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読書ノート 「日本人の心を解く 夢・神話・物語の深層へ」 河合隼雄 河合俊雄訳 

 河合隼雄のエラノス会議講演集。息子の河合俊雄さんが英語の原文を訳出している。国内ではこの岩波現代全書で刊行され、その後岩波現代文庫になる。五つの講演は、1983、84、85、86、88年に発表された。

第一章 「相互浸透─中世日本における夢」1986年講演
第二章 「明恵夢記における身体」1983年講演
第三章 「日本神話─神々の均衡」1985年講演
第四章 「日本の昔話─美的な解決」1984年講演
第五章 「とりかえばや─性役割交換の物語」1988年講演


 第二章「明恵夢記における身体」はその後『明恵 夢を生きる』(1987)、第三章「日本神話─神々の均衡」は『神話と日本人の心』(2003)、第五章「とりかえばや─性役割交換の物語」は『とりかえばや、男と女』(1991)という主著になっている。また第四章「日本の昔話─美的な解決」は逆に主著である『昔話と日本人の心』(1982)から展開したものである。
 第一章 「相互浸透─中世日本における夢」は、『宇治拾遺物語』を題材にしている。これについてはその後の展開がなく、河合隼雄はこの主題を掘り下げる前にあの世に行ってしまったのかも知れない。内容的には『宗教と科学の接点』の「自然について」と一部重複する。ここでは第一章について記載しノートを取っていくことにする。


「真に個性的な生とはなんだろう。『宇治拾遺物語』にみられる夢への態度は、多層的な現実と様々な次元での生を指し示す。自我を中心におかない、存在の自主的な流れである「じねん」が導く先にある生のあり方を考える」

 夢は蝶のようなもの。捕まえると死んでしまう。胡蝶の夢。この世と夢の世界が相互浸透しあっている物語。

 中世日本の夢においては、死の世界は容易に入れるものであった。つまり、当時のコスモロジーには死、死後の世界が包摂されていたということ。夢、この世、死の世界が共時的に繋がっている。

 他人の夢を通じて自分自身を見い出す。日本人は「他者」の存在を通じて「私」を見出していると言っても過言ではない(第一人称の言い方「わたくし」「ぼく」「俺」「うち」「わし」「わたし」のどれを選ぶかは状況と話しかける相手によって決まる)。

 夢の秘密を守ることが重要。すなわち、夢に対して単に受動的な態度をとっていても、夢は機能しない。

 ユングは人間のことを「自然に反する作業」であるという。

 厳密に言うと、日本人は西洋文化との接触以前には文化や文明と対立する「自然」の概念を持っていなかった。

 自然とNatureは異なる概念。

「道法自然」→「タオは自分自身の性質に従う」「タオの基準は自発的なこと」「タオの法は自分自身の存在」「タオは自分自身の道に従う」「タオはその本性からして自分自身である。自分の模範にできるものはなにもない」


「じねん」すべてが自発的に流れる状態。前近代の日本では副詞や形容詞として使われていた。

 夢は自我、自己、自然に属しているので、日本人が元々理解している「じねん」の流れの中にある。つまり、宇宙のすべてはあるがままにあり、単にそこにある。


 フロイトは自我と無意識の関係を乗り手とその馬の関係に喩える。


 北条泰時は明恵の世界観に基づいた多くの大改革を行ったが、それは華厳宗の宗教観ではなく、素朴に理にかなった「じねん」の反映であった。

 明恵は泰時に言った。病の根本の原因である欲を無くさせるためには、泰時自身が欲を捨てなければならない。そうすることで、自然と国中が従うことになると。華厳宗の基礎的な教え、相互浸透する『縁起』の概念がそこにはある。


 縁起の真髄は「すべてのものの、力動的・同時的で相互依存的な出現と存在」


 アイデンティティの問題として、「個」はどのようにして「他」から区別されうるか。井筒俊彦はこう説明する。

「あるものにおいて『無力』な要素は顕在的ではなくて、『有力』で支配的な要素だけが実際には現れてくる。それにもかかわらず、無力な要素は存在していて、全てがあるものの深層─構造の一部であって、いわば下からものの現象的実在をまさにそのものとして前提にしているのである」

 明恵は夢のなかで「后」である盧遮那仏を拒否することで、女性への戎を遵守する。僧侶は戒律を守らなければならないけれども、そうすることは逆説的に自分の永遠の真理の一部を排除することを意味する。その両方を手にする方法はないのである。

 受動から能動に至る転回点が重要。転回点を把握するためには「じねん」に従う。

「もし個性が自分、物、自然の間の明瞭な区別をすることで確立されるならば、世界を観察する一般法則が多く発見される。これらの法則を適応することで、自然は効果的にコントロールされる。しかしながらこのような集合的な意識に支配されている限りは、自分のユニークさを確立することはできない。なまずは鯰にとどまり、武士は観音様になれない。個性への客観的な道のりは、自分の父親が鯰になったり、武士が観音様になったりすることを許容しない。

 他方で、他者に対して開かれているとユニークな生がおくれるかもしれない。しかしながらこの道のりは危険にさらされている。鯰が自分の父親であると信じることができるかもしれないけれども、命を落とすかもしれない。ユング派の用語で言うと、自分の個性は集合的無意識のなかで見失われるかもしれない。

 真に個性的な生は、ユニークな転回点も一般的な規則も、その両方を必要とする。これらの転回点には当然ながら規則がないかもしれないけれども、われわれはどこまでもコミットして物語を読むことを通じて、転回点への感受性を増すことができるかもしれない。われわれの夢というのは実際のところこのような物語であって、区別を超えた領域、すなわち『じねん』においてわれわれ個々人に授けられるものなのである」(河合隼雄)


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