えた。おかしな言い方だけれど」これも後になってからの、彼女の言葉だが、僕は深く頷いた。

彼女は影と握手をした。僕の手を握る掌からも、力は抜けて、どこにも雨降りの気配のない笑顔を浮かべていた。

緑の草原の上に、虹色のシートをひろげた。

車にナビを付けていないから、ここがどの辺なのか、あまり見当が付かない。優樹は場所がどこであるのかよりも、混んでいない事、気持ちよく過ごせそうな所を選んで、バイクを停めたのだろう。どこか、東京の郊外であるのは間違いない。

不思議な場所だった。近くを小川が流れていて、静かに水の音が聞こえた。小高い丘の中腹らしく、眼下には都会のビル群が、かなり遠くの方まで見渡せた。丘の頂には、いくつかの煙突とアンテナが見え、あまり生活感のないマンションが建っていた。

「気持ちがいい」

革のジャケットを脱いだ早希は、Tシャツとジーンズ姿になり、ブーツと靴下も脱いで裸足になって、草原に身を横たえた。汚れるからと真美が気を揉むのも聞かず、あなたはここに来てと、ふんわりしたスカートを着てきた彼女にレインボーシートに腰を降ろすよう手を引いた。

初対面の麗人からの申し出を邪険にするわけにもいかず、戸惑いながらも言うままにすると、早希は絡み付くように真美の上半身を抱き、自分の腹の上に真美の頭を乗せた。

「ああ、だめよ、そんな……」

真美は抵抗を見せたが、身体のどこにも力が入っていないような早希は、その長い手足で真美がもがけばもがくほど絡み付き、真美の方で力を入れてしまうと、早希の身体のどこかに、傷を与えてしまう事にもなりかねなかった。

腹の上に、大事に抱え込むように真美の仰向けの頭を乗せた早希は、「ねえ、気持ちいいでしょ」と言いながら、時折髪を撫でた。いや、触れるか触れないか、微妙なところで、自らの指や息遣いを、流れる風の仕業に合わせた。

女性にとって、殊に初デートの彼女にとって、衣服や髪に触れ乱してしまうのは罪深い事なのだと、充分に知った上でなお、行われている振る舞いなのだと、呆気に取られている僕以上に、当事者の真美は、驚いたのだろう。今度ははっきりと、目に涙を浮かべていた。

「ええ、本当に、気持ちいいわね」

女どうしが上手くやっているのを見届けた優樹は、「買い出しに行こう」と車に僕を誘った。近くにコンビニエンスストアが律儀に営業を続けているのをチェックしていたらしい。


買い出しから戻ると、女たちはくすぐり合いでも始めたのかと思うぐらい、きゃっきゃと声を上げて笑っている。

森の影から、彼女らの姿を追う者がある。スマホを構えている。食料を僕に預け、優樹はその、虫みたいな発光体に駆け寄る。影の力を、全身に漲らせる。彼ら二人と付き合うようになって何度も見てきた光景だ。発光体は、どこかへ去ってゆく。

タブを引くとプシュとコーラは爽やかな音を立てた。五月の昼下がりの白い光が優樹の身に纏わり付いた影を全て洗い落とした。

優樹がなぜ、僕のようなこれと言って特色のない人間と親しくしているのか、女たちはまるで整合性のないミステリー小説でも読んだみたいに、わざわざ僕を観察しに来ては、クエスチョンマークを表情に貼り付けた。早希と付き合うようになって、物語のオチに納得しながら、彼女らは去っていった。

「特色がない?よく言うね、まったく」、ふさわしくない登場人物に対する女たちの動向を報告すると、笑いながら優樹は言った。

自分を凡庸な人間だと自認するほど達観したわけではないが、優樹や早希のような人間と親交を結ぶ事で、見せつけられる事になる、特別と言えるものは自分には何も無いという現実、せめて、親が他人に言って恥ずかしくない程度の大学に行き、近い将来白い発光体の背後にあるものに取って代わられるかもしれない経済というものを学ぶ事ぐらいしか出来ないという現実からは、目を逸らさないでいようと思う。

「サキさん」

「サキと呼んで、あなたをマミと呼ぶから……いいかしら」

「ええ、もちろん……サキ(そう呼びかけた時の真美の表情は、恍惚としたものとなっていた)……あなたはいつもバイクの後ろで、こういう風に人の身体に手をまわすのに、馴れているのでしょう、ずるいわ」

そう言って、くすぐられた子供のように笑う真美の「ずるい」が向けられたのは、優樹のようにも、思えてきた。

「マミも、これからいくらでも、していいのよ……あんな事も……こんな事も……」

じゃれ合いの中で、ゆっくりと早希の唇が真美に近づいていった。午(ひる)の光の中でまどろむように、真美は目を閉じた。

「おおい、早くこっち来いよ。全部食べちまうぞ」優樹の声が聞こえた。

テーブルとベンチのある場所に食べ物をひろげた。そこは木で組み建てられた柵に覆われ、天蓋を藤の花が咲き乱れていた。

「それにしても」、真美は僕に向けて言った。「バイクと車に分乗してのダブルデートって、珍しくない?車で四人でも、行けたのに」

「マミさん」優樹が応えた。

「マミ、でいいです。あ、敬語も、やめますね」

真美は自分一人だけが、ゲストっぽくなって、周りに気を使わせている事に、気付いたのだった。そうして自分も気を使っている感じになると、余計周りも気にする。気負わず、すっと入っていけるのが大切で、言葉で言うほど簡単ではないのだが、真美はそれが出来る女性のようだった。彼女は運転が上手い女性だと僕は確信した。

馬鹿みたいにスピードを出す事ではなく、ドライブの巧拙は、ラインに乗せるのがスムーズかどうかに関わっていると僕は思う。ラインを想定するには、空間全体への把握力が必要になる。

「崇司(タカシ……僕の名前)は、馴れているんだよ。マミ(ぎこちない)、が来てくれるまでは、三人で会っていた。後ろにくっ付いてくるのは、習性なんだ」

「ああ、誰も君たちに並んでなど、走れない」

大きく口を開けて齧りついたハンバーガーを咀嚼しながら、僕は言った。

「よく言うよ……車をバイクに追走させる方が、難しいんだぜ」

優樹はピザのチーズを長く伸ばし、糸状になった先の方から口に入れる。

「タカの運転は、上手いでしょ(真美に目配せする)……後続車って、私の場所からだと凄く怖いんだ。でもタカだと、安心する。時々、助手席に乗ってみたいなって思うぐらいに」

サラダスパゲティのレタスをフォークで刺してから、くるくると数本のパスタを巻き取って、早希は口に入れる。食べる時、食べない時の差が大きいのだが、今日は前者のようだった。

「どうぞ、さすがに交代して、バイクの後ろには乗れないけれど」

やや強いタッチの冗談も、女性たち二人は言い合えるようになっていたらしい。

「彼のドライビングは、上質よ。今まで何人かの助手席に乗った事はあるけど、自分は酔いやすいと感じていた。特にブレーキの踏み方には、人格が現れると私は思っている。その人が考えるデリカシーの基準って誤魔化せないものがあるから」

しっとり海苔のおにぎりを真美は頬張る。食の細い女性では無いようだった。食べるのが好きな僕は、ラーメンを少しずつゆっくり食べて半分残すような女性とは、付き合ってゆけなかった。特別な理由はなくても、どういうわけか、関係が続かない。ぱりぱり派に比べて少数派の、しっとり海苔のおにぎりを選ぶのも、共通していた。

「たしかに、そうね、マミ……タカはきっと、何だって上手く乗りこなすわ」

どぎつい事を言っているようで、早希の表情から、言葉以上の意味を汲み取る事は出来ない。あまりにも真っ直ぐなもの、あからさまにそのままでしかないもの、そこから何かを読み取ろうとするのは、咲いている花にエロスを見る心の在り様なのだと、真美と僕は顔を赤らめる。

「でも私は、車とバイクが並んでいたら、どうしたってバイクの方に乗っていたいの」

あっけらかんと、早希は続ける。

「バイクが好きなのね、サキは、自分でも、運転しているの?」

レザージャケットにヘルメットとブーツの姿がじつに様になっているのを見たら、真美でなくてもそう尋ねるだろう。

「いいえ、二輪の普通免許までは、持っているけれど、親からも止められているし、自分では運転したいと思わないの。ユウキの後ろに乗っているのが、好きなんだわ、きっと」

「サキは、後ろの席に乗るのが、上手いんだ」

とりあえず初期の空腹は凌いだから、あとは適当につまむという風に、フライドチキンを手に持って優樹は言う。

「なによそれ、後席に上手いとか下手とか、あるの」

「あるんだよ、それは、明確に。タカと違って、俺のバイクの運転は、荒っぽいと思う。いや、言い方が違うな。どんな時も、俺はバイクという乗り物にのる限り、それと一体化したいと思ってる」

「ああ、それは、一緒に乗っていて、分かる。ユウキはバイクに対しては、優しい運転をしているんだって……機械に意思があれば、の話なんだけど……人の都合で、ノロノロと、安楽に運転したりはせず、馬が走りたがっていれば、そのように手綱を引き鞭を打つ。彼の後ろでは、時々本当に、これは生き物なんじゃないかって思える時がある」

「ああ、まったく、美しくて速い生き物だよ。だから俺は、サキ以外、後席に乗せた事は無い。馬と一体化できない者だと、妙なところに力を入れて荷重がかかって、その人間は吹っ飛んでしまいかねない」

「ユウキのように生き生きとバイクを走らせられないから、自分でそれを操ろうと思わないのかも……馬が可哀想って」

「そうだよサキ、君はどこにも力を入れないから、いったん、制御を失うと、外部の力が全部君に向いてしまう事になる。危険だから避けた方がいい」

優樹の言葉に、僕は先ほどの森の中の発光体を思い出した。影の力を身に集めてそれに向き合おうとした、彼の姿を。影の中で笑った白い歯を浮かべて、彼はそれに立ち向かおうとした。

「本当に、お似合いのカップルね。絵に描いたようなって、あれ、言葉だけじゃなかったのね。でも言葉そのものっていう現実は無いから、大抵は齟齬が生まれて、人はそういうのを見つけるの早いから、彼が浮気性とか彼女が浪費家とかケチ付けるのだけど、今、私が見ているのは、現実が生んだ奇跡という感じもする。さっき車の中で、お二人がどうやって知り合ったのか、訊こうとしてたんだけど、やめておくわ。あまりにも普通の話だと、幻滅しそうで」

「いいよ、べつに……いたって普通の話だけど」

「そうそう……ナンパされたのよ、彼に」

「やめて、聞きたくない」

耳を塞いだ真美に、他の三人は大きく笑った。

午後の陽は少し傾いたが、日没までにはまだ随分時間がありそうだった。引き伸ばされた午睡の夢のような時間が過ぎていった。


優樹がどんな女性と付き合うのかは、もちろん注目の的だった。その相手が早希になった事で、問いの回答を得たかのように、女たちも妙に納得している風だった。

真美が告げたように、人は自分の聞きたい物語しか、聞こうとはしない。そして、思っていた展開と異なると、そこは違うと文句を垂れる。耳を塞いで聞かなければいい、とは思わない。物語ではなく、目の前にいる人の、現実を見ようとしない。

僕の場合は事情が異なっている。追いまわされるのではなく、彼は自分から、空冷水平対向のツインエンジンをばたばたいわせて、僕のガレージにやって来た。

「いや、旧いBMWを手に入れたものずきが、ここにもいるって聞いてね」などと言いながら。

彼が美男子であるのは、疑いようもなかった。おそらく大抵の俳優よりも容姿が優れているのは、贔屓目に見るのではなく、歴然とした事実だった。背が高く(180センチに近い僕よりも目線が少し上だった)、バイクの運転を見ても分かるとおり、長い腕と脚の動きは新たな時空を作り出した。彼と遭遇した者は、その存在をある種の事件のように感じ、探偵よろしく前後の関係を読み取ろうとする。

だからと言って、外見上の出来事が、ガレージで互いの乗り物を見てにやけている、二人の間柄に影響を与えるわけではなかった。外の世界で彼の容姿が惹き起こしている様々な事件も、そこには及ばなかった。

事件に肉薄しようとする者たちは、甘い言葉や褒めそやしで彼に近づこうとする。その列に、僕は加わらなかったわけだ。表に出ようと僕を誘い助手席に乗っている時、彼は少しずつ、自分のことを話すようになった。

曰く、幼い頃、両親が別れて、以来母親に育てられた事、父親と称する者が何人か代わった事、父親の中には彼に暴力をふるう者、窓の外に彼を締め出して食事を与えない者がいた事、生まれてこなければよかったと思う時もあった事、今の父親は名前は出せないが政治家である事、その人物に学費を出してもらい、バイクも買ってもらった事、などを、窓の外を流れる都市の風景を眺めながら、彼は僕に話した。

彼が生来の美男子で、周りからちやほやされて本人もその気になって、家柄も良いお金持ち、などという事だったら、もちろん人間にはそれだけなんて事は無いのかもしれないが、そういう部分しか見えてこない男だったら、なるべく早く、彼の前から去っていたと思う。

現に、女たちが品定めするように僕の前に現れるなど、余波は受けていたのだ。大学生にもなると、育ちの良い者は同類でグループを作る。彼らが呼吸する空気を乱さないために。安い車を買うのにも長期ローンを組んだ自分には別の世界だった。

優樹は、戦っていた。あるいはもしかしたら、既に何かの戦いに勝った人間なのかもしれなかった。たとえばF1レーサーは、毎年参戦しては去ってゆくその他大勢ではなく、実績を重ね勝利にまで至った者には、不思議と十人並みのルックスの男はいない。時に命を引き換えにするほど過酷な競争、スピードの追求、強烈な勝利体験が、特殊なホルモンを生み出し、男性の外見を変えるのかもしれない。そう考えると、優樹の美男子ぶりも、腑に落ちた。

何かと戦って勝った、その自信は、彼の人間性を支え、外見にも影響を与えたのだと。

「タカ、よかったよ、今日はここに来れて」

白い光を仰ぎ目を細める優樹は今、自分を存分に解き放っているようにも見えた。身体の一部のように馴染んだレザージャケット、タイトなデニムとつま先の細いブーツ、洗い込んだお気に入りのプリントTシャツ、そんな、バイク乗りならお決まりのスタイルが、百貨店でGGマークの新作を買い漁る者たち(不思議と腹のぽっこり出た者が多い)よりはるかに魅力的なのを、無頓着に放置している。

いつもなら、こうはいかない。

白い発光体に追い回されるに決まっているのだ。先ほど森の中で遭遇したよりも、はるかに多い数の。

(インスタをやって、ウチの服を着てもらえませんか、みたいな事ばかり、言われるんだ)

早希はよくそう言って、ため息を漏らした。女友達と遊びに出かけても、自分だけに向けられるカメラの目の連鎖、友達に迷惑をかけられないから、彼女は孤独になるしかなかった。

優樹と出会ったのは、だから、必然みたいなものだった。彼だけが、本当の意味で彼女を理解できたし、逆もまた然りだった。ヘルメットを被って、バイクに乗って、目という目から、逃げてしまうのだ。

「ユウキにとって、バイクとはどういうもの?」

真美からの屈託のない質問を、彼は五月の爽やかな風に吹かれるように受け、応えた。

「そうだね、まずバイクは、俺の人生で出会った、もっともパワフルな存在ということになるな。速さや美しさも、魅力の一つではあるけど、それ以上に、自分自身を超える可能性を秘めたものとして、俺の心を魅了するんだ」

「サキは、どう?」

「まったく同じ意見よ。バイクは、自由と冒険の象徴であると同時に、自己表現の手段でもある」

この世の中に素敵というものがあるのなら、それは君たちのことを言うのだと、そんな意味のことを真美は言った。昼下がりのひと時、アルコールを飲んだわけでもないのに、気分が酩酊する瞬間を感じた。閑散とした森の中で、ひっそりと咲き乱れる藤の花の香りが強く匂った。

もしも都市とか時代という漠然としたものが、いつか美しい花を咲かせるとしたら、それが人間だとしたら、早希という形を取るだろう、と突拍子もないことを僕は思った。花を見つけ、その香りを深く吸い込み、胸に抱いた時に、彼は本当の意味で戦いに勝った。あるいはようやく自分自身になれた。それぞれが独立して輝いていた二人は、しかし二人でいる時には不思議と相互に依存し合っているというか、互いに欠くことの出来ない存在に見えた。それは、完璧な絵なのだ。構図から彼か彼女のどちらかを引くと、手足をもがれたように不安定に見える。

ふわりとした綿のようなものが自分に触れている。いつの間にか、眠っていたようだった。目を開けると、草の先をこよりにした真美がいたずらな笑みを浮かべている。自分が危ういバランスのところまで行ってしまったようで不安だった。

陽は傾き、空気には時おり冷たい風が混ざった。少し遊び疲れた感のある女性二人はレインボーシートにぼんやりと腰を降ろし、隅で胡座をかいた優樹はどこまでも遠くを、見るともなく見ていた。

「二十歳を越えた、俺たちは、どうする、これから」口の中で、優樹は言う。

「就活だものね、来年は」真美は応えた。

「サキはもう、決まりかけているんだ」

「いいえ、ただいくつかのテレビ局の人が、絶対に通しますから、とか言ってくれているだけよ」

「アナウンサーね、納得だわ、サキなら」

「いいえ、マミ、私には、とてもうまく出来ると思えない」

「分からないじゃない、その場になってみなけりゃ」

「違うの、失敗する姿ばかりが、浮かんでしまうの。まだ水泳コーチをしている自分の方がイメージ出来るぐらい」

「水泳が得意なの?」

「いいえ」

「私は、起業をしてみたい。そのための準備として、就職をするつもり」

「いいわね、夢があって、私にはそういうのが思い描けなくて」

「タカ……お前はどうするんだ?」優樹が口を挟んだ。

「まあ、普通に、就職するだろうね」

「マミみたいに、ジャンルは決まっているわけ?」

珍しく、早希が僕に話しかけた。何の感情も見当たらない透き通った瞳は、こちらの思いを全て吸い込んでしまいそうに感じた。

「い……いや……特に」

「つめた……」

頰に雫がとんだ。

「わあい……」

近くでスプリンクラーが回りだした。早希が跳び上がり、真美がそれに続いた。

「なぁ、タカ、お前、いつか、今日の俺たちのこと、書いてくれないか」

真美は手前で歩を止めたが、早希はスプリンクラーが描く輪の中心にまで入り込んで飛沫を浴びた。虹が立ち上がった。

戻ってきた時に早希は、Tシャツが肌にぴったりと貼り付くほど、濡れていた。指を先の方までぴんと伸ばして、まぶたの上で陽の光を遮ったり、掌をひらひらと空中に漂わせているさまは、古来伝え聞く、水辺から陸に上がった美しい生き物がダンスをしているようにしか思えなかった。

「風邪を引くよ」

早希をレインボーシートに座らせ、真美が髪を少しずつ束ねてはハンカチに包み、指の腹で丁寧に葉ごみを取ってやると、突然、わーんと声を上げて早希は泣き出した。

「私、もうこんなに、幸せには、なれないんだわ、きっと」

真美の目からも、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。涙は止まる事がなかったが、彼女は懸命に同じ作業を続けた。

ひくひくと早希が肩を痙攣させた時、優樹の顔色は変わった。

「まずい」

彼が早希の身体を抱え込んだ時、彼女の嗚咽は叫びや吐くようなものに変わった。二人はキスをしたが、それはおそらく、彼女の気道を正常に開けさせるためのものだった。彼が撫でさすっているうちに彼女の嗚咽はおさまっていった。

呆然と傍に突っ立っている、僕と真美を見て、「もう大丈夫だ、今日はここで終わりにしよう、本当に、ありがとう」と優樹は、窮地に立たされた者が最後に見せるような、特別にやさしいものを含んだ笑みを浮かべて言った。


「あなた、私、ちょっと、危ないところだったわよ」

「ええ……どういう事かな?」

土地勘の無い場所から帰り道を見つけるまで車を流している間、真美は言った。

「女の、女子的な部分って、可愛いもの、綺麗なものが、いつまでも大好きなの、だから危険だった。サキみたいな子の……」

「ええと、僕は、何と答えれば、いいのだろう」

「あなた、私をデートに誘ってくれたんだよね……それで私は目一杯、自分なりに、お洒落をした。ダブルデートと言ったけれど、あんな二人と一緒だなんて」

「う、うんと……」

「ユウキは、たしかに魅力的だけど、私は、あなたがデートに誘ってくれた方が嬉しかった。その事実だけがあればよかった。でも……」

「でも……?」

(適当な場所に車を停めた)

「サキみたいな子と私が二人で、あなたは良かったのかって事よ……どうしたって、向こうに目がいくでしょう。それは極めて自然な事でしょう」

「それは無い。僕はそんな風に、人を見た事は無いんだ。きっとだから、彼らも僕との付き合いを気安いものに感じてくれているんだと思う」

「本当に?私とサキが並んでいても」

「本当さ、僕は君を、デートに誘ったのだから」

シートの深い起伏を越えて、我々はキスをした。

「ねえ、今夜私を抱いて。サキの余韻が、まだ妖しく私に残っているから」

カーステレオはプレイリストの続きを鳴らしている。1980年代のシティポップ。

『スタンダード・ナンバー / 南佳孝』

ロードサイドのモーテルで、その夜僕と真美は結ばれた。

↓第2話


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