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読書ノート 「純粋な自然の贈与」 中沢新一



 米国に渡ったピューリタンたちは、インディアンの風習「インディアン・ギフト」がとても奇異に映った。インディアンたちはたくさんの贈り物を交換し合い、もらったら必ずお返しをしなければ気の済まない人たちであった。ところが、インディアンの方では、ピューリタンのその倹約家ぶりが、信じられないほど異様なことに思えた。ピューリタンに高価なタバコのパイプを贈り物として渡し、そのピューリタンの行政官はありがたく持ち帰る。数カ月後、インディアンがその行政官のオフィスを訪問したら、その居間の暖炉にあのパイプが飾られていたのだ。インディアンは激しい衝撃を受けた。

 「白人はもらったもののお返しをしないどころか、もらったものを自分のものとして飾っている。なんと不吉な人々だ」

 インディアンの思考法では、贈り物は動いていなければならず、贈り物についている「贈与の霊」は、絶えず動き流れていないと、世界は平和にも豊かにもならない。贈り物は蓄積してはならず、無論自分のものにしてはならないというのが世界の理であったのだ。ところが、ピューリタンたちは、大地を循環する「贈与の霊」を蓄積し、動きを止めることによって自分の富を増大させようとしていたのである。インディアンにとって、それはまことに不吉の前兆であった。


 贈与にはものを結びつける力がある。それを中沢はエロスの力と言い、この力によって魂の流動する自他を超えた生き生きとした世界が現出するのである。ところが、それとは反対に、売買は分離の力、ロゴスの力をはらみ、「もの」と「ひと」、「ひと」と「ひと」の間に距離を作る。商品は分離を経て、共同体を飛び出し、異文化との交流を実現していった。そこにはロゴスによって、世界が分離されている必要があったのだ。

だが、贈与は、人々を分離した上で結合する。贈与は物の受け渡しの裏で、霊の受け渡しが行われている。そこにはあらゆるものが決定不能の状態のまま、豊かな対話や受け渡しや消費を実現している、高次元の世界を開こうとしている。あらゆる宗教が、この贈与の精神を語る。ブッダにの輪廻による惜しみない自己贈与の中から彼の人格は生まれた。イエスもまた、贈与のことしか語らなかった。イエスは商売を憎んでいた。売買から愛は発生しない。人間は無償の贈与者の愛に応え、この神を愛さなければならないと考えた。ハイデッガーも「存在とは贈与するもの」というテーゼに行き着く。「存在」を語る言葉は、ロゴスの働きから自由でなければならず、「存在」そのものがそうであるように、純粋な贈与の精神に満たされていなければならない。哲学は、純粋な贈与するものである「存在」との間に繰り広げられる、かぎりない対話のプロセスなのだ。


 狩猟から農業へ。人類は、「死への恐れ」に突き動かされて農業を始めた。財産は確かなものとなり、所有は堅固な形式を持つようになった。そして、そのかわりに、自然との契約の精神を失いはじめた。農業には「死への恐れ」、所有の喪失への恐れが潜在している。ここから商業までは、一歩なのである。

 無形の流動体である貨幣は不滅の価値となる。それは永遠性の獲得である。価値を消滅から救う画期的な方法を人類は見出したのである。この次は、情報化である。貨幣でさえ情報化されるのだ。私たちはここにも「死への恐れ」の新しい形態を発見できるのである。(序文より)

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